第10話

 しんと冷えた真っ暗な部屋は、カーテン越しに差し込む街灯で、かろうじて視界を確保している。


 窓辺にたたずむ小さなもみの木。


 一緒にりんごを飾ったのは昨日の事なのに、どこか懐かしい気分になるのはなぜだろう。


 レジ袋をキッチンのシンク横に置き、ツリーの前にぺたんと女の子座りした。

 コンセントを差し込むと、チカチカと不規則に光り出す。


「きれい」


 それは、どんな豪華なイルミネーションよりも素敵で、心を温かくする優しい灯り。


 ツリーに寄り添いながら、パパの記憶ノートの言葉を思い出していた。


『ゆきのは、陣痛から28時間という時を経て、この世に誕生した。


 東京は、今にも雪が降りそうな空模様の昼下がり。

 里砂子は実家の北国に里帰りしていたから、会いに行くのにも、とにかく苦労した。

 かろうじて運航している交通機関を乗り継ぎ、ようやく病院に到着した時は、すでにきれいな産着に着替えたゆきのが、ガラス越しにすやすや眠っていた。


 何かを察したように時々目を開けては手足をバタバタ動かして、しかめっ面。

 新生児室には5人ぐらい、赤ちゃんが並んでいただろうか。


「うちの子が一番かわいいな」とつぶやいたのを覚えている』


『病室にて――

 窓辺にはこんもりと真新しい雪が積もっていて、里砂子は眠りから醒めたお姫様のように幸せそうに微笑んでいた。


 名前はゆきのにしよう。そう提案したのは俺だ。

 しかし、雪国で雪に苦労させられた里砂子は「雪なんて嫌い。違う名前がいい」とほほを膨らませた。


「じゃあ、平仮名でゆきのはどう?」


 そう言うと「それならいいわ」とにっこり微笑んだ』


 ゆきのの中にはない。いや、本当はあるのに思い出す事ができない幸せな記憶。

 胎児のように体を丸めて膝を抱くと、まるで誰かに包み込まれているような安堵が訪れた。


 しかし――。


 時は刻々と刻まれ、ヒロトが『買い物』に出かけてからもう30分ほどが過ぎていた。

 真綿のように心地いい記憶の隙間から、一番古い幼少期の記憶が入り込んでくる。

 

 それは、冷たくて、暗い。


 寂しい。


 寒いよ……


 ママ……


 お腹すいた。


 どこにいるの?


 どこに行ったの?


 またいなくなるの?


 どこにも行っちゃいやだ。


 怖い。


 いかないで


 いかないで


 一人にしないで。


 どんなに泣き叫んでも、母が振り向く事はなかった。

 優しく包み込まれる事はなかった。


 何度となく裏切られたささやかな要求と期待。


 また、そんな時が訪れるような気がして、ゆきのは抱えた膝を強く抱きしめた。



 ガチャっと音がして、玄関ドアが開く。


「ごめんごめん、遅くなった」


 息を切らしながら入って来たヒロトの声は、今まで聞いた中で一番弾んでいた。


 そちらに目をやると、そこには驚くべき光景が広がっていた。


 ヒロトの手には、小さなホールケーキ。

 その上ではキャンドルの炎が激しく揺れている。

 

 火を気にしながら急いでドアを閉めると、そっと、そろそろとこちらに歩いて来る。


「どうして……」


「今日、ゆきのの部屋に入って思い出したんだ」


 ヒロトはそう言って、一旦電気のスイッチを入れた。


「これ」

 そういって、冷蔵庫の横に貼ってあるカレンダーを指さす。


 12月15日。その日付けに赤ペンで丸が付けてある。


「この日が何の日なのか思い出せなかった。日付だけが記憶に残っていて。けど、わかったんだ。今日、ゆきのの部屋のカレンダーにも、この日付けに丸が付けてあった。それでピンときたんだ」


 そう言って、再び電気を消した。


「ゆきの。今日、誕生日だよな。おめでとう。元気に生まれてきてくれて、いい子に育ってくれてありがとう」


 ケーキの上にはチョコレートの板に『ゆきの、17歳おめでとう』と書かれてある。

 じわっと下瞼に熱がこみ上げて、嗚咽があふれ出す。


「なんで泣くの?」

 キャンドルライトの向こうで笑うヒロトの顔さえ直視できないほど、両手で顔を覆って泣き崩れた。


「だって、だって……初めて見たよ。ケーキに……自分の……名前……」


 そんな様子を暫く、ヒロトは黙って見ていた。

 時々、鼻をすすりながら。


「後先になっちゃったけど、さぁローソク消して」


「うん……」

 ぐずんと鼻をすすって、勢いよく炎を消した。


「おめでとう!」


 雪で覆いつくされた街で、17年前確かにあった幸せな時間を分け合いながら、部屋は温もりで包まれていった。


 ゆきのに降り注いだ奇跡はこれだけではなかった。



 次の日の放課後。

 職員室に向かう通路を歩いていると


「ゆっきー、一緒に帰ろう」


 優芽が背中を叩いた。


「ごめん、先に帰ってといて。私、用事あるから」


 片目をぎゅっと閉じて、顔の前で手を合わせた。


「そっかそっか。そうだよねー」


 優芽は意味ありげににやけながら、バイバイと顔の横で手グーパーして去っていった。


 何を勘違いしているのだろうか?

 そりゃあ、今朝、ヒロトと登校している所を、優芽に見られたわけなんだけど。


 昨夜、夕飯の時。

 テーブルの上のガスコンロで、グツグツと湯気を上げていたのは土鍋ではなく、小さなホーロー鍋。

 溢れんばかりの具材はどれもしっかり味が沁み込んでいて、心も体もしっかりと温まった。


 話題はやはり修学旅行の事だ。


「失礼します」

 一礼して担任のデスクへ。


 ヒロトは最後まで修学旅行は絶対に行かせたいと粘ったが――。


「おお、佐倉。なんだ?」


 行かなくてもいいというゆきのの言い分が通り、ヒロトは修学旅行を取りやめることに渋々首肯した。


「修学旅行の申し込みなんですけど――」


「ん? どうした?」


 いざとなったら、やっぱり少し寂しさがこみ上げて、口をつぐんでしまった。


「修学旅行がどうした?」


 しかし、もう引き返せない。行かないと言ったら、行かないのだ。


「申し込み、取りやめようかと」


「え? もう無理だぞ」


「え? どうしてですか? お金払えませんよ」


「いや、お金ならお昼ごろ、お母さんがわざわざ払いに来てくださったぞ」


 教師からの信じられない言葉に、ゆきのは目を丸くした。


「え?」


 母親が修学旅行費用を払った?


「本当ですか?」


「ああ、だから心配するな。一緒に沖縄行こうな!」


「うそ、やだ、信じられない」

 あまりの衝撃に、ゆきのはその場に崩れるようにしゃがみこんだ。


 嬉しかった。

 何よりも嬉しい瞬間だった。


 胸元をぎゅっと握り、「ママ、ありがとう」

 思わず心の声が漏れる。


「親なんだから、子供のために頑張るのは当たり前だろ」


 担任はそんな言葉を口にした。


 やっぱり、この先生、何もわかってない。


 ゆきのは別れ際に渡した記憶ノートの事が頭を過っていた。

 ちゃんと読んでくれた。


 何度も読み返したかもしれない。


 あんなに泣いていたんだもん。


 母親にとっても、大切な記憶だったのだ。


 生まれて間もない、命の重みと温もりを――。

 かけがえのない宝物を、何があっても守ると誓い合った言葉を――。


 パパの思い出が、愛情を思い出させてくれたに違いない。


 ふと、顔を上げると、窓から青い空が広がっている。

 飛行機雲が真っすぐ線を描いていた。


 完

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パパ活 神楽耶 夏輝 @mashironatsume

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