夏の記憶
風が身体を撫でる。
そこかしこから虫の声が聞こえる。
湿気に満ちた熱気が空気を支配する。
「――」
藁帽子を被った人間の男の子はやけに楽しそうに鼻歌を口ずさむ。
男の子は先っぽに穂がついた緑色の植物を片手で振り回しながら歩く。
近くに川があるのか水のせせらぎが聞こえる。
風に揺らされた葉がカサカサと音を立てる。
ひたすらに青い空を、見た事の無い何かが飛んで行く。
景色が一定で変わらない。
水の溢れる畑と木だけが続く。
――何処に行こうとしているのだろうか。
男の子の顔から流れる汗がポタポタと落ちていく。
私を抱える腕がじんわりと熱を帯びていく。
事が起きたら何も起きずに直ぐに死んでしまいそうな男の子は畦道を歩いて行く。
どのくらい歩いていただろうか、遠くから誰かの声が聞こえて来た。
「――耕司ー! 居るなら返事しなさーい!!!」
得た知識に無い言葉だから何を言っているかが全く分からない。
だが、焦りを感じられる声だった。
「――!」
声を聞いた男の子が走り出した。
畦道から逸れ、背の高い草を掻き分け、小さな橋を渡って、坂道を登ったあたりで家が見えて来る。
家の前には人間の女性が立っていた。
「もー、やっと帰って来た! いつも急に居なくなるんだから! 危ないんだから一人で遠くまで行っちゃ駄目っていつも言っているでしょ!」
「ただいま!」
「おかえり!! どこ行っていたの!?」
「とうもろこし畑まで行ったよ」
「なんでそんな遠くまで――!」
女性は男の子に何かを注意しているようだが、男の子は明らかに全く意に介していない。
ニコニコしながら女性を見上げているだけだった。
「はあ……。もういいから取り敢えずこれからお昼ご飯だから手を洗って来なさい。どうせ色々触って来て汚い……」
女性が何かを言って私の方を見る。
「……何それ?」
男の子にガミガミ言っていた女性が毒気を抜かれたようにポツリと漏らした。
私の存在に気付いていなかったようだった。
「田んぼで拾った」
「何処で取ってきたとかじゃないの。お母さんはそれが何なのかを気にしているのよ」
「たぬきかも」
「たぬきは普通青くないのよ」
「じゃあナメクジかも」
「ナメクジもたぶんだけど青くないのよ。あとナメクジだと思うのならそんなの持って帰って来ないでね」
……これは、少し不味いかもしれない。
女性の興味が私に移った。
男の子は年齢故か私の事を全く気にしていなかったが、女性はきっと大人……この男の子の親なのだろう。
大人なら魔物の脅威を知っている。
初めて見る景色に翻弄され、何もせずにここまで来てしまった。
追い出されるか、殺されるか……私はどうなってしまうのだろう。
でも……それもありかもしれない。
私は無限龍に追われる身。
どうせいつかここに来る無限龍に殺される。
それなら別に……。
「犬かも」
「だから犬もそんなに青くないのよ!」
自分がこれからどうなるのかを考えていたら、宙に浮く感覚に見舞われた。
女性が私の事を手に取り、男の子に見えるように私を掲げた。
「見なさいこの子のまん丸なフォルムを。水みたいに透き通った青色で手や足がないどころか目もないわ」
「そうかも。猫でもないかも」
……この女性は何を言っているのだろう。
言葉が分からないから何を言っているのも分からないのだが、私の気にしている事を全く気にしていない気がする。
どうしてなのだろうか。
魔物の事を知らないのか。
戦火に巻き込まれた事が無いとかがあるのだろうか。
魔物が攻め入って来た事のない秘境だったりするのだろうか。
「たぶんこの子はあれだわ。ゲームや漫画に登場するスライムって子よ、きっと」
……。
悲観的な感情が消えていった。
言葉が分からないはずなのに、「この人は大丈夫」という気持ちが芽生えた。
この女性の手は、男の子の手と同じように温かい。
「スライムってなに?」
「最初の町周辺に出て来る雑魚モンスターよ」
「弱いんだ。じゃあ僕が守んないと」
「大丈夫よ。経験値の足しにもならないから狙う人も居ないわ」
「そうなの?」
「ぷよぷよしていて硬さを感じられないし、きっとそうよ」
……。
遠慮なしに身体をムニムニされた。
なんだろうか。
自分でもよく分からない複雑な感情が芽生える。
この親子に敵意が無いのは分かるのだが、だからと言って良い扱いをされている気もしない。
「まあ良いわ。耕司が拾って来るヘンナノを気にしていたらキリがないもの。さ、ご飯だから手を洗って来なさい。この子はお母さんが綺麗にしておくわ」
「はーい」
女性に抱えられ、人間の家にお邪魔する。
初めて入る家がまさか人間の家になるとは思っていなかった。
「ただいまー」
「お帰り、耕司」
横開きの扉を潜ると、素朴な服に身を包んだ男性がやって来た。
「ん、たぬきでも拾ってきたのか?」
「なんであなたも耕司と同じ事を言うのよ。この子はスライムだわ、たぶん」
「あー、まあ野生動物じゃないならご飯をあげても大丈夫か」
再び現れた人間に身構えかけたが、それも杞憂に終わった。
この男性も当たり前のように私が魔物である事を気にしない。
それどころか、私が魔物である事を良い事だと捉えているようだった。
きっと、この男性は男の子のお父さん。
男の子と同じ優しそうな瞳と暖かい雰囲気が私にそうだと思わせる。
経験した事のない空気に晒され居心地の悪さのような物を感じる。
なんなのだろう、この家族は。
いくらなんでも慣れ過ぎてはいないか。
受け入れる時間なんてものは与えられることなく事が進んで行く。
男の子のお母さんが肌ざわりの良い布で私の身体を拭い綺麗にする。
お父さんが家の奥へ誰かを呼びに行く。
手を洗って来た男の子が戻ってきて私を持ち上げる。
机の上に置かれ、直ぐ傍にある椅子に男の子が座る。
お母さんが食事を机の上に置いて行く。
身支度を終えたお母さんとお父さんが食卓を囲い席に着く。
まるで、私の時間だけが止まったみたいだ。
私だけがこの空間についていけていない。
変わらず固まり続けていると、奥から更に人がやって来るのが分かった。
きっと、お父さんが呼びに行っていた人。
「――おやまあ、見ない子がいるね」
白髪の女性だった。
腰が悪いのか、杖を突きながらやって来ていた。
「……!」
男の子のお婆さん……だろうか。
その人もここに居る人間達と同じように柔和な雰囲気を纏っていた。
しかし、私はそれどころでは無かった。
見ない子と言った。
――お婆さんの放った言葉の意味が分かった。
ここまで――男の子も、お母さんも、お父さんの言葉も全部分からなかった。
種族も住む場所も何もかもが違うから、何かを言っている事が分かっても何を言っているかは分からなかった。
纏う雰囲気や感情、それを聞いた人の反応から凡そを察したようになっているだけで、意味は分からない。
だけど、このお婆さんは違う。
「長く生きていると色々あるみたいでね」
それまでとは違う理由で固まる私に対してお婆さんはそう言い、頬に笑みを浮かべる。
「いただきましょうか」
お婆さんが次に発した言葉は私の知っている物じゃなかった。
「「「いただきます」」」
お婆さんの言葉に続いて三人が似たような言葉を発する。
「ほら、キミもだよ。私の言葉に続いて」
「……!」
またお婆さんが私の知っている言葉を口にする。
「いただきます」
「…………イタダキマス」
この言葉にはどんな意味があるのだろうか。
「……喋った!」
「あ……」
手を合わせて謎の言葉を発するお婆さんに続いて言葉を発したら近くに座っていた男の子が嬉しそうに何かを言い、私を抱え上げる。
「へえ、スライムって喋れるんだ。口とか無いように見えるのにどこから言葉を出しているんだろ」
「もう一回喋って! 名前は! どこから来たの! 教えて!」
「私も見てみたいわ!」
「ぴ……」
男の子とお母さんがキラキラした瞳で何かを捲し立てる。
私の事について知りたい、そんな思いを感じた。
人間に何かを求められるのが初めてな私は翻弄されてしまい、情けない言葉を発する事しか出来なかった。
「こら、二人がくっちゃべるせいで客人が困っちまってるべ」
「ごめんなさい……」
「えへ、えへへ」
お婆さんが何かを言うと、男の子が申し訳なさそうな表情を浮かべ、お母さんが頭の後ろを手で掻き「ついやっちゃった」とでも言っていそうな表情を浮かべた。
言葉が少ないはずなのに、表情がころころ変わるから何を考えているのかが分かる。
二人は私に謝っているように見えた。
表情が親子だ。
生きている間に人間の怒り以外の感情をこんなに沢山見られるなんて思っていなかった。
「……でも、キミの名前は私も知りたいね。差し支えなければ名前を教えてくれないかい」
二人を咎めたお婆さんが私の方を向き、言葉を発した。
今度は私の知っている言葉だった。
「……名前。私に名前はないです」
「あらまあ。じゃあ名前を付けましょうか。無いと不便でしょう?」
机の上で揺らいだ身体を直す私に対してお婆さんがそう提案する。
「え……」
人間が魔物に名前を付ける?
「いやだった?」
「そういう訳では……。でも、その……魔物に名前を付けるなんていやじゃないのかなと……」
「いやだなんてとんでもないわ。だって、名前を付けるのに種族なんて絶対に関係ないもの」
「……」
変わった人だ。
……いや、変わった人達だ。
どうしてそんなに魔物を受け入れる事に抵抗がないのか。
身を守る術も持っていなさそうだし、私が何かをしたら直ぐに死んでしまいそうなのに。
なんで私みたいな化け物を平然と受け入れる。
私がここまで何をしてきたかだって知らないだろうし、分かりようもないはずなのに。
「キミに何処かへ行くあてはあるの?」
「ないです……」
「ならしばらくここに居なさい」
「……」
言葉が出て来ない。
言葉を知っているという事は色々と知っているはずなのに。
どうしてそんな判断が下せてしまうのだろう。
積み重ねて来た経験の違いなのだろうか。
長く生きているとお婆さんは言っていた。
だけどそれは人間換算での話だ。
よくてせいぜい八十年かそこら。
八十年という時だったら洞穴の中でとっくのとうに過ごし終わった。
私にとっては取るに足らない数字でしかない。
引きこもって、生きて、逃げて……。
たったそれだけの事をするだけで精一杯だった。
時間の経過なんて気にした事が無かった。
――そう言えば、土色の壁の中に居た魔物も年齢を気にしていたな……。
――でも、そうか、私は長く生きているだけに過ぎないんだ。
何かを経験する事で生に深みが出るとするのなら、何かを経験すればする程良い物になるのだろうか。
今からでも何かをしたら、私の生も良い物だったって言えるようになるのだろうか。
「……ここに住ませてください」
そう言った。
この選択によって良い事が起こるのか、悪い事が起こるのかは分からない。
でも、何かをしてみたくなった。
私もこのお婆さんみたいな判断が出来るようになりたい。
初めて何かになりたいと思った。
「決まりみたいね。うん、そうだわ。私の世界では人に名を訪ねる時はまず自分からって風習があるの。私の名前は沢畑夏子。夏子お婆ちゃんって呼んでね」
「ナツコお婆ちゃん」
お婆さんではなく、お婆ちゃんと呼ばせるのはナツコお婆ちゃんの茶目っ気なのだろうか。
「――さて、まさかとは思うのだけど一応聞いておくね。キミはここに居る人達の名前は知っているのかな」
ナツコお婆ちゃんが聞いてきた事に対して、身体を左右に振る事で否定を示した。
「やっぱり……。この子達はよく喋る癖に大事な事はあまり喋らないのよね。――ほら、キミ達、この子に名乗りなさいな」
私の反応を見たナツコお婆ちゃんは溜息をつき、その言葉を発する。
途中までは私の知っている言葉で、途中からは私の知らない言葉だった。
「あ、忘れていたわ」
「俺もうっかりしていたな」
「忘れてた」
「なんで揃いも揃って見事に忘れているんだべ……」
ナツコお婆ちゃんが、「これからこの子達が名乗るから、しっかり聞いておいてね」と私に言った後すぐに、短い紹介が行われた。
「幸恵です」
「和則だ」
「耕司」
「短すぎるべなあ……。この子達は本当に普段よく喋る癖にこういう時は簡潔なのよねえ……」
三人が名乗った後にナツコお婆ちゃんが何かをぼやいた。
「サチエ。カズノリ。コウジ」
「正解だよ。やっぱり君は覚えが良い上に、言葉を発するのが得意みたいだね。さて、早速だけどキミの名前はどうする? 何か付けたい名前でもあるかい?」
また身体をフルフルと振った。
「なら、候補を聞こうかね――この子に付ける良い名前は無いかい?」
「スラちゃん」
「キミはヒトちゃんと言われて嬉しいのかねえ。……却下」
「マルコ」
「私は好きな名前だけど、少し古いかねえ」
「イムちゃん」
「だからキミはゲンちゃんて言われて嬉しいのかねえ? 却下よ」
「マル江」
「更に古くなってないかね?」
私の知らない言葉で、私の名前会議が行われている。
少し恥ずかしかった。
会議は難儀しているようで、サチエとカズノリが何かを言っては、難しい顔をしたナツコお婆ちゃんが首を横に振る。
――コウジは私の名前決めに参加しないのかな。
そんな事を思いながら、私をここまで運んで来た子の方を見るとコウジと目があった。
「アオイロ」
男の子はそう口にした。
アオイロ。
男の子が初めて私に掛けた言葉。
「アオイロね。うーーん、これまた見た目からの名前だけど青ね」
アオイロと言う言葉もまた却下らしい。
ナツコお婆ちゃんは難しそうな顔をしていた。
だけど、私はその言葉に何処か引っ掛かりを感じナツコお婆ちゃんを見つめた。
「おや、コウジが言った気になるのかい」
私の分かる言葉で話し掛けてきてくれたナツコお婆ちゃんに頷いて返す。
「コウジはさっき青色と言ったわ。キミのその身体の色からだろうね。それはつまり、私達に置き換えると、薄橙と言われているようなものだからね」
「私は色でも、形からでも、種族からでも良いです」
「おや、そうかい。ただこの色には意味があってね」
「意味……」
「青という色はこの世界だとね、幼い・若い・未熟という意味が込められているのよ」
……若い未熟者。
「アオイロが良いです」
歳だけ重ねた私に合う名前だ。
「そうかい。じゃあ今からキミの事はアオイロと呼ぶかね。――これからよろしくね、アオイロちゃん」
青色。
アオイロ。
名前を授かった。
私はこれからアオイロとして生きていく。
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