六十二話 私の半生4
『こ、う、じ』
いくら呼びかけてもこうじは起きる気配を見せない。
悪夢でも見ているのかずっと魘されているだけ。
折角言葉を覚えたのに試す機会がやってこない。
言葉が分かるようになったから、漫画も読めるし、小説も読めるし、アニメも見られる。
頑張ればゲームもプレイすることができる。
時間なんていくらでも潰せる。
だけど、それでも、私はこうじと話してみたかった。
『こ、う、じ、お、き、て』
――うーん、うーーん……。
『わ、た、し、は、こ、う、じ、と、しゃ、べ、り、た、い』
……。
こうじは起きない。
退屈だ。
いつになったらこうじは起きる。
私はいつかこうじが起きる時を夢見て、名前を呼び続ける。
『こ、う、じ、お、き、て――』
……。
『こーじ、おきて――』
…………。
『こうじおきて――』
………………。
『こうじ起きて――』
…………………………。
『起きて、こうじ――』
………………………………。
『……起きろ、こうじ――』
…………………………………………!
『起きろ、こうじ! 貴様いつまで寝ているつもりだ!』
――うーん、うーん……。
揺すってもこうじは起きない。
いつまでも何も返さないこうじに段々いらついてきた。
思えば、私が怒りに支配されやすいのもこうじのいつまで経っても寝ていることが原因な気がする。
そしてある時、遂に私の世界に別の声が響いた。
『起きろ、こうじ――』
いつものようにこうじの名前を呼ぶ。
――うーん、うーん……? ……誰だ? 誰かが俺を呼んでいるような気がする……。
いつもと違う反応が返ってきた。
こうじが目覚めようとしている。
胸が高鳴った。
「――かはっ!」
胸が高鳴るのと同時に誰かが咳込む音が聞こえた。
……いや、誰かじゃない。
これは、私だ。
私の口から空気が飛び出た。
そのまま私の身体は何かを求めるように動く。
何故だか苦しい。
こうじがやって来る前のような苦しさを感じる。
もうなくなったと思っていたのに、また苦しさがやって来た。
『……こうじ。これは何だ。……怖い。どうすれば良い。分からない……。どうしてまたこんな……』
何が起こっているのかが分からない私は、起きないこうじにしがみ付いた。
こうじが起きている事なんて知っている訳なんて無いのに、何故だか私はこうじに縋り付いた。
こうじの手をぎゅっと握る。
『……!』
反応なんか無い。
そう思っていた。
だけど、こうじが私の手を握り返してくれた。
びっくりしてこうじの顔を見ると、半ば目が開けられていた。
――うーん……。鼻でも詰まっていたか……? まあいいや……。もう少し、もう少しだけ寝かせてくれ……。
そう言ってこうじは目を閉じて寝息を立てた。
『……!』
私の手を握りながら、また眠りについたこうじになにか言いたくなり口を開いたがとある事に気付いた。
『……苦しさが消えている?』
何が起こったのかは分からない。
分からないが、きっと、こうじが私を助けてくれた。
「――○△□、×□○△□○△」
声が聞こえた。
聞いた事のない言葉だった。
またびっくりしてこうじの顔を見たが、こうじは気持ち良さそうに寝ている。
じゃあどこから……?
「×□○△□○△――?」
また声が聞こえた。
そして気付いた。
この声は外から聞こえている声だ。
あまりの煩さにいつか意識的に排除した外からの音。
外に誰か居る。
『……』
誰かが私の傍にやって来た。
正直、怖い……怖いが……。
右手に伝わる感触が私に勇気をくれる。
外に居る誰かに話し掛けてみることにした。
私の考えが合っているのなら、傍に居る人はここまで私の命を繋いでくれた人だ。
「あ、あ――あ――――」
ありがとう。
たったそれだけの言葉を出す事も私は出来なかった。
口が開けない。
舌も上手く動かせない。
喉から空気を送るのも難しい。
自分の無力さが嫌になる。
『○△□。□○△×□○△』
声が響いた。
今度は外からではなく、私の頭の中で響いた。
よく分からないが、今私の頭に語り掛けた人と、外から声を掛けた人は恐らく同一人物。
『あ、ありがとう』
私はそう言った。
『……ありがとう。…………ありがとう? □○□□○○△△××?』
声の持ち主は「ありがとう」という言葉を反芻した後、知らない言葉を呟いた。
……?
どうして先程からこの声の持ち主は知らない言葉を話すのだろうか。
『なるほど、そうか。これは日本語か』
声の持ち主はそんな当たり前の事を言った。
『失礼。コウジの記憶を精査した際に知った言語ではあるが、使わない言語であるから対応出来なかった。すまない』
声の持ち主はそう言って謝る。
低く、重量感のある厳かな声だ。
『……』
話し掛けてくれた声に言葉を返したい。
返したいが、良い言葉を思いつかず何も喋れない。
『そうだ、名乗るのを忘れていた。我の名はギニス・ネスティマス。君のパパだ』
『……父?』
『ああ、その通りだ。我がパパ。そして君は、我の娘』
『……娘』
なるほど。
私の命を繋いでくれたのはこの人だったのだ。
この父上が外で私の事をずっと守ってくれていたのだ。
……ただ、少し違和感がある。
『うむ。君は我の娘。君の名前はアズモ・ネスティマスだ』
『私はアズモ……』
なんと言うか……。
『……日本人っぽくない名前』
漢字でどうやって書くのだろうか。
亜逗藻? 亞豆茂? 啞図摸?
漢字で書くのは無理そうだ。
でも、父上の名前がギニス・ネスティマス。
父上の名前も日本人っぽくはない。
『日本人っぽくないのは当然だ。我達は日本人では無い』
『……』
こんなに流暢に日本語を話しているのに日本人ではないのか?
……ハーフってやつだろうか?
日本系とヨーロッパ系のハーフっていう説なら分からない事もない気がする。
しかし、それなら私は何者なのだろうか。
旅行者? 移住者?
『そもそもここは日本では無い』
『……』
そうか……ここは日本では無かったのか。
なんかそれはちょっと……漫画やアニメが見づらそうで嫌だな……。
でも、そしたらここはどこだ?
イギリス? フランス? オランダ?
『この地はスイザウロ魔王国という名前の国だ』
『……?』
雲行きが怪しい……。
スイザウロマオウコク?
聞いた事の無い国名だ。
そしてそんな物はこうじの記憶上にも存在しない。
こうじが高校一年生の時に地理の授業でもらった地図帳。
2024年に発行されたその地図帳のどこにもスイザウロマオウコクなんて無かった。
いや、もしかしたらコウジの読んでいないページにそんな名前の国名が書いてあるのかもしれないが。
『そしてここはスイザウロ魔王国の初代魔王に任されたオロスドラコーンという地――』
『――しょ、初代魔王?』
相槌を打つのが苦手なので黙って聞いていようと思ったが、聞き捨てならない言葉が聞こえたせいで流石に割って入ってしまった。
『うむ。初代魔王のキーリア・スイザウロだ。パパはこう見えて交友関係が広いから、様々な知り合いが居るのだ』
『魔王……』
スイザウロマオウコクではなく、スイザウロ魔王国が正しい表記なのだろう。
もしかしてここは私の知っている世界ではないのではないか?
と、というか……魔王ってなんだろうか……。
RPGだと倒すべきボスとして描かれるような存在。
極悪非道の限りを尽くしている悪者。
倒されて当然の存在。
魔物を統べる王。
そんな魔王が統治する国に生まれた私って……。
どうしよう。
やっぱり、「勇者一行を倒して来い」とか言われるのだろうか。
とても嫌だな……。
道を阻む側ではなくて、道を突き進む側が良い。
待ち構えるのではなく、冒険がしたい。
私は自分の目で色々な物を見てみたい。
……最悪夜逃げしよう。
『そう、魔王だ。魔王家にはアズモと同じ歳の双子の子が居るから会った時は仲良くすると良い』
『仲良く……』
無理だ。
魔王の子供と仲良くするなんて出来っこない。
人と……人間と仲良くするだけでも大変そうだと思ってしまったのに、魔物と仲良くするなんて私には出来ない。
『王子や王女と仲良くなんて難しいと思ったか? だが、心配する必要はない』
私が委縮するのを感じた父上が、私が全く気にしていない部分の弁解をする。
『何故なら、我は竜王だからだ。魔王と違って国を治めている訳ではないが、我ら一家はこの国……いや、この世界の抑止力として、王という称号を与えられた名誉王家だ』
『竜……。私は人間ではない? ここは異世界なのか?』
いよいよ我慢ができなくなってそう聞いた。
『ふむ……。日本語を話せる所から、コウジの記憶を見て物を知ったのは理解した。が、まさか、アズモにとっては正世界であるここを異世界とは、な……』
私の言葉を聞いた父上が感慨深げにそう呟いた。
『おかしいとは思わなかったのか? こうして言葉を発さずに会話が出来る事に。分かりやすく言うのなら、我達は今テレパシーを使っている訳だ。コウジの記憶を見ているのなら、これが到底存在しえぬ事象である事は明白であろう?』
『……私にとって、こうして話すのは普通のこと……』
右手でこうじの指を握った。
だって、私もコウジも、
『なるほど。アズモの身体には二人がいるからして、言葉を発さずに話す事が普通であるということか……。ふむ、面白い。やはりアズモは特別な力を持っているのだな』
父上は何が面白いのか、楽しそうにそう言った。
『失礼。娘の可能性を感じ過ぎて成長が楽しみになってしまった。さて、ここがコウジの居た世界と違う事を証明するために外を見に行こうか。目は開けられそうだろうか?』
『無理だ。私は目の開け方を知らない』
『ならば、我の視界をアズモと共有しようではないか』
――。
途端、一歳くらいの娘の綺麗な顔が視界一杯に広がった。
娘の下には、娘の身体の大きさには不釣り合いな程に大きなベッド。
娘は、黒い手袋を着用した大きな手に抱えられていた。
『この可愛い子は?』
『その子がアズモの姿だ』
やはりそうなのか……。
可愛さの極値かそれに近しい値を持っている。
ここまで文句の付け所がない完璧な容姿を持っていたら嫉妬の対象にされる事もない。
一種の芸術作品のような可愛さを持っていて良かった。
これなら人生……いや、竜生イージーモードだ。
『見えるか?』
時間にして僅か数秒の移動。
ベッドから歩いて五歩くらい。
窓の前に立った父上がそう言った。
『……これは夢?』
青い空と眩しい太陽。
ここまでは日本でも同じ物を望める。
その空に浮かんでいる、鳥でも、飛行機でもない、大きな何か。
様々な色が無秩序に混ぜられた継ぎ接ぎの翼。
翼とは対照的に黒一色の胴。
胴から伸びる同じく黒色の前脚と後脚。
刺々しくて、しなやかそうな、黒い尾。
人間を600人程乗せて空を飛ぶ旅客機程の大きさの何かの目がこちら――父上の手に抱えられる私の事を見た気がした。
『――ここが、現実だ』
父上が私の呟きに応じる。
これが現実なのだとは受け入れ難い。
出来が良くて趣味の悪いCGアニメーションでも見ている気分だ。
父上と視界を共有しているが、それ以外の感覚は何も伝わってこない。
陽の光から齎される暖かさも、私を抱えている父上の手の温もりも、空を飛んでいる何かが羽ばたいている音も何もかも私には伝わらない。
現実だと言われても、受け取れる情報の少なさから、私の脳は「これは悪い夢だ」と認識しようとしている。
『……飛んでいるのはアズモのお兄ちゃん竜、長男のアギオだ。巷では無限龍とか呼ばれている。あれらがネスティマス家最大の戦力だ』
『飛んでいるのはアギオ兄上……だけ?』
無限龍というアギオ兄上の別名を聞いた私はそう聞いた。
空を飛んでいる黒い竜は全部で三体いる。
みな一様に、同じ色の極彩色の翼を携えている。
カラフルな翼の配色が全て等しいように見えた。
『あそこに飛んでいる竜は全てアギオだ』
……あれら全てが、一人の兄上。
『無限龍はその名の通り、無限に増殖する。あいつは死ぬ事が許されていない竜だ。右手の親指を切られたら、直ぐに切られた親指が生えて再生する。そして、切られた親指からは、それ以外の全て――親指を除いた残りの指、腕、胴、頭、左腕、脚が生えて来る。あいつはそうやって無限に生き続ける。それが無限龍の名前の由来だ』
『……』
『さてどうだ、日本だと有り得ない光景であろう?』
『……悪い夢を見ているみたいだ。だが、これが現実……なのか……』
ここが私の世界。
三体の黒い竜がそれぞれ別の方向に飛んで行く。
すると、近くの山の頂上から一輪の赤い花がにゅっと生えて来た。
かなり距離があるのに、はっきりと見える大きな花。
あれも異世界にしか存在しない規格外の花なのだろう。
花なのに、力の差が理解できるから兄上が居た間は隠れていた。
賢い花。
『アズモ、先に言っておく。我ら一族は凄まじい感情の昂りに支配されると、先程のアギオのような超常の力に目覚めてしまう。それもとびきりのだ』
『……悪い事なのか?』
『とても悪い。あれは悪い力だ』
『どう対策すれば良い?』
『何か一つだけに依存しないようにすれば良い。この世界で大切なものに沢山出会って、特別なものを沢山作ると良い。特別なものの何か一つに何かがあっても、他の沢山の特別なものに助けてもらえるような環境を作っておけば良い。……要は、依存先を沢山作っておけば良いという事だ』
『大切なもの……難しい……』
『大切なものは何でも良い。物でも、人でも、思い出でも何でもだ。なんだったら我でも良い。我はとても強いから何か起こる事なんて有り得ない』
『分かった』
私に限ってそうはならないだろう。
私は冷めていて、打算的な人間なのだから大丈夫だ。
なんて思いながら私は父上にそう答えた。
―――
「私に限ってそうはならないだろうって……その自信は何処から来ていたんだよ……!」
アズモの頬をグリグリしながらそう言った。
「しょうがないだろ。私達竜王家は自意識過剰で自己肯定感が産まれた時から高めに設定されている」
「自己肯定感が高すぎるんだよ! そのせいで判断ミスっているじゃねえか! だいたい、一歳の時に自分に対して『一種の芸術作品のような可愛さ』とか思う奴が何処にいんだよ!?」
「ここに居る。あれは脚色ではなく事実。エッセイだから」
「何が『エッセイだから』だよ」
「むっ」
アズモは頬を膨らませてグリグリをガードした。
「言わせてもらうが、ラフティーだって絶対私と同じ反応をした……と思う。鏡に映る自分を見て『パパ! 誰か居るわ! なんか可愛い子が居たわ!』『おいおい、それは鏡っていうやつだぜえ! 鏡は姿を反射するもんだから、ラフティーちゃんの言っている可愛い子って言うのはラフティー自信だぜ!?』『あたしってこんなに可愛いの!? 流石あたしだわ!』とか馬鹿みたいに甘い会話を繰り広げているに決まって
いる……と思う」
「それは、まじでやっていそうだな……。でもそれとこれにどんな関係があるんだ?」
「自己肯定感が高いせいで判断を間違えるのは私が悪いのではなく、私の家が悪い」
「いや、自惚れやすいのはアズモ独自の特徴だろ。アイデンティティってやつだろ」
「……! 私は今ちょっと傷ついた。そんな正論を言う子にコウジを育てた覚えはないのに」
「まあ俺だってアズモに育てられた覚えはないからな」
「だが、コウジのお母さんみたいに、起きないコウジを起こし続けた。つまり私はコウジのお母さんだ」
「お母さんを自称するならせめて一人でコミュニケーションを取れるようになろうぜ? 俺の実の母は休日にサンドイッチ作って友達とピクニック行くくらいにはアウトドアだし、社交性もあるぞ」
「私はお母さんではなく、子供なのかもしれない」
「事実子供だろ。だって俺は子育てしている気持ちをアズモでめちゃくちゃ味わったからな」
「むっ」
「怒んなって」
「すー……」
むっ、と言いながら両頬を膨らませて大袈裟に「怒っていますけど?」アピールをするアズモの両頬を両手で挟み、空気を抜いた。
「いやしっかしあれだな、アギオ兄さんの異形化の詳細初めて聞いたけど、びっくりするほど最強だったな。てっきり、どんな怪我でも瞬時に治す超再生能力がアギオ兄さんの異形化時の力だと思って――」
「――コウジ」
「ん?」
「これは私のエッセイ漫画なのだからこれを読んで出る感想は私に対する感想の方が良いと思う。その方が私は喜ぶと思う」
アズモはさっきと違って頬を膨らませていないが、さっきと違って冗談ではなく本気で怒っていそうだった。
「いつの間にか思春期入っていたんだな、アズモも」
「順調に成長していっている証だ」
「まったく……どんどん可愛くなりやがって……」
「ふん」
一瞬闇を醸し出したアズモだったが、少しおだてられたら直ぐに元の調子に戻った。
それすらも可愛く思えて俺はアズモの頬っぺたをむにむにした。
「わたひがかああいいのはほおへんのことだ」
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