しゃべるのが苦痛:ことばに関するエトセトラ(前編)

しゃべるのが苦痛、ということについて、

もうちょっと、掘り下げて考えてみました。


角川国語辞典によると、言葉というのは、

「音声や文字によって、ひとつのまとまった意味をあらわす手段。

また、その個々の表現そのもの」

ということになっています。


参考までに聖書を見ると、

天地創造後、バベルの塔を建てようとした人々を

怒った神さまが言葉を混乱させたため、

言葉がいくつもわかれたことになっています。

世界中に言語がいろいろあるのはそのためだというわけです。


この部分だけ見ると、言葉というのは、コミュニケーションの手段ですが、

それだけではないような気がします。


わたしはは広島に来て30年経ちますが

方言に驚いたことがなんどかあります。

目がうすい、というのを標準語にすると

目が悪いということになりますが

それだとニュアンスがぜんぜん違ってしまいます。

霞んで見えない、というのとも違いますね。


そんなふうに、広島弁の認識する世界像と

標準語の認識する世界像は、

同じ日本民族なのに、まったく違うんです。

言葉が違うと、考え方も違ってくる。

多様性を知りたければ、地方に行って方言を学ぶのもアリ。


言葉を認識するということは世界の認識に繋がります。

英語なら英語の世界がありますし

標準語や大阪弁や博多弁など

日本語ならそれなりの世界があります。

自分なりの世界像にどっぷりつかって

自分が標準だと思っているから、

かえってしゃべるのが苦痛になるのかもしれない。


バベルの塔が建てられなくなったのは、

言葉が通じないと言うこと以上に、

考え方が対立したと言うことも考えられます。


ゆえに、しゃべるのが苦痛な人は、

自分の世界像が、他人に通じるかどうか、

不安な面があるのかもしれない。

自分の思っていることが通じない……

これは恐怖ですよね。


しかし、考えてみれば、自分の思いというのは

結局、ことばにしなければ伝わらないんです。

ひとりで「疲れた」「つまんない」なんて言ってる人生なんて、

荒廃してると思いませんか?

(明日に続く)

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