憤怒〈後編〉

―――母はそこにちゃんといた。


 ケアハウスの1階の風通しの良い部屋に老いた母は居た。南側の窓の下にはカンナが可愛かわいらしく咲いている。

僕は彼女を連れてケアハウスへと向かっていた。彼女は初めて見る美しい西洋花の花束を持っていた。花の名前をコッソリ聞いてみたが、どれも恐竜みたいな難しい名前で一つも覚えられなかった。

 妹が来ない日を選んだので、その日の母はベッドで横になっていた。サイドテーブルの上にはオモチャのブロックが、得体えたいの知れない形の何かを完成の途中で放置されたままになっている。綺麗好きれいずきな母なのに孫には甘い。母と妹と子供らが繰り広げているであろう何気ない優しい日常が目に浮かんだ。母は僕に気付くと僕の名前をとても大切そうに言いながらベッドから身体を起こしてきた。僕も母と会うのは久し振りだったが、今日は調子が良さそうだ。僕の横にいた彼女をそのままの流れで紹介すると、花束を持ったまま彼女は、少し深いんじゃないのか、と思う程の丁寧ていねいなお辞儀じぎをした。お陰で彼女は下を向いた格好になったので、本当に気付かなくて良かったと思っている。

 母の一瞬を僕は見た。

 僕の彼女を、憎悪ぞうお怨念おんねんに染まった双眸そうぼうで、まるで呪い殺すかのようににらみ付けていた。本当にまばたく程の出来事であり、僕だけしか知らない。彼女が顔を上げた時にはいつもと変わらない老いた母に、もう戻っていた。

 それから後の母は、僕と彼女を交互に見ては幸せそうにはうなずいて、息子をどうかよろしくお願いします、とか、思いりのあるイイ子なんですよ、みたいな言葉を繰り返すだけだった。

 彼女は帰り道、大きな瞳に涙を浮かべながら、会っておいて良かった、と僕に感謝をしてくれた。僕も、そうだね会って正解だったね、と優しい笑顔を作って答えた。


―――僕は海にいる。


 都合よくじ曲げているのもあるだろうけど、子供の頃の記憶なんて、意外と曖昧なものである。もしかしたら小さい時によく見る怖い夢と、ごっちゃにしているのかもしれない。

 あの憎しみだけで作られた母の形相を見たのは、僕の彼女がケアハウスに訪れた日が初めてではなく、どこかで絶対に見た事があるのを僕は感じてた。

 そして僕は突然に、過去という魔物から襲われた。それはいつか強烈な体験があった筈なのに、僕が忘失ぼうしつしてしまっていたからだった。

 だから小学校一年生の夏休みの『アノ出来事できごと』が思い当たったんだ。長い年月と正体不明のかすみが掛かった脳の中で、小間切れになったフィルムのように断片的だった記憶を、一つずつ寄せ集めて繋ぎ合わせて『アノ出来事』を思いだす作業は、僕が考えていた以上に時間の掛かかる作業になった。それなのに結局、全部はどうしても思い出せない。

 何かが抜けている。

 何かが足りない。

 曖昧だ。

 だからこれは、思い出してはいけない、という判断を脳が下しているんだと結論した。きっと『アノ出来事』はこれ以上、細かな部分を穿ほじくり返してはダメな気がしてならないんだ。


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 僕は海にいる。僕の生家から近いあの海だ。あと一週間ほどで夏休みが終わる。そんなタイミングだったような気がするが、上手く覚えていない。

 僕の前には母がいたんだ。白いノースリーブのワンピースを着ている母の姿がある。僕と母の二人きりで遊びに来ていたみたいだけど、どうして二人だけだったのかもわからない。時間も判らない。昼は過ぎていたようにも思う。けど確証なんて全くない。風が強く、波の勢いがいつもよりはげしかったのは覚えている。そういえばテレビかラジオで颱風たいふうが迫っているようなニュースを流していた気もするが、自信はない。でもあの日の波は、普段以上に大きな地響じひびきを辺りにとどろかせていた。その振動が僕のちっぽけな胸の中で反響し、そのまま細い気管支きかんしを経由して口から、コッ、と小さくれていた記憶はある。

 こんな日の海は青よりも白い。

 僕は母と一緒に浜の碁石を拾っていたんじゃないかと思う。普段ならどんなにカッコいい石や宝石と見紛みまがう波と砂でみがかれた硝子ガラスを持って帰っても、

「ただの石ころでしょ」

 と見もせず叱るだけだった母がどうしてなのかあの日に限って、僕の前で座り込み一緒に碁石を楽しく拾ってくれた。白や黒や灰色や茶色がマーブルになった石やモザイク柄やチェック柄の模様をした石や人の顔や動物の形に似た石なんかを、母は肩から下げたバッグやワンピースのポケットにしまってくれた。僕も半ズボンのポケットに、特にお気に入りの怪獣に見える石とかを詰め込んで上機嫌だった。いつも叱られてばかりだった石拾い、ここぞとばかりに欲張ってしまいポケットは直ぐに一杯になったのを覚えている。母はそんな僕を静かに眺めながら、嬉しそうに幸せそうに今にも泣きそうに、なのに笑顔で僕の手の中のお気に入りの石を自分のバッグへと入れてくれた。

「向こうに行ったらちゃんと返してあげるね」

 僕の記憶のフィルムの一つには、こんな母とのり取りが残っていて、嬉しくなって元気よくうなずく僕、という別のフィルムと繋がった。

 さて、ここまではどうにか思い出せはしたんだが、それでも目の前にいる筈の母の顔はどうしても思い出せない。朧気おぼろげ漠然ばくぜんと若く美しい母、という印象でしかフィルムには焼き付いていなかった。

 この直後、どうしてなのかは判らないが、母は僕を抱き締めてくれた。父と母の3人で遊びに行った時のように、ギュッ、としてくれた。微かではあったが、しょっぱい潮風の中でも花の香りは感じた。名前も知らない西洋花の香り······いつも妹の世話をしている母のい匂いは微塵も感じなかった。

 ······ちょっと待てよ。この記憶の母は本当に母だったのだろうか。

 少し苦しくもあった母の胸元で、僕は独りつぶやく母の声を不思議と覚えている。

「······あぁ······あの人と同じ匂い······」

 あの人って誰だ?母も僕の匂いをいでいたみたいだ。僕と同じ匂いが誰なのかは判らないが、この時の母の声はなつかしむようにくるおしく、なのにサヨナラみたいに窒息ちっそくして聞こえた。

 母はそのまま更に、ギュッ、と強く抱き締めると名残惜なごりおしそうにゆっくりと立ち、ユラユラと幽霊のように海へと歩きだした。今思えばまるで田舎に伝わる昔話みたいな記憶なんだけど、当時の僕はてっきりバッグやワンピースに入れた石が重いんだと心配していた。母は歩きながら僕へと振り向き、

「······ねぇ······一緒に行こうよ······」

 僕のいる後ろへ伸ばした左腕ひだりうでは、水飴みずあめのように甘くやわらかそうに見えた。記憶の中の僕は、大きく一回うなずいてペパーミントみたいな返事をしている。けれど僕の方もポケットの石が邪魔じゃまで歩きにくい。

「······先に行ってるね······」

 僕はあわててゴツゴツとふくらんだポケットから適当な石を捨てようとしたが、欲張よくばって入れ過ぎた所為せいでポケットに引っ掛かり、なかなか出てこない。お気に入りの石なんていつでも探せばいいけど、この日の母には何故なぜか僕が最後まで付いていなきゃいけない気がした。そんなあせりの気持ちが30年以上経った今も、冷たく鼻の奥でツンと残っている。

 ようや碁石ごいしを捨てて母がいた所を見た時は、もうすでに母の姿は消えていた。辺りをグルグルと見渡しても母はどこにもいない。徐々じょじょに込み上がってくる不安と寂しさが潮風よりも目に染みた。僕はしばらく母を探していたがやはり見つからない。独りぼっちで泣きじゃくりながら歩き回っていた記憶が残っていた。

 その時、僕は思い当たったんだ。あれ程、普段から口煩くちうるさく注意していた母が、まさか海に近付いて波に飲まれてしまったんじゃないのか。僕ははじかれたように波打ち際まで走った。海水で黒く光る砂利じゃりに白い泡を立てながら、僕より大きな波が目前にて咆哮ほうこうしている。いつもより間近で見る「鬼の灘戻なだもどり」に普段は全く意識しない鬼が見えたような気がした。れた砂利の上には人間の足跡らしきくぼみがあり、そのまま波の中へと続いていた。僕は怖くて震えながら、りったけの声で波へ向かって何度も叫んでいた。母を返せ、と。

 ここからの記憶はさらに曖昧になるんだが、それでも結果として母を見つけられてとても安心した気持ちだけが残っていた。

 母はそこにちゃんといた。

 あの記憶の中で僕に火傷やけどを負わした美しい母だった。うれしそうに幸せそうに、二度と泣く事のない笑顔で優しく僕を見ていた。波の中から僕を見守ってくれていた。大きな波に母はグルグルと回転させられて、ゴム人形みたいに扱われて、グニャグニャに揺さぶられて、でも波の中で隠れんぼしているみたいに僕を見守ってくれていたんだ。

 ······いや······母に間違いないんだ。なんだコレ、どういう記憶だ?だってコレが母の記憶じゃないのなら、僕や妹を育ててくれて僕がずっと介護していたケアハウスにいる母は、一体誰なんだ。······違う、違うんだ。コレは悪い夢や昔話の所為で混同してしまった間違った記憶だ。

 僕は波の中の母を見てスッカリ落ち着きを取り戻した。海が、鬼が、母を連れ去ってしまったんじゃないか、と思い込んでいたからだ。だけど単なる思い過ごしで、母はちゃんと笑顔のままで待っていてくれたんだ。

 波の中で、ユラユラしながら······

 ずっと、グルングルンと回りながら······

 母の右手がダラリとなっていたのが本当は僕を手招てまねきしていた事に気付き、僕は嬉しくなった。僕の事をずっと呼んでいたんだ。

 今行くよっ、待っててっ。

 僕の足が勢い良く前方に踏み込んだので、水がちょうみたいに跳ねた。僕を見ていた海も一緒になって下品に笑っていた。

 でも突然、後ろから誰かに強く抱き締められた。母がさっき抱き締めてくれたのよりも、強引に乱暴にそして悲しくだった。僕を背後から鷲摑わしづかむように抱いたから足元の海水が暴れてしまい、僕はしこたま水で濡れた。そのまま僕は、その場で強い力で後ろに振り向かされた。海の中から低い舌打ちの音が聞こえた気がする。

 振り向いたそこには、母がいたんだ。

 それはまぎれもなく母だったし、僕が知っている母だったし、でも懐かしい感じのする母だった。いつの間に海から出たんだろう······

 さっきまであんなに嬉しそうに笑っていた筈の母が、僕の顔を見るなり糸が切れたみたいに号泣しだした。海の中にいた母なのにちっとも濡れていなくて、そんな不思議な母はただ只管ひたすらに浜辺で僕を強く抱き締めるだけだった。僕が好きになれずにいた母の乳臭さに少しせたけど、息苦しさの割には思ったほど嫌な気分にはならなかった。

 何人かの大人が僕と母のわきけ抜けてゆく。矢庭やにわに辺りが騒がしくなったかと思えば、大人達は次々と荒れる海へと飛び込んでいった。

 何だろう······何が起きたんだろう······

 とても大変な事が、取り返しのつかない事が起こった気がする。大人達は口々に大声でさけんでいたが、それが何だったのかこれっぽっちも覚えていない。僕は唐突とうとつに母の事が心配になった。心配というよりも母が本当に存在しているのかを疑っていた。もしかして、抱き締めているこの人は母じゃないのかもしれない。だって、母は海の中にいたじゃないか。僕は母の存在の自信を失い、確かなものなのかを知りたい一心で身体をよじじり母の顔を下から見た。

 だが、その表情に僕は呼吸が止まる恐怖を感じる。

 鬼のように怒りだけをあらわにした形相、そして憎々しげににらみつける双眸そうぼうから放たれる殺意。こんなにもはげしい記憶を僕は脳ミソの中で静かに沈ませていた。

 そうだった、この目だった。ケアハウスで見せたのは『アノ出来事』での母と同じ目だった。一点へ向けて刺すように凝視ぎょうしし続ける恐ろしい母が何を見ているのかが気になってしまい、僕は母の視線を辿たどるように振り向いた。

 そこには、ひざまずく父がいた。

 荒れ狂う波を身体で受けながら、父もまた何かを号んでいる。誰かの名前のようだ。おそらく僕の知らない名前の人だ。だから覚えていない。跪く父は辛うじて横顔だけがうかがえたが、表情は血のように赤く烈しく、父の姿も鬼と同じだった。父はどうしてなのか僕と母を見ようともしない。気付いていないのだろうか。

 やがて海の中から、何か得体の知れない『白いモノ』が引き上げられた。『白いモノ』が何なのかはわからないが『右手が付いている白いモノ』とだけ覚えている。父の視線は『白いモノ』に向けられている。父は『白いモノ』を見ながら何かを号んでいるが、やはり覚えていない。母はいつまでも沈黙したまま、けれど確実に揺るぎなく呪うように睨み続けていた。その瞳が父に向けられていたのか『白いモノ』だったのかは解らない。『白いモノ』はびしょ濡れになったバッグを大事そうに握っていた。そのバッグから大量の碁石がザラザラとこぼれ出ていた。でも僕が欲しいと思った石は1個ぐらいしかなかった。僕と母のすぐ横を『白いモノ』が右手をダラリとさせて大人達に連れ去られてゆく。

 記憶はこれだけだ。これ以上はもう何一つとして覚えていない。

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 父と母の離婚の原因は、父が若い女性と不倫をした所為だからだ、と誰かが言っていたような気がする。この話を聞いたのが、大人になってからの妹だったか、元気だった頃の母だったか、それよりも昔に大人同士が喋っていたのを偶然耳にしたのかは、もう全く思い出せない。

 僕の結婚式にも父は呼ばなかった。この区切りを機会に妹にはコッソリと色々を謝ろうと思っていたが、結局はまだしていない。きっと僕だけがグズグズと気にしているだけで妹は、案外あっけらかんと忘れているんじゃないかな、と勝手に思うようにした。


 あの日から父とは会っていない。

 僕の記憶の父は、跪いたまま、全部が停止している。だから父が生きているのか死んでいるのか判らないし、判ろうとも思わない。





【TITLE】『海と母と母と······』

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