第5話 セイレンの大渦
日の出まであと五時間。
満月が消えてしまえば、またゴーストの体に戻ってしまう。
焦燥感に駆られてはいたが、リーズの国王が出航させた船は、順調に海を横切ってセイレンの大渦まで近づいていた。
「でも、ここから先はどうするの?」
フェアトリアは甲板で夜風に吹かれているシアンに訊ねた。目的地はネオスティール島だ。海の大渦に遮られて、船は渡ることができない。
兵士に扮した彼はくっきりと空に浮かぶ満月を眺めながら、考え込んでいた。
「……どうするかなぁ?」
「ちょ、ちょっと!まさかの考えなし!?」
「いやいや、大渦は大丈夫。小舟を準備させてあるし……海の使者は、海に還るってシナリオさ」
「海に還るって……」
なんだか嫌な予感がする言葉だ。しかし、彼は良く気が利く男で、フェアトリアは彼が与えてくれた大きめのフード付き外套を被ることで、その下で半年ぶりの食事を堪能できている。柔らかいパンに、瑞々しいベリー、燻製肉とカップケーキまで……。
「……うぐっ、げふげふごふっ」
「そんなに急いで食べなくても……ほら、これ飲んで」
半年ぶりの食事でどれほど全身が歓喜してるか、普段から実体のある人間に分かるはずもない。
手渡された皮袋に入っていた水で、喉につかえたケーキを飲み下す。
「はぁはぁ……ありがとう。食事最高」
「良い食べっぷりだったぜ。さて、腹ごしらえもすんだことだし、もうひと芝居うってもらおうか」
なんだか新鮮だ。アレンジアの王女という高貴な身分であるため、こんな風にざっくばらんな態度をとる者は周りにはいなかった。人使いが荒いことも否めないが、突如気さくな友人ができたようで、悪い気はしない。
シアンの言うもうひと芝居、はそう難しいことではなかった。セイレンの大渦が立てる激しい荒波の音が近くなってきたところで、ここまで連れてきてくれた船員たちにお礼を告げる。リーズ国王が捧げてくれた贈り物と共に、小舟に乗り換え、大渦へと還る海の使者……。
「……と、海の使者に惚れて共に海に還ろうとする兵士って、それは少し無理があるんじゃない?」
「恋は人間も神も狂わせるってね。誰も止めなかっただろ」
「呆気にとられてたからよ……」
「悲しむやつはいない。衝撃は与えたかもしれないが、単調な人生には必要なスパイスさ。さて、このまま流れにのっていけば、セイレンの大渦は順調に俺たちを飲み込んでくれるはずだ」
「そ、それなんだけど、もちろんフリよね?私、泳げないんだけど……」
「泳げない?マーメイドの血を引いているのに?」
「うっ……関係ないでしょ。住んでるのは陸だし、普通に肺呼吸だし」
「泳げないマーメイドなんて、海の女神が聞いたら泣くぜ?」
「じゃあ、口に出さずに内緒にしててよ」
波に揺られる小舟の上で、シアンはおどけたようすで口に両手を当てた。
「ね、ねえ……そんなことやってる間にどんどん大渦へ近づいていくわよ」
「そういう計画だからな。まあ、せっかく実体に戻って、その結果が溺死じゃ可哀そうだから、一度ゴースト体に戻っておくかい?」
「そんな都合よく変われるわけないでしょ!」
「ところが、できるのさ」
不敵に笑ったかと思うと、シアンは夜空に向けて拳を突き上げた。そして、おもむろに指を広げていく。まるで捕まえていた何かを、解放するような仕草だ。
そして驚くことに、燐光を放ちながら輝いていた満月の周辺に、突如霧のように雲が出現したのだ。その雲が、満月を喰うように被さっていく。
「……なんで……」
フェアトリアの体は、みるみる透けていき、やがて被っていた外套がぱさりと足元に落ちた。アレンジア王城で着ていたドレス姿のままの、ゴーストの体に戻っていた。
「あなた、やっぱり魔法使いよ」
愕然とシアンを見やると、彼は肩をすくめた。
「俺は雲を盗んで、返しただけさ」
「なんでそんなことができるの?」
「それは、俺がすご腕の泥棒だからさ」
「泥棒って……え?あなた、泥棒なの?嘘でしょ!犯罪者じゃない!」
「あのねえ、そういう下品なこそ泥の類じゃなくてだな……まあいいや。とにかく、これも本当は盗もうと思ってたんだけど……リーズの王様が捧げてくれたものだから、盗品にはならないな」
言いながら、彼は丁寧に包まれてあった分厚い布地を取り出した。ロール状に巻かれていて、どっしりと重そうだ。
「布……?それを何に使うの?」
「言葉通り、海の女神イルージュに捧げるのさ」
大渦の余波で波が高くなり、激しく小舟が揺さぶられる。咄嗟に船の縁を掴もうとするが、フェアトリアの手はすり抜ける。
そこでふと気づく。
どうして、触れたり、触れなかったりするのだろう。
そうよ、椅子には座れる。ベッド下の床にだって伏せることができた。いまだってこうして、小舟に乗っている。
これってどういうこと?
「フェアトリア、いまは考えるな」
不安定な小舟の上に立ちながら、シアンが声をかけた。
「ネオスティール島に着いたら、俺が分かる範囲でその謎について話してやる。それまでは、何も考えるな。いまは俺の言う通りに行動するんだ。いいか、きみはゴースト体だから、セイレンの大渦に飲み込まれても溺れない。でも、渦の中ではイルージュの力が働いているから何もできない。何も考えず、何も恐れず、ただ力を抜いておくんだ。もし腕が引っ張られるような感覚があったら、それに従え。次に目を開けたときは、そこがネオスティール島だ」
シアンはそう言って、大渦めがけてロール状に巻かれていた布地をほどいた。布地がふわりと広がり、渦の中心への飲み込まれていく。
渦の引力でついに小舟も傾き、気づけば暗い海の中に放り込まれ、渦にのまれていった。
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