第2話 機織女と兎と雪女

 今となっては昔のことだが、岩手県の遠野に近い、とある峠の麓に若い猟師とその父が住んでいた。猟師の巳之吉みのきちは、父親の伊蔵いぞうと一緒に山に入ってイノシシを追っていた。

「吹雪いてきた……なあ。日も暮れたし、……もう今日は……しまいにしよう」と父親は巳之吉に言う。少し疲れ気味のようだ。言葉が途切れる。道もわからないような積雪だ。白い雪原が行く手を阻む。

 もう凍てついて猟銃りょうじゅう火縄ひなわにも火がつかないほどの寒さだ。こんな天気での狩は無理だった。

 前を行く父の前に、白い着物を着た細面ほそおもての女が現れた。巳之吉はぼんやりとだがその女が、父親に冷気を吹き当てているように見えた。その足元には兎狩りの罠が仕掛けてあった。それを父が逃してやったようで、少量の血も雪の上に見える。


「あれは雪女!」

 噂に聞く、雪の化身である雪女と思った巳之吉。その女の前で、父親はバタッと倒れる。吹雪の中、遠目にだが、その様子は巳之吉にもわかった。

「オトウ!」

 足の膝まで潜る積雪の中、走り寄る巳之吉。彼は父親に駆け寄るが父親は既に冷たくなっていた。

「オトウ」

 泣きじゃくる巳之吉に、その女は、

「その男はもう助からない」と寂しげに言う。

「お前がやったのか!」

 涙ながらに訴える巳之吉。

「違う。私は心配で様子を見てたが、既に事切れていた」と言う女。

「言い訳するな!」

「本当だ」

「たった二人の家族なんだぞ」

 巳之吉は吹雪の中、泣き叫ぶ。

 女は巳之吉の体を案じて、父と子の体を近くの木のうろに運んだ。そしてそのまま姿を消した。


 やがて父の死から三年が過ぎ、巳之吉もようやく一人の生活に慣れてきたときだった。あの冬の夜の事件のことも随分と記憶が薄らいでいた。


 その夜は、あの夜と同じ吹雪だった。巳之吉の家の戸を叩く音がする。

「あのお、もし……」と女の声。

 慌てて巳之吉は、戸にかました心張り棒を外して、戸を開ける。凄まじい風と雪が家に舞い込む。

 そこには旅姿をした美しい色白の女が立っていた。

「どうなさった?」と巳之吉。

「私は雪といいます。江戸から津軽に戻る途中のものです。この吹雪で道に迷っています。どうか一晩のお宿をお願いできないでしょうか?」

 峠の麓にある一軒家の巳之吉の家。次の集落までは一里以上ある。女の足で、この吹雪の中をそんな距離を歩くのは無理と案じて、巳之吉は快く宿を提供した。

「お雪さん。おら一人者でな。なんのもてなしも出来ねえが、寝所しんじょを提供するだけしか出来ない。それで良いか?」

「それで十分に助かります。よろしくお願いします」

 女は深々と頭を下げ、礼を述べた。

 見れば、一人暮らしの家の中は、家事の行き届かない様がすぐに分かる暮らしぶりだった。お雪は笠と蓑の雪を掃って、「お邪魔します」と言いながら家に入った。


 翌日は雪も溶け穏やかな日差しに恵まれた。女は宿の恩義を感じて、家の清掃をかってでた。

「巳之吉さん、台所も荒れていますね。これではいけません」

 そう言って、布団を干し、板間と畳間を掃き出し、竈門、水場、納屋、貯蔵庫など至る所をこまめに掃除をして、たちまち巳之吉の家はきれいに整理整頓された。

「これは凄い」

 女の手際の良さは大したものだった。見違える我が家に巳之吉はただただ驚くばかり。


 女は七日ほど巳之吉の家に厄介になっていた。ちょうど春の足音が聞こえ始めた頃で、季節が変わろうとした暖かな日。


「お前さん、特に身寄りもなく津軽で一人暮らし、と前に言っていたなあ」

 巳之吉は縁側に腰掛けて、布団を叩くお雪に話しかける。

「はい」

「もし嫌でなければ、ずっとおらのもとにいてくんねえか。身の回りの世話を頼むだけでなく、一人者同士、身を寄せ合って生きるのも良いなと思って。お前さんさえ良ければ、なんだけど……」というと、お雪は頬を赤らめて、コクリと頷いた。


 その日からやがて時が経ち、二人はそれはそれは可愛い赤子を授かる。すくすくと育ち、三つの歳を数える頃には、そこそこの会話もできるようになっていた。

 ある夜、子供を寝かしつけた頃、いつものように夜なべをしている雪に、巳之吉が聞く。

「なあ、お雪よ。お前さん、毎夜、明け方まで反物を織っているけれど、あの糸はどこから取ってくるのかね」

「山です。そんなことは旦那さんは心配しなくていいんです。それより明日朝には、また二反分を織り上げるつもりです。出来たら里に出て、売ってきてくださいね」

 裁縫をしながら囲炉裏端でお雪は微笑んだ。

 お雪の織る反物は上等品として、里の反物屋が高価で引き取ってくれる。それで家計も豊かになった。


 ギッタン、ギッタンと聞こえてくる奥座敷の部屋。

巳之吉は、ふすまを開けようと取手に手をかける。

「旦那様、開けてはいけません。二人の、そして娘のために開けないことです。この生活が続けられるように……」

 お雪は巳之吉を諭した。巳之吉は言われるまま、その手を離し囲炉裏端まで下がって床についた。


 翌日にはいつも通り、きれいな反物が二人の枕元のそばに二反置いてあった。その横でお雪は眠っていた。


 そして巳之吉は布団から少しだけはみ出しているお雪の足首からくるぶしにかけて、あの夜に見た兎取りの罠に挟まったような古傷を見つけたのだ。そしてなんとなく全てを察した。巳之吉はその傷あとをそっと優しく撫でてやる。

 するとお雪の目から涙がひとすじ頬を伝った。

「気づいたのですね」

「いいや、なにも言わなくて良い」と巳之吉。

 優しい笑顔で、「もう今のあなたにならお話できます」とお雪は言う。


「もともと私は人に化ける力を神さまにもらった兎でした。あの晩、雪の中で罠にハマったわたしを人間だと思って、あなたのお父さんは助けてくれました。最後の力を振り絞っていたようでした。そして私の足を自由にするとその場にお倒れになったのです。それから数年間時々、森からこの家のそばまで通い来て、一人になったあなたを見守り続けました。そしてここを訪ねてきた、あの吹雪の晩のこと、私は森の神さまにお願いに上がりました。一人になったあなたを心配していることを告げると、神さまは私をずっと人間の姿でいられるようにして下さったのです。あとはあなたの知る限りです」


 お雪は巳之吉を背にして話し終えた。

 巳之吉はただ「そうだったのか」とだけ言う。他には何も言わない。

「だからあなたのお父上は私の命の恩人なのです。そのご恩に報いるためにここにいます。でも今はあなたを人間として愛しています」

 巳之吉は優しくお雪を後ろから抱きしめると、涙を溜めた目で「ありがとう」と囁いた。そして巳之吉は、生涯このことを、二度と口にすることもなく、お雪と娘と幸せに暮らしたということだ。

 どんど晴れ。

                    (了)

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