名前の記憶
何時の頃だったか。物心が付いたのは。
何かを見る事の出来る目が無くて、何かを口にする事の出来る口も無かったあの頃。
五感の中であったのは触覚だけ。
ゴツゴツした地面の感触が無性に嫌いだった気がする。
漠然と存在した本能だけで来る日も来る日もぼんやりと生きていた。
身体を揺らし、何となく気の向くままに動いてみて、身体の下に潜り込んだ何かを啜り命を繋いだ。
主に食べていたのは同胞の死体。
偶に食べる雑草は御馳走だった。
つまらなくて、障害だらけの暮らしだったが、何も分かっていなかったから何とも思わなかった。
いつものように同胞の亡骸を啜っていたある日、光を知った。
眩しいという感覚を知った。
それまで何も見る事が出来なかった身体に目が出来た。
進化だった。
罅だらけの荒廃した地面。
緑色に腐った水。
少しだけ生えている草。
私は荒れ果てた大地に居た。
今だったら有り得ないが、その時の私はその光景を見て「なんて綺麗なんだろう」と感動した。
手も足も無い身体を頑張って動かして水溜まりまで動いた。
割れた地面に同胞が何千匹も挟まって死んでいた。
今まで私はそれらを吸収していたのだ。
死体の下は何処まで続くのか分からない。
ここに落ちて死んだ同胞が私を生かしていた。
そんな事も分からずに水を目指してクネクネと進む。
緑色の水溜まりは近づいたら湖である事が分かった。
剣や鎧が沈み、大量の藻が浮かぶ湖。
同胞以外の死体をそこで初めて見た。
私はそこでまた感動した。
草と同胞の亡骸以外の物を食べる事が出来る。
嬉しくなって湖に飛び込もうとしたが、近くに居た同胞に先を越される。
まだ目が無く、色も無く透明で未熟な生物。
色も知らない哀れな同種族。
同胞は湖に落ち、溶けた。
死体はここに来るまでに沢山見たが、死ぬ瞬間を見たのはそれが初めてだった。
知らない生物の亡骸はまだ残っているのに、同胞はそれすら残らない。
弱いと何を残す事も出来ない。
落ちたら私も死ぬ。
恐怖という感情が芽生えてきた。
死にたくない。
そう思った私は湖から離れた。
湖から離れ、その辺を彷徨っていた同胞に覆いかぶさる。
そして吸収した。
初めて生きている何かを食べた。
強くなりたかった。
また進化すれば水にも耐えられる身体にもなるかもしれない。
本能でそう察した私は、その場に居た数千の同胞を食い尽くす事にした。
同胞は直ぐに生まれる。
時々、空を何かが通過する。
それが通過すると、同胞が何も無い場所から生まれた。
更に時々、空に何か白い物がかかる。
それが溜まってしばらくすると、水が降って来る。
同胞はそれに当たると死ぬ。
私は洞穴からそれを眺めていた。
この場所は良い。
同胞が大量に湧き、外の様子も確認出来る。
暗くなって、明るくなって、空に何かが通って、水が降って、氷が降って。
面白くは無いが、見ていて飽きなかった。
長い時が私を進化させた。
思考力が伸び、身体の効率的な動かし方を覚え、身体の色が濃くなり、何かが聞こえるようになり、味という物を知った。
ある時、空を通っていた何かが降りて来た。
空を飛んでいる時は小さく見えていたが、近づいて来たそれはとても大きかった。
私とは違う生き物が二匹。
一匹は大きくて、黒くて、凄く怖い。
もう一匹も大きくて、黒とか赤とか白とかが混ざった継ぎ接ぎで、怖い。
あれはなんだ。
久しぶりに本能的恐怖を感じた。
ここに居たら死ぬ。
そう思った。
だけど動くにも、あれらからどう逃げれば良い。
そう思っていたら黒い方が何かを言った。
「――万物を持ってしても勝てぬと知れ。カタストロフィ・シンヴァ」
その時の私にはそれが何か分からない。
だが、その後直ぐに二匹が何処かに消えた事を覚えている。
静寂が訪れる。
物凄い音と共に、二匹は現れた。
着地の衝撃で付近に居た同胞達は皆死んだ。
二匹は暫く言い争いをしていたが、音もなく何処かに消えた。
何が起きたのか。
それらが消えた後、私は動けずにずっと洞穴の中で様子を窺っていた。
そろそろ出ても大丈夫だろうか。
そう思った時、二匹が戻って来た。
一匹は地に伏せ、もう一匹は空を見上げて戻って来た。
二匹は姿が変わっていた。
二匹共小さくなっている。
また見た事の無い生き物になっている。
何もかもが違うが、本能でそれらが先程消えた何かと同じ者だと悟った。
暫く見ていると、空を見上げていた方がその場から去った。
地に伏せた方は少しも動かない。
死んだのだろうか。
更に暫くして、着地の衝撃で数を減らした同胞がまた補充される。
同胞達が地に伏せた何かに向かってわらわらと群がる。
嫌な予感がした。
あれを先に同胞に吸収されたら不味い。
何故だかその考えが湧き上がって来た。
ここで他の誰よりも長く生きた私は、この中で一番強い。
大地をクネクネと動く同胞達を踏んでついでに吸収しながら、跳んで行った。
一番乗りだ。
地に伏せた何かの上に乗り、吸収を始める。
それは今までとは違い、一瞬で吸収が出来なかった。
物凄い養分を持っている。
これを吸収出来たら、私は強くなれる。
これは大物だ。
そう確信した。
だがその直後、身体が破裂した。
それは私の許容量を遥かに超えていた。
地に伏せた何かが強すぎて、私では吸収しきれなかった。
バラバラになった身体で己の浅慮さを呪った。
ここまでなんとか死なずに来られた。
それなのに最後はあっけなく死んでしまうんだ。
そう思った。
だが、不思議な事にどれだけ待っても死が訪れない。
それどころか、バラバラに弾け飛んだはずの身体が元に戻って行った。
何故か、死が訪れない。
身体がどんどん再生していく。
その間、ここまでやって来た同胞達が地に伏せた何かと、破裂した状態から再生する私を吸収しようとしたが、私と同じように弾け飛んで死んだ。
だが、同胞は誰一人として再生しない。
私だけが再生している。
やがて、身体が完全に元に戻った。
恐る恐る、地に伏せた何かの吸収作業へ戻る。
また私は破裂した。
しかし、やはり死なない。
いくら木端微塵になっても再生する。
身体が再生するや否や、再び吸収作業へ戻った。
吸収しては破裂し、再生する。
そんな事を数百回繰り返した。
そして、地に伏せていた何かを完全に吸収した。
吸収しきった途端、私に吸収された何かの知識や記憶だろうかが、一斉に頭の中へ流れ込んで来る。
そこでも耐え切れずに頭が破裂したが、何度でも蘇る。
頭が破壊されても死なない身体になった。
今まで吸収した物とは違う、上質な何か。
再生能力、知恵、記憶、常識、情勢……自分の種族が何なのかさえ知らなかった私が様々な物で満たされていく。
力と知恵を手に入れた途端、怖くなった。
自分は何て事をしてしまったのか。
禁忌をおかしてしまった事を知ってしまった。
「逃げなければ。この場から」
初めての台詞はそれだった。
だが、その時にはもう遅い。
「――俺の身体がここにあったはずだが」
誰かの声が聞こえた。
誰か。
いや、私はその存在を知っている。
声の持ち主は先程まで私が吸収していた何かと同じ者。
ボサボサの黒髪。
ボロボロの戦闘着。
血だらけの身体。
鋭い眼光。
黒くて禍々しいオーラ。
この世界で一番強い存在だ。
「何か知らないか」
それは私の方を向き、そう言った。
それを聞いた私は逃げた。
丸い身体を飛び跳ねさせて全力で逃げた。
何も言える訳が無かった。
吸収したなんて言ったらどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
「何処へ行く」
それは逃げた私を追いかけて来た。
背中から色々な色が混ざった継ぎ接ぎだらけの翼を生やし、飛んで追いかけて来る。
追いつかれたら殺される。
その考えだけが私を支配した。
生まれ育った荒れ果てた大地を駆け、人間と魔物の争っている紛争地を抜け、火を上げ滅んで行く魔物の国を超え、竜達の隠れ家の横を通り、土色の壁で囲まれた人間の街を後にした。
逃げて、逃げて、逃げ続けた。
しかし、それは私の後ろを何処までも付いてくる。
だけど、当然だ。
だってそれは。
その竜は。
――無限だ。
後ろを振り返る度に、私を追って来るそれの数が増えた。
初め一体しか居なかったそれは、今や数百を超えている。
何処へ行っても逃げられない。
あの竜に目を付けられたら、最後……。
もう逃げられる場所が無い。
死にたくない。
やっと、あの場所以外で生きていける力を手に入れたのに。
まだ何もしていないのに。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさもまだ何も体験していない。
誰かを愛した事も、愛された事も無い。
これから全てが始まるはずだったのに。
囲まれ、死期を悟り、足が止まる。
「驚いた」
「ここまで逃げるとは」
「ただのスライムでは無い」
「何者なんだ」
無限が思い思いに喋った。
「お前の名前はなんだ」
一体がそう言って来たが、名前なんか持っていない。
「私は……」
久しぶりに口を開いた。
逃げられる最後の可能性。
荒れ果てた大地で無限が倒れ伏し、逃走劇が始まった原因となったもう一人の男の言葉を思い出す。
あれは解放という力を行使する為の詠唱だ。
あの男は解放を使い、別次元へと自分自身と無限を送り、激しい戦いの後、勝利して帰って来た。
解放を使えば、別の場所へ逃げられるかもしれない。
今まで使った事など一回も無いが、ここで成功させなければ私は死ぬ。
解放の詠唱なんて何も思いつかない。
思いつかないが、発動するに値するイメージさえあれば解放は成功する。
だが、無限の前で怪しい行動なんてしたら殺されてしまう。
なら、このまま……。
「……私に名前はありません。ただのスライムです」
自己紹介を解放の詠唱にしてしまえば良い。
直後、頭上に光が現れる。
初めての解放は成功した。
それに安堵もせず、頭上に現れた眩い光を放つ小さな穴へ跳んだ。
―――――
川のせせらぎが聞こえる。
ここまでの逃走と初の解放で力を使い果たしたのか、寝ていたようだ。
身体を震わせ、伸びをする。
目を開けると、自然豊かな光景が広がっていた。
ここは何処だろうか。
周りにあるのは木と舗装された道と……なんだろうかこれは。
畑のようで何かが違う物。
言うなれば、水の溢れた畑。
農作物が育てられているのは見て分かるが、知識に無い物だ。
こんなに水に浸して大丈夫なのだろうか。
だが、久しぶりの食事。
草なら食べられる。
吸い寄せられるようにそれへ近づき、落ちた。
「っ……!」
この畑、見た目以上に深い上に地面が柔らかくて出られない。
強くなったが、身体の大きさは変わらない。
このままだと溶けてしまう。
油断した。
無限から逃げる事が出来て、油断しきっていた。
せっかく逃げられたのに私は何をしているんだ。
全部無駄に……。
「――――」
畑の中で藻掻いていたら、誰かに掬い上げられた。
「――!」
身体を震わせ、水気を払うと私を掬い上げた誰かが驚くのが分かった。
目を開け、私を助けてくれた人の姿を確認する。
藁で出来た帽子を被った少年。
優しそうな笑顔を浮かべた人間の男の子。
あまりにも弱そうに見えたから、自然と身体の力が抜け少年に身を任せた。
少年は首に巻いていたタオルで私に付着していた泥を払う。
「――?」
少年は何か不思議に思っているようだった。
しかし、何を不思議に思う事があるのだろうか。
スライムなんていうありふれた生き物を見たくらいで。
それと、さっきから言葉がちっとも分からない。
言葉は知識を吸収したおかげで全部覚えたはずなのに。
訛りが酷いのか、知らない国の言葉なのか。
耳を澄ましてちゃんと聞いてみよう。
少年は私の身体を楽しそうに拭いていた。
泥を拭う事に綺麗になっていくのが見ていて楽しいのだろうか。
「青色になった!」
アオイロ。
額の汗を手で拭った少年は知らない言葉で嬉しそうにそう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます