二十五話 「あなたはまだ竜ではない」


「湖を用意しろって。そこで何をするつもりなんだよ?」


 これはいつの会話だったか。


 スイザウロ学園に入学して十日かそこら。

 新生活に慣れて来て、各人がどんな性格なのかを理解し始めた頃あたりの話だった気がする。


『湖を用意して欲しいわ』


 腕を組んで仁王立ちしたラフティリの言葉。


 水龍フィドロクア・ネスティマスの娘として生を受けたラフティリはとんでもないスケールの物を要求する事が時々あった。

 水族館、自室プール、アイス屋。

 今までラフティリが強請って来た物達。


 今回は、スイザウロ学園名物、各組の威信を賭けたランキングバトル、クラス対抗戦で利用されるフィールドに湖が欲しいとの事だった。


「あたしは水龍の愛娘だわ!」

「……で?」


 愛娘。

 控え目に言って親馬鹿のフィドロクア兄さんからとにかく甘やかされて育てられたラフティリだが、その身体には確かに水龍の血が混ざっている。

 水場で上手く立ち回る素質を持っているラフティリならではの発言。


 だが、ここスイザウロ学園は魔物の通う学園。

 水場を主戦場とする子はラフティリだけでは無い。


「つまりあたしは水龍の娘だわ!」

「……?」


 アホ娘。

 俺はラフティリが泳げる事を知っている。

 女子寮の大浴場で背泳ぎしている所をよく見ていた。


 日本人としての価値観を何故か少し持っているアズモがよく心の中でそんなラフティリを叱責しているためかなり鮮やかにそのイメージが残っている。


「信じられていないみたいね!」

「いや、フィドロクア兄さんの娘である事は微塵も疑っていないぞ?」

「なら全て分かるはずだわ!」


 フィドロクア兄さんの娘であるラフティリはアズモの姪。

 ラフティリから見たアズモは叔母で俺は叔父のような物。


 精神年齢的には成人済みの俺は六歳のラフティリの叔父としての自覚を本当に少しだけ持っており、その立場から接する事があるがこれは……。


 ……うずうず。

 心が疼き始めるのが分かった。


「あたしのパパが水龍なら、娘のあたしもまた水龍だわ!」

「いや、それは流石に言い過ぎだと思うぞ」


 自身の展開した水場で無双するフィドロクア兄さんの姿を一度だけ見た事がある。

 水棲生物を大量に召喚してその場を支配するフィドロクア兄さんはまさしく水龍。

 あの蹂躙劇は少し残酷だったが、同時に美しくもあったのでよく覚えている。


 ……あれをラフティリも出来るのか?


 ……うずうずうずうず。

 心の疼きが強くなった。


 俺の心は全く疼いていないのに、ザワザワが伝播してくる。

 この身体にもう一つある心の持ち主。


「簡単に言うと、あたしは湖で最強って事だわ! これで分かったわね!」

「……わ」


 口と同時に右手が動く。

 俺の意思に反して。


「分かるかあ!」

「むえっ!?」


 あ、アズモが耐えられずにラフティリに手を出した……。


 突然頭にチョップを落とされたラフティリが頭を押さえながら何が起こったのか理解出来てなさそうな顔で俺を見つめてくる。


 アズモはイライラが収まらないのか、ラフティリの胸元を掴み強引に顔を近づけた。

 いつもなら手を出したら直ぐに引っ込んで俺に任せきりだったため珍しい事だった。


「父親が強いからって何だと言うのだ! 十五組などという最底辺のクラスに居て何を言っている! どんなに強い親からでも弱い子供は生まれる! 親が強いのと子供の強さは関係が無い!」


 ……何かがアズモの心の深い所を抉ったようだ。

 普段あまり自己主張をしないアズモがここまで言う事なんて中々ない。

 アズモの成長を喜びたいところだが、この喧嘩は止めるべきだろう。


 フィドロクア兄さんから仲良くして欲しいと頼まれたのもあるが、俺としてもアズモとラフティリには仲良くしていて欲しい。


 ――アズモ。そこまでに……。


「……あるわ!」


 俺が何かを言う前に、今まで黙っていたラフティリが口を開いた。


「……なんだと」

「だって、アズモは強いじゃない」

「……私は強くない」

「強いわ。あたしが認めているもの。誰がなんと言おうと、アズモは強い」


 水色の瞳が紫色の瞳を捉えた

 力強い眼光と口調には嘘など一つも混ざっていないように見える。


「あたしは水龍の娘だわ。水龍の娘だからそれに恥じないような生き方をしているわ。だから強いのは当たり前だわ」


 そう言って、ラフティリはアズモの手を振り払った。


「あたしは水の中なら竜王の娘にも負けないわ! 水の中から一方的にブレスを吐いて近づけさせないから絶対勝てるわ!」


 ――初めての喧嘩はこんな感じだったような気がする。


 それ以降もアズモとラフティリはよく喧嘩をしていた。

 というか、アズモがよく突っかかっていた気がする。

 学園にはたった二ヶ月しか居られなかったが、喧嘩した数は二十を超えているのではないだろうか。


 ラフティリがアズモの気に触れるのが上手いのか、アズモの手が出るのが早いのか。

 恐らく両方。


 ただ繰り返される喧嘩から分かった事がある。


 アズモはラフティリの事が好きだった。



―――――



「避けて!」

「……うわっ!?」


 気付いたらブレスが目前まで迫って来ていた。

 直ぐに首を上に逸らし、直撃を避ける。

 水ブレスが鼻を掠めていった。


 アオイロが声を掛けてくれなかったらどうにかなっていた。

 急いで立ち上がり、次撃が当たらないように湖から距離を取る。


「すまん、助かった!」

「走馬灯でも見ていたんですか?」

「ああそうだな! おかげで色々思い出せたよ!」


 水ブレスが来る。

 湖から飛沫のように跳ねたブレスは、空中で軌道を変え、縁から離れた俺の居る場所へ的確に飛んで来た。


 嫌な予感がして後ろを振り返ると、初めに避けた水ブレスも上空で反転している。


「なんで忘れていたんだろうな!」


 不規則な軌道を描いて追って来る水ブレスから逃げながらそう吐き捨てた。


 不用意に近づいたら攻撃されるのは当たり前。

 水棲モンスターにとって陸地に居る得物は良い的でしかない。


 湖から放たれる水ブレスをギリギリで躱す事により、地面や木に衝突させ二度と使えないようにする。

 見た事の無い挙動に驚きはしたが、種が分かっていれば避けるのは容易い。


 友達にブレスを使う奴が居たから昔はよく練習に付き合っていた。

 水と氷が混ざった友達のブレスは変則的に動くから避けるのが大変だった上に、当たると凍って大変だった。


 それに比べたらこんな数だけで牽制みたいな水ブレスはどうって事ない。


 幹の太い木を垂直に走って駆けあがると、水ブレスが曲がり切れずに木にぶつかり消滅する。


「……もう終わりか?」


 当たらない事を悟ったのか、気付いたら水ブレスが止んでいた。


「姿は見ましたか?」


 水ブレスが止んだ事で余裕が出来たのか、肩に座り直したアオイロがそう聞いて来た。


「ああ、勿論」


 湖の中は深い青で満たされていた。

 思ったよりずっと深い湖だった。


 湖の奥深く。輝く何かがあった。

 目を凝らしてジッと見つめると、凍てつくような水色の瞳と目があった。

 氷の結晶のような紋様が入った綺麗な目をしていた。


「噂は本当だったんだ……!」


 透き通るような綺麗な水色の鱗の竜。

 雹水竜が居た。


「では帰って発見報告でも――」

「冗談だろ!」


 帰る事を促すアオイロの言葉にそう返し、魔物化して翼を生やした。


「まさか戦う気ですか?」

「竜と戦う訳がないだろ。俺はただ雹水竜と仲良くなりたいだけだ」


 軽く助走をつけて跳んで飛んだ。


「雹水竜! 少し話をしようぜ!」


 自分の心が物凄く高鳴っているのが分かる。

 この世界に戻って来てから初めての感覚。


 ここまでずっと辛かった。


 俺はずっと辛かった。


 知り合いが増え、豊かになっていく生活と、受け入れがたい現実。


 誰にも言えない秘密を打ち明けられる事なんてなく一人で受け入れて、一人でそれを乗り越えるしかなかった。


 一人で生きていかなきゃならないのはとても辛かった。


 周りに居るのは敵では無いが、味方でも無い。


 人間は俺に味方してくれない。


 俺の味方は。


 俺の仲間は。


 ――竜だけ。


「聞いてくれ雹水竜! 俺はお前の仲間だ!」


 湖の上空へ羽ばたき、下に居る雹水竜へ聞こえるように叫ぶ。


 水ブレスは飛んで来なかった。

 その事実に、俺は安堵しながら言葉を続ける。


「俺の名前は沢畑耕司! 俺も……俺も、竜なんだ!」


 そう言った。言ってやった。

 言ったら気持ちが少し楽になった。


 これで俺はもう――



「――いいえ、あなたはまだ竜ではないよ」



 不意に、背後から声が聞こえた。

 憂いが少しだけ混ざっているが、悪い事をしても許してくれそうな優しい声。


「――っ!?」


 完全に気が抜けており、反応が遅れた。

 何者かが急に背後に出現した。

 さっきまで誰も近くには居なかったはずなのに。


 振り返ろうと思ったが、何かが下に落ちていく。

 同時に肩が軽くなるのを感じた。


 緑と黒の小さな物体。


 無意識で肩に手をやった。


 そこには何も無い。


 また、理解が遅れてやってくる。


 少し青色の混ざった黒髪を見て分かったはずなのに。


「……え、は……?」


 理解がやって来たはずなのに受け入れられなかった。


 ――ポチャン。


 何かが湖に落ちた。


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