第四話「密かな期待と落胆」
「まずは手を見せて」
「…あの、貴方、様が手当てをされるのですか?」
「ああ、そのつもりだが?」
『何か不都合があるのか?』と言わんばかりに、きょとりとした顔で少年が小首を傾げる。
ノアが今まで見てきた貴族は、決してそんな雑事を自らやるような人間ではなかった。
それ以上に、躊躇いなく裏通りの人間に触れようとする少年の感覚が少しも理解できなくて、ノアはただ居心地の悪さを感じていた。
けれど、その説明を上手くできる自信もなく。
「…俺に触れてしまっては、お手が汚れてしまいます」
「何を言ってるんだ。君、湯浴みをしてきたのだろう?」
「いえ、そういう意味ではなく…」
「もし汚れてしまったなら洗えばいいだけのことだ。まあ、『君の言うように』汚れてしまうことはないけどね」
「………」
この奇特な貴族の少年は一体何を考えているのだろうか。
相手の考えが全く読めないことがこんなにも気持ちの悪いものなのだと、ノアは初めて知った。
「結構擦りむいているな…。消毒するぞ」
「っ、」
手のひらを広げられ、消毒液の染みた綿が傷口に当てられる。その瞬間にピリリとした痛みが走って、ノアは思わず小さく身体を震わせた。
「悪いな。もう少し我慢してくれ」
反対の手のひらも広げられ、同じように消毒される。一度その痛みを感じてしまえば、あとの痛みなど気にもならない程度だった。
――ノアの客の中には嗜虐的で、痛みで歪むその顔を見て喜ぶ者もいた。
そのときの痛みを思えば、こんな痛みは感じないに等しい。
そんなことを考えている内に少年のほっそりとした指は、ノアの足元に下りていた。
「捲り上げるぞ」
時折微かに触れる少年の指先がくすぐったい。
そんなことなど知る由もない少年は、露わになったノアの膝を見て僅かに顔をしかめた。
「こっちの方が酷いな…。痣もできている」
その言葉にノアも自分で膝の具合を確認すれば、そこには確かに擦り傷と小さな痣ができていた。
「…これくらいなら平気です」
もっと大きくて痛々しい痣ができることだってある。
本当にこれくらいの怪我ならば平気だと思っていたノアは、ふいに目が合った空色の瞳を見て息を呑んだ。
「――そう、だよな…。そうやって、痛みに慣れてしまうんだ…」
「………」
なぜ彼がこんなにも苦しげな顔をするのだろうか?
手際よく手当てをしていく少年の姿を、ノアは呆然と見つめていた。
「よし、これでいいだろう」
そう言って少年が立ち上がれば、ずっと扉の前で静かに佇んでいた男が動く気配がした。そうして男は少年から手当てしていた道具を受け取った。
「――さて。手当ても終わったことだし、本題に移ろうか」
「―――、」
再び向かいの椅子に腰かけた少年の言葉に、ノアはすっとその目を細める。
――やはり、この少年には何か思惑があったのか。
当然だ、とその事実を認める一方で、どこか落胆している自分がいることにノアは気づいた。
無条件で裏通りの人間に手を差し伸べる表通りの人間などいない。
それを知っていたはずなのに同等の人間のように扱ってくれた少年に対して、ノアは自分でも気づかぬところで密かな期待を寄せていたのだった。そうしてそんな風に期待をしてしまった自分が馬鹿らしく、恥ずかしくも思えた。
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