うちの近所でも銃乱射はしょっちゅうあるんですよ。みんな言わないけど、それは「いじめられっこの報復」なんです。子供と巻き込まれそうになったこともある。それでいつも思う。「公共の場で銃乱射する勇気があるなら、自分をいじめた本人にやれよ!」って。だからこの回を読んで、する側の気持ちはわかった。もちろん同情はしないけど。「うちの子だっていじめられたけど銃は乱射してないよ」って。でもそこで思う。その怒りを受け止めてなだめてくれる誰かがいる、というのは大切だな、と。うちの場合は私がその怒りといら立ちを受ける側に回ったけど、本気できつかった。親になるって大変だな、って思いました。だからといって、誰かを責めてるわけじゃない。人は性格もそれぞれだから。同じことを経験しても、感じることはみんなちがうので。生きていくのって、ほんと、むずかしい。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
月森 乙様のおっしゃる通り、どこでも銃乱射は起こっているのかもしれません。
周囲を巻き込もうと思うのは、復讐の対象は不正であり、不正はいじめっ子に限定されないからだ、という気がします。とりわけ子供は、自分一人で周囲に起こる様々な問題を解決する力など持ちません。となれば、真の不正は子供を取り巻く環境そのものに存在するのでしょう。
お子様にとって月森乙様は怒りを受け止めてくれる人というだけでなく、不正を正してくれる存在だったのかと思います。子供の環境のなかに正しさを示してくれる人の有無もまた、怒りが抑えようもないほど巨大に膨らむか否かを左右する一因だと思います。
生きるの、難しいですね。どんな経験をしてみても、どれだけ生きてみても、やっぱり難しい。
絶えず困難は向こうからやってきて、その度に新しい問いを突きつけてくる。
まあそういうものなのでしょうね。今も昔も。
お読みいただきありがとうございました。
ヴィルヌーヴの『静かなる叫び』、懐かしいですね。
そうそう、白黒ワイドで銃乱射事件をモチーフにしていました。2009年ですか。
原題『Polytechnique』って理工科学校って銃乱射現場そのものなんですよね。
この映画の結末は考えさせられますよね。
文中にもあるように、本当にこれでいいのかと。
人間には差別はあっても、流す血には差別はない。
そうなんですけど、何だかなあと思わずにはいられません。
作者からの返信
そのもやもや感といいますか、納得いかない感覚や、悲惨であるにもかかわらずカタルシスが欠如している点こそが、ヴィルヌーヴが生み出したかったものなのかな、とも考えたりします。
前提にあるフェミニズムとアンチフェミニズムの単純な二項対立として描かなかった(あるいはそれ以外の解釈に対する幅を意図的に持たせた)ことで、個々人に対してあらゆる形での問題提起を可能としたのでしょう。
私にとっては、根幹に触れる作品だったので、これを書いているうちにまた観たくなってきました。
お読みいただきありがとうございました!