第7話

 描きかけの油絵。未完成の彫刻。

 雑然と並ぶ画材が周囲の壁を埋め尽くしている昼休みの美術室は、閑散としているのに、どこか賑やかだ。


 生徒たちがはしゃぐ声が、遠くで聞こえていた。


 そんな中、ゆきのは嗚咽をこらえながら、これまでの母親との関係性、昨夜の出来事を事細かくヒロトに話した。


 ゆきのが唯一頼る事を許される人物。それは亡くなった実の父親以外いないのだ。


 ヒロトは時々下瞼に溢れる涙をすすりあげ、真剣にゆきのの話に耳を傾けてくれた。


「ゆきの。苦労したな」

 そう言って、背中をさすってくれた。

 優しさに包まれても尚、ゆきのを苦しめていたのは昨夜のたかしの言葉だ。

 母親の寝室から漏れ聞こえたおぞましい会話。


『パパ活よりもっと稼げるとこがあんだよ』


『金持ちや議員相手に若い女を斡旋してるヤクザが知り合いにいてよう、そいつに預けるんだよ。女子校生って言ったら喜んで食いついてくるぞ』


 そして、たかしはこうも言った。


『客からもらった金はこっちと折半だ。ゆきのなら一回10万は下らないだろう。掛け持ちさせれば一日20万は固い』


『もちろん、本番有りだけどな』


 その事は、さすがにヒロトにはいえない。

 言ったらヒロトは、いや、パパがどんな思いをするのか、想像さえ着かない。


「普通に、みんなと一緒に、修学旅行、行きたかった」

 そんな言葉に置き換えて泣きじゃくった。


 いつもなんでもないふりして無理に笑って、片意地張って、大人ぶっていた。

 それなのに、ヒロトの前では不思議と子供になってしまう。

 まるで小さな子供のように、ゆきのは感情のままヒロトの胸の中で泣き声をあげた。


 そんなゆきのを優しく包み込みながらヒロトは言った。


「俺が、なんとかする」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 とは言え、更に10万円という高校生にとっては大金と言える金を、ヒロトがこれ以上出せるわけでもなく……。


 ゆきのはヒロトと一緒に、自宅アパートの玄関前にいた。

 ドアの向こうから物音はしない。


 母親は留守のようだ。


 ゆきのは鍵を開けて、ヒロトを招き入れた。


 部屋に足を踏み入れた途端、いつもは気にならないタバコの匂いや、手入れの行き届かない水回りからの腐敗臭がやけに鼻について、一気に視界をどす黒くさせた。


「ヒロト……どうするつもり?」


 ヒロトは、母親とたかしに会わせてほしいとだけ言って、ここまで一緒に来た。


「交渉するしかないよ。事情を説明して昨日のお金を返してもらう」


「上手く行くかな?」


「だってゆきのは修学旅行費用だと言ってないんだろ? いくら里砂子が変わり果てたとはいえ、母親なんだから、きっと……」


 ヒロトはそう言って口をつぐみ、俯いた。


 ヒロトがくれたパパの記憶ノートには、ゆきのがお腹に宿った時の事が、こう綴られていた。


『日付は記憶にない。


 里砂子は世界中で私が一番幸せとでも言いたげに、お腹のエコー写真を見せて来た。


「3ヶ月だって。性別はまだわからないけど、女の子がいいな」


 そう言って俺の手を掴み、まだぺたんこのお腹を触らせた。


「予定日は12月中頃よ。雪が降る季節ね」


 そう言って澄み渡った空を見上げた』


 ヒロトの中のパパは、母を信じたいのだと思う。

 ゆきのがお腹に宿った瞬間の喜びを分かち合った、かつての妻を――。


 しかし、ゆきのの一番古い記憶の中でも、母はいつもゆきのに向かって笑ってはいなかった。

 妊娠を喜んでいたなど、露とも知らなかったのだ。

 愛された記憶などまるでない。


「私の部屋、向こうだよ」

 自室を指さし、ヒロトを促す。


「うん」

 ゆきのの部屋に入ったヒロトは物珍しそうに部屋を見回している。


 途中、コンビニに寄って買って来た2本の缶コーヒーをレジ袋から取り出して、ヒロトに一本差し出した。

 ベッドに腰かけると、ヒロトも倣うように隣に腰かけた。


「記憶の事、ママに話す?」


 訊ねると、ヒロトは激しく首を横に振った。


「どうせ信じないだろう。それに話した所でどうしようもないよ。あくまでもゆきのの友達という体にしよう」


「うん」


 コーヒーのカンを振ってタブを上げた。


 その時だった。


 玄関が音を立てて開き、母が入ってきた。


「あら、ゆきの。誰か来てるの?」


「あ~ん? 男か?」


 たかしの声だ。

 玄関に並んでいる大きめのスニーカーに気付いたようだ。


 隣でゴクリと、コーヒーが喉を通過する音が聞こえた。


「お邪魔してます。向井ヒロトといいます」


 ヒロトは直立した状態で、母親とたかしに向かって丁寧に頭を下げた。


 母親は、ふぅーんと鼻を鳴らした後、上から下まで舐めまわすようにヒロトを眺めると、ゆきのに視線を向けた。


「今日、学校から電話があったわよ。修学旅行の費用を収めろだって」


 ゆきのの心臓はきゅうんと音を立てて縮こまり呼吸が苦しくなる。走馬灯のように次の展開が脳内を過り、一瞬期待が芽生えたりもした。


「なんて返したの?」


「本人と相談してみますって言っておいた」


「じゃあ、行かせますって返事してよ。私、修学旅行行きたい」


「勝手にしたら? 大体、勝手に受験して、勝手に入学して、何もかも勝手にやってきたじゃない。お金がかかる事だけ私に頼らないでよ」


「頼らないよ。だから昨日のお金、返してよ。あれは、ヒロトが私のために……」


 咄嗟に出た言葉を呑み込んだ。


 母親の顔が、まるで獲物を見つけたカマキリのように見えたからだ。


「へぇ、あんたこんな坊や相手に商売してんの。大したもんだわ」


 こってりと化粧が乗った疑似目をぎらつかせて、ゆきのとヒロトを交互に見ている。


「10万って事はたっぷり喜ばせてもらったんだろうな、小僧」

 たかしはヒロトに向かっていやらしく笑った。


 ヒロトは拳を震わせながら、たかしを睨みつけている。

 ギリギリと奥歯を噛みしめる音が聞こえてきそうなほど、顔を歪ませていた。


 たかしがポケットから取り出したタバコを口にくわえた時だった。


「お金を、ゆきのに返してやってください。修学旅行に行かせてやってください」

 ヒロトはそう言って、畳に正座した。

 二人に向かって、揃えた両手をついた。


「しょうもない茶番はやめな。10万ぐらい、またすぐ稼げばいいだろ。その若い体でさぁ」


 母親はタバコをふかしながら、ヒロトの前に座り片膝を立てる。


「当てなら紹介してやる。今すぐでも稼ぎにいけるぞ」


 たかしはスマホを取り出し操作し始めた。


 昨夜のたかしの言葉が蘇る。


「いやー。ヤクザの相手なんていや!」


「心配するな。客は堅気だ。ヤクザは仕事先を紹介するだけだ」


「は? どういう事ですか? ヤクザ使ってゆきのに売春させる気ですか?」


 ヒロトは項垂れていた首を持ち上げて、たかしを睨んだ。


「高校生のガキが稼げる仕事が他にあるか?」


 母親は素知らぬ顔でタバコをふかす。


 ヒロトはさっと立ち上がり、ゆきのの手を握った。


「行こう」


「え? どこに?」


「俺んち」



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