憤怒〈後編〉
―――母はそこにちゃんといた。
ケアハウスの1階の風通しの良い部屋に老いた母は居た。南側の窓の下にはカンナが
僕は彼女を連れてケアハウスへと向かっていた。彼女は初めて見る美しい西洋花の花束を持っていた。花の名前をコッソリ聞いてみたが、どれも恐竜みたいな難しい名前で一つも覚えられなかった。
妹が来ない日を選んだので、その日の母はベッドで横になっていた。サイドテーブルの上にはオモチャのブロックが、
母の一瞬を僕は見た。
僕の彼女を、
それから後の母は、僕と彼女を交互に見ては幸せそうには
彼女は帰り道、大きな瞳に涙を浮かべながら、会っておいて良かった、と僕に感謝をしてくれた。僕も、そうだね会って正解だったね、と優しい笑顔を作って答えた。
―――僕は海にいる。
都合よく
あの憎しみだけで作られた母の形相を見たのは、僕の彼女がケアハウスに訪れた日が初めてではなく、どこかで絶対に見た事があるのを僕は感じてた。
そして僕は突然に、過去という魔物から襲われた。それはいつか強烈な体験があった筈なのに、僕が
だから小学校一年生の夏休みの『アノ
何かが抜けている。
何かが足りない。
曖昧だ。
だからこれは、思い出してはいけない、という判断を脳が下しているんだと結論した。きっと『アノ出来事』はこれ以上、細かな部分を
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僕は海にいる。僕の生家から近いあの海だ。あと一週間ほどで夏休みが終わる。そんなタイミングだったような気がするが、上手く覚えていない。
僕の前には母がいたんだ。白いノースリーブのワンピースを着ている母の姿がある。僕と母の二人きりで遊びに来ていたみたいだけど、どうして二人だけだったのかも
こんな日の海は青よりも白い。
僕は母と一緒に浜の碁石を拾っていたんじゃないかと思う。普段ならどんなにカッコいい石や宝石と
「ただの石ころでしょ」
と見もせず叱るだけだった母がどうしてなのかあの日に限って、僕の前で座り込み一緒に碁石を楽しく拾ってくれた。白や黒や灰色や茶色がマーブルになった石やモザイク柄やチェック柄の模様をした石や人の顔や動物の形に似た石なんかを、母は肩から下げたバッグやワンピースのポケットにしまってくれた。僕も半ズボンのポケットに、特にお気に入りの怪獣に見える石とかを詰め込んで上機嫌だった。いつも叱られてばかりだった石拾い、ここぞとばかりに欲張ってしまいポケットは直ぐに一杯になったのを覚えている。母はそんな僕を静かに眺めながら、嬉しそうに幸せそうに今にも泣きそうに、なのに笑顔で僕の手の中のお気に入りの石を自分のバッグへと入れてくれた。
「向こうに行ったらちゃんと返してあげるね」
僕の記憶のフィルムの一つには、こんな母との
さて、ここまではどうにか思い出せはしたんだが、それでも目の前にいる筈の母の顔はどうしても思い出せない。
この直後、どうしてなのかは判らないが、母は僕を抱き締めてくれた。父と母の3人で遊びに行った時のように、ギュッ、としてくれた。微かではあったが、
······ちょっと待てよ。この記憶の母は本当に母だったのだろうか。
少し苦しくもあった母の胸元で、僕は独り
「······あぁ······あの人と同じ匂い······」
あの人って誰だ?母も僕の匂いを
母はそのまま更に、ギュッ、と強く抱き締めると
「······ねぇ······一緒に行こうよ······」
僕のいる後ろへ伸ばした
「······先に行ってるね······」
僕は
その時、僕は思い当たったんだ。あれ程、普段から
ここからの記憶は
母はそこにちゃんといた。
あの記憶の中で僕に
······いや······母に間違いないんだ。なんだコレ、どういう記憶だ?だってコレが母の記憶じゃないのなら、僕や妹を育ててくれて僕がずっと介護していたケアハウスにいる母は、一体誰なんだ。······違う、違うんだ。コレは悪い夢や昔話の所為で混同してしまった間違った記憶だ。
僕は波の中の母を見てスッカリ落ち着きを取り戻した。海が、鬼が、母を連れ去ってしまったんじゃないか、と思い込んでいたからだ。だけど単なる思い過ごしで、母はちゃんと笑顔のままで待っていてくれたんだ。
波の中で、ユラユラしながら······
ずっと、グルングルンと回りながら······
母の右手がダラリとなっていたのが本当は僕を
今行くよっ、待っててっ。
僕の足が勢い良く前方に踏み込んだので、水が
でも突然、後ろから誰かに強く抱き締められた。母がさっき抱き締めてくれたのよりも、強引に乱暴にそして悲しくだった。僕を背後から
振り向いたそこには、母がいたんだ。
それは
さっきまであんなに嬉しそうに笑っていた筈の母が、僕の顔を見るなり糸が切れたみたいに号泣しだした。海の中にいた母なのにちっとも濡れていなくて、そんな不思議な母はただ
何人かの大人が僕と母の
何だろう······何が起きたんだろう······
とても大変な事が、取り返しのつかない事が起こった気がする。大人達は口々に大声で
だが、その表情に僕は呼吸が止まる恐怖を感じる。
鬼のように怒りだけを
そうだった、この目だった。ケアハウスで見せたのは『アノ出来事』での母と同じ目だった。一点へ向けて刺すように
そこには、
荒れ狂う波を身体で受けながら、父もまた何かを号んでいる。誰かの名前のようだ。おそらく僕の知らない名前の人だ。だから覚えていない。跪く父は辛うじて横顔だけが
やがて海の中から、何か得体の知れない『白いモノ』が引き上げられた。『白いモノ』が何なのかは
記憶はこれだけだ。これ以上はもう何一つとして覚えていない。
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父と母の離婚の原因は、父が若い女性と不倫をした所為だからだ、と誰かが言っていたような気がする。この話を聞いたのが、大人になってからの妹だったか、元気だった頃の母だったか、それよりも昔に大人同士が喋っていたのを偶然耳にしたのかは、もう全く思い出せない。
僕の結婚式にも父は呼ばなかった。この区切りを機会に妹にはコッソリと色々を謝ろうと思っていたが、結局はまだしていない。きっと僕だけがグズグズと気にしているだけで妹は、案外あっけらかんと忘れているんじゃないかな、と勝手に思うようにした。
あの日から父とは会っていない。
僕の記憶の父は、跪いたまま、全部が停止している。だから父が生きているのか死んでいるのか判らないし、判ろうとも思わない。
【TITLE】『海と母と母と······』
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