ⅤーⅢ・バイタルエリア
今から十二年前の、まだ茶摘みも迎えぬ春先のことであった。
その日、練習試合から帰宅中の少年は隔靴掻痒としていた。
プレイ中、不意の事故によって相手と接触してしまい、PKを取られてしまう。
少年が相手のボールを取ろうとしたさい、足が相手の足と交差し、転倒させてしまった。
もちろん少年もわざとやったわけではない。取れると思ったから足をボールに伸ばしたのだ。
さいわい、相手も転倒した程度で済み、お互いに謝ったためこのことは水に流れた。どちらも悪くない。本当に不意の事故なのである。
しかし、少年はその日を最後に、二度とサッカーができなくなってしまったのである。
別に、足を怪我したわけではない。今もこうして歩きながら自宅へと帰っていた。
「くそっ!」
少年は、近くにあったゴミ箱を蹴った。
「くそっ! ちくしょうっ! あれくらいで」
愚痴をこぼしながら、少年は公園のベンチに座った。
「なんなんだよ。あの監督は……、俺が悪いってのかよ?」
ガタガタと歯を鳴らしながら、少年は俯く。
「ちくしょう。俺はまだサッカーができるんだ。こんなところで終わっちゃいけないんだ」
少年は、ゆっくりと立ち上がった。
ふと遠くからボールの音が聞こえ、そちらに目をやった。
誰かがサッカーをしてるんだろうか――、そう考えながら、少年は音がした方へと足を向けた。
「あれ? ボールどこに行ったのかな?」
少女……妃春香は、自分が蹴ったボールがどこに行ったのかわからず、周りを見渡していた。
「もう、どうするのさ?」
友達の女の子が不貞腐れた声でたずねる。
「ごめん、むこうに行ったかもしれないからそっち探してみる」
そう言うと、春香は竹林の中へと入った。
「音の原因はこれか……」
少年は足元に転がっているサッカーボールを手に取った。
「畜生っ!」
ボールを蹴ると、竹林の中を反動していく。
「いったっ!」
女の子の悲鳴が聞こえ、少年はそちらへと近づいた。
「だ、大丈夫?」
少年は、うずくまってる春香に声をかける。
「お、おにいさん、だれ?」
「お、俺か?」
少年は一瞬焦った。それは春香が着ていた洋服の胸辺りにかけられている名札にあった。
「き、君……もしかして、璃庵由学園の生徒なのか?」
そうたずねられ、春香はうなずいた。
「そうだけど?」
春香はぶつけられた頭を抱えながら立ち上がる。
「そ、そうかい……」
少年は春香を見ながら、ゴクリと喉を鳴らした。
『――やばいぞ。もし俺がここで彼女と出会っていたことがバレてみろ。もしかしたらサッカーどころか、人生の終わりじゃないか』
「ねぇ、ここには誰もいなかったって云ってくれないかな?」
そう言われ、春香は首をかしげる。
その表情は、「どうして?」と言わんばかりである。
「いいか? 俺もあの学校に通っているんだ。それに今年は受験生で、もしこんなところに君みたいな……」
少年は、自分でもどうしてそんなことを思ってしまったのかと、後々思った。
自分は、最初からここにはいなかった。
彼女は、誰かが蹴ったボールに当たって、頭を打ったんだ。
それは、不意の事故なんだ。
ここで……この女の子を――。
春香は、恐々な表情をしている少年を見ながら首をかしげていた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもないよ」
少年は、ぎこちない笑みを浮かべる。春香は気にもとめずに、ボールを拾い上げると踵を返した。
『――ごめんな……、ただ、あの学校に通っていた自分も呪ってくれ』
少年は春香の背中を、強く押した。鈍い音が少年の耳をつんざく。
竹に強く頭を打った春香は、ダラリと血を流しながら、ズルズルと倒れていく。
少年は一目散に、その場から立ち去った。
「春香ちゃん?」
戻ってこない春香が心配になり、女の子は公園の中を回っていた。
そして、噴水のところに行くと、春香がそこで倒れていたのである。
制服は無惨に破られ、脛は赤く染まっていた。
『ど、どういうことだ? だって俺は』
遠くから見ていた少年は、確かに春香を殺した。しかしそれは竹林の中でである。
それから少年は、見つからないように竹林を後にした。
しかしその時、春香の遺体を動かしてはいないし、そもそも――。
【暴漢などしていないのだ!】
「どうかしたのか?」
どうしたものかと泣きじゃくる女の子に、一人の男性が近付いた。
髪は七三分けでいかにもインテリな雰囲気。
「あ、季久利先生」
女の子が男性を見上げた。
『――季久利先生? なんでこんなところに?』
少年も、目の前の男性に見覚えがあった。小学校の時に教えてもらっていた教師だったからだ。
「これは……、妃さんじゃないか?」
季久利は驚いた表情で叫んだ。
「せ、先生、どうしよう」
「落ち着きなさい。とにかく救急車だ」
そう言うと、季久利は携帯を取り出し、
「もしもし、救急車を……、はい、場所は」
その時、少年は、ゾッと背筋が凍るのを感じた。
電話をしている季久利の口元が、ありえないくらいに歪んでいたのである。
その後、救命隊員が公園の中に入っていき、春香の遺体を運んでいった。
そして、一週間後。事故によるものとして処理された。
「勇作? おいっ! どうしたよ」
男友達に声をかけられ、少年――勇作はハッとした。
ちょうど、あの事件があった公園の前を通ろうとしていたのである。
「いや、なんでもねぇよ」
「ってもさぁ、お前知ってるか? ここで女の子が暴行受けたらしいぜ?」
「そ、そうなのか……」
「最低だよな? そいつ死刑になればいいのに」
男友達は、本当に何気なく云っただけだ。何も知らないから言えた。
「そ、そうだな……、そんなやつ生きてる価値なんてないな」
少年は、気付かれないように手を強く握った。
「ちょっと、いいかな?」
目の前にいる男性が、二人に声をかけた。
あの公園で救急車を読んだ小学校教師の季久利である。
「あ、季久利先生、久しぶりっす」
「こ、こんにちわ」
二人の挨拶に、季久利教師は笑顔で答える。
少年は、季久利の屈託のない笑みを見ながら、あの時のは見間違いなんだろうかと思った。
「そうだ。少し柴川に話があるんだが」
その声に、少年――柴川勇作は喉を手でつかまれた気がしていた。
「は――はい。なんでしょうか?」
「いや、ちょっと大切な話でな……、済まないが」
季久利が男友達に視線を向けた。
「あ、わかりました」
察した男友達が柴川に別れの挨拶をすると、そのまま去っていった。
「あ、あの……」
柴川は、季久利を見すえた。あの日のことを聞かれると思ったのだ。
「まったく……、大変なことをしてくれたな」
「え?」
季久利の言葉に柴川は理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「せっかく俺が目をつけていたというのに……」
「せ、先生?」
「しかし、死姦というのも悪くなかったな」
季久利はかけていたメガネをクイッと上げる。
その目には相手から楽しみにしていた獲物を取られたようにギラリと光る。
『な、何を言ってるんだ? この人は』
「それをお前が殺してしまった。俺はその処理をしたんだ」
「まさか、あの女の子を先生が?」
「ああ、あの学校に通ってる女の子は結構レベルが高くてな、去年くらいに異動できて万々歳よ」
季久利は笑みを浮かべた。
頭が狂ってる。柴川はそう思った。
しかし、春香を直接的に殺したのは自分だ。
だが目の前にいる季久利という男はそれ以上の、人とは思えない所業をしている。
「さて、ここからが本題だ。私は彼女を犯したところを見られていない。それにあの学校はある程度の不祥事を隠すことくらいできる。それにだ――」
季久利は歪んだ笑みを浮かべながら柴川に顔を近付けた。
「お前が行っていたクラブは、たしか河山センチュリーズだったな?」
そう聞かれ、柴川はうなずいた。
「あそこのオーナーは、ちょっと警察に顔がきくらしい」
季久利はこう続けた。
もし春香の死因が暴漢殺人によるものだと、警察がわかっていても、捜査をすることはできないと、柴川に言ったのである。
「つまりだ。お前が妃春香を殺したというのを知ってるのは、お前以外誰もいないってことだ」
「せ、先生はどうなんですか?」
「おれか? おれは一生捕まることはないよ」
季久利はそう言うと、柴川の頭を軽く叩いた。
本当に軽くである。
しかし、気が動転していた芝川にとっては金槌で敲かれたかのように脳がグワンと揺れるほどの衝撃があった。
「いいか、俺とお前は同じ穴の狢だ」
その後、柴川と季久利において、妃春香殺害に関する噂はたつことはなかった。
そして十二年後の現在――。
紆余曲折を得て、公務員という理由だけで警察官となった柴川は、先輩刑事の個人的な捜査のために資料室へと足を運んだ。
そして、その事件に関する資料を一通り調べたことで、自分がしたことを、心の奥底にしまい込んでいたはずの、誰も知らない彼の犯罪が浮き彫りとなったのである。
【二〇**年 三月*日 被害者妃春香 死因撲殺。竹やぶの中で遊んでいたものと思われる】
「な、なんだよこれ?」
柴川は捜査報告書を見ながら唇を震わせていた。
あの公園で起きた事件についても下記の通りであった。
【二〇**年 七月*日 被害者『熊川憂』。首を絞められ殺害】
【二〇**年 六月*日 被害者『横嶋幸』。衣服を破られ、後頭部強打の末殺害】
【二〇**年 九月*日 被害者『亜草ひばり』。激しく体を打ち付けられた痕有り】
捜査資料にはそう書かれていた。
そして、そのほとんどがあの噴水がある公園でのことであった。
警察もバカではない。いくらなんでもこんなに事件が起きれば違和感を覚えるはずだ。
その時柴川は、あの日季久利が言っていた言葉を思い出した。
『――そういうことかよ。あんた、最低だ。俺以上に、最低な人間だ!』
柴川は、季久利が行った人外な行動に激情した。
ふと、近くに交通事故に関する事件の資料が置かれていた。
『――刑事課の事件なのにどうして?』
交通事故に関する事件は基本的には交通課の仕事である。
その事故が殺人によるものだとすれば、刑事課にあっても可笑しくはない。
中身を見てみると、そこには、事故によって死んだ被害者の名前が書かれていた。
『――これって、たしか昔あったやつだな。近くだったからよく覚えてる』
そう思いながら、芝川はパラパラと資料をめくっていく。
被害者となった少年の中に、聞き覚えのなる苗字が書かれてた。
「能義……直之? 能義って、まさか先輩の子供?」
しかし、その資料には事故によるものとしか書いていなかった。
「でも、なんで警察なのに本当のことがが書かれていないんだ?」
芝川はそう思いながら、畑千尋の事件についての資料に手をやった。
【二〇**年 六月十八日 被害者『畑千尋』。学校の帰宅中に暴漢にあう。犯人は道重幸也、璃庵由学園中等部三年】
それを見るや、柴川は喉を鳴らした。
上はすでに犯人を捕まえていたのである。
しかし遺族はおろか、警察である自分たちですら知らなかった。
いつも、資料室には置かれていなかったのである。
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