第2話 憤怒〈前編〉

 子供の頃の記憶なんて、意外と曖昧あいまいなものである。もしかしたら小さい時によく見る怖い夢と、ごっちゃにしているのかもしれない。


 僕の生まれ育った土地は海の匂いが濃い。生家から海までは子供の足でも5分と掛からないし、日によっては庭先まで磯臭いそくさい風が届く。まったく近所に海があるもんだから僕を含めた子供達は、鉄砲玉のように海へと飛んでいってしまう忙しい田舎の腕白わんぱくに必然育った。まだ国鉄と呼ばれていた頃の単線をまたぎ、海岸線と平行する狭い国道を一気に走り抜けると、手前にある松林のにがくて青い空気が鼻腔びくうの奥へと遠慮せず入ってくる。子供時分の僕らは小さな体の全部を使って、遊び場へと突入していった記憶がある。

 その先にわすは、東西に長く伸びる有名な碁石ごいしの浜と、南へ一面に広がる紀州のなだ見据みすえる風景。遊びが仕事だった当時の僕らをもってしても、フィールド全てをかして遊ぶなんてのは到底できない広大な場所だった。しかしそこは、大は小を兼ねる、なんて慣用句もあるくらいだ。腕白共にとってはさしたる問題ではなかった。

 今の世の中と比較するのがそもそも論なのかもだが、現代風のアスレチックな遊具のある公園や自宅でコソコソと孤独に遊ぶデジタル玩具なんてのは過去の、してや田舎の町にあるはずがなかったし、仮に存在していたとしても当時の腕白連中が携帯していた熱量と行動力をおさえる方法なんてのは、今考えても思い浮かばない。

 所でどうして、抑える方法、などと持って回った言い方をしたのか。それは僕らの親一同がそろって持っていた強い憂慮ゆうりょがあったからだ。この件に関しては日頃から、遊びに行く、と言っただけで口煩くちうるさく注意を受けていたのを何となくボンヤリとだが覚えている。

「海には絶対入っちゃダメよっ」

 皆の遊び場だった碁石の浜でどれだけ暴れようとも𠮟られる事はなかったが、南に広がる海で遊ぶのだけは、僕の親のみならず他の腕白の親も同じように強く禁じていた。

 この辺り一帯は荒海で有名な土地だっだ。松林から浜に向かう途中には「遊泳禁止」と注意喚起ちゅういかんきうながす丈夫な看板がアチコチに立っており、まだ字もろくに読めないガキンチョでも「遊泳禁止」の読み方と意味だけは教え込まされていた。特に僕の住んでいた付近の海は太平洋の大波が正面から真面まともにぶつかる場所で、それに伴う強い引波を地元では「鬼の灘戻なだもどり」と呼び、み嫌っていた。

 実はこの呼び名には物語がある。紀州独特の地形と土地柄に由来していて、ほぼほぼ陸の孤島のこの辺りには人買いが横行していたらしい。そういう下敷きもあってなのか、村一番の器量のい娘が鬼の嫁になる為に海へとさらわれてしまい、それを悲しんだ娘の幼い弟もまた鬼と共に海へと入っていった、という昔話があった。だから、誰かが海で亡くなる度に、

「また鬼が攫いやがったか」

 などと大人達は騒ぎ、

「海に子供を近付けるなっ、道連れにされるぞ」

 みたいな内容を口にしていた気がするんだけどな······ん、やっぱり違うかもしれない。別の話、例えば夢の中の話なんかをどこかで勘違いしているような気分がする。

「あの海ではねぇ、毎年何人も亡くなっちゃってたんだよ」

 そう母から教えてもらったのは、生まれた土地を離れて中部の都会に出てきてからのような気もするし。子供時代の僕の周辺でそういう事故とか事件があったのなら、少しぐらいは記憶に残るとは思うんだが······

 あれ?『アノ出来事』は?······いやいや、アレは関係ないだろ。

 まぁ、こんな感じで如何いかんせん曖昧なんだよ。子供の頃の、恐らくは7歳ぐらいの記憶がどうにもあやふやとしていて収まりが悪い。だがそこは僕も本当にいい歳だって事もある。情けない話だが、小学校の遠足なんてどんな所に行ったのかすらも忘れてしまっている。7歳当時の出来事なんて僕の結婚が決まらなかったら、これ程までに懸命に振り返る事もしなかっただろう。

 ただ、確かなのは海だ。何故かあの土地の海には、忘れてはならない暗示サゼッションが秘められているように思えてならない。

 母とたとええられる海の優しさなんかは微塵みじんも感じない、重く低く震える地響きをともない、ドオォン、ととどろく波。海岸線へサラサラと甘く寄せたりなんかしない、縦に渦巻きながら下へと叩きつける荒く硬い波。ロールケーキみたく内側へクルクルと海水を巻き込み、砂より重い碁石の浜をえぐけずりながら飛沫ひまつを散らす波。言われてみれば、昔の人が鬼と形容したのもうなずける奇観きかんである。腕白にも充分に理解できる海の恐ろしさだった故に、誰一人として泳ごうだなんて言い出す奴はいなかったが、何処どこまで荒波に接近できるかみたいな度胸試し的な遊びが流行ったぐらいはあった。そういう馬鹿な遊びをくわだてるのもバレている上で、親達も口酸くちすっぱく注意していたのであろう、と今更に親心というのに気付いたりする。だからなのか子供達も、度胸試し、なんて言葉を使う程度には海の怖さを承知しながら遊んでたんだ。


―――何人かの大人が僕と母の脇を駆け抜けてゆく。

 

 曖昧な記憶と言うのならこれもそうだ。

 やはり7歳の頃だと思うんだけど、記憶に誤りがないのなら父と母の3人でよく遊びに出掛けた思い出があるんだ。

 例えば、少し離れた町にあった小さなデパートの屋上にある、ぎこちない動きのメリーゴーラウンドに乗ったとか。何処どこなのかは覚えてないけど、さびれた喫茶店で注文したクリームソーダが、身体に悪そうな蛍光グリーンの色をしていたとか。ここの海はあそこみたいに荒くは無いからね、と波打ち際で拾った名前も知らない綺麗な貝殻だとか。子供にはまだ早いんじゃないのか、と感じた字幕スーパーの映画を観に行ったりだとか。

 他にもあるけど、どれも鮮明に思い出せるから夢とかではないと僕は考えている。ここまでなら幼い頃の淡いシネマカラーな思い出話なんだからどうって事はないんだが、この思い出には欠陥があった。

 妹だ。

 僕には4歳下の妹がいる。という事は、思い出には妹が一緒にいなくちゃおかしい。しかし僕の記憶をどれだけ引っくり返しても、遊びに出掛けたのは父と母と僕の3人だけで、年端としはの行かない妹の姿なんてどこにもない。なので、やはり曖昧な記憶となってしまう。

 勿論もちろん言うまでもなく、血はしっかりと繋がった兄妹だ。妹が産まれてからの家族との微笑ましい写真が、草臥くたびれたアルバムに順序よく並んでる。

 という事は妹が産まれる以前の記憶なのか。それだと僕が4歳の頃までさかのぼってしまう。しかも妹がまだお腹にいるのを考慮したら更に下がって3歳の半ばよりも前くらいの記憶にならなきゃおかしい。そんなにも昔の思い出なのだろうか。確かに子供時代をハッキリ覚えている奴も巷間こうかんには相当数いるのだろうけど、僕の脳ミソはそっちじゃなく残念な方だと疾っくに自覚済みだし、父が身重の母を連れ回してアチコチ出歩いていたとはちょっと考えにくい。

 ならば父も母も、まだ赤ん坊と変わらない3歳の妹を置いて、3人だけで出掛けたというのだろうか。例えば妹を親戚か知人に預けていたとか。いや、父も母も関東の出身。この紀州には親戚なんていないと聞いた。余所よそから来た父と母に、気を許して頻繁ひんぱん不躾ぶしつけなお願いのできる知人もいなかったと思う。しかも妹を置いて3人だけで出掛けるような薄情な一家を、田舎の小さなコミュニティは寛容かんようには扱ってくれない。余所者という形を持たない肩身の狭さは、腕白連中の間では感じはしなかったが、大人の世界では大なり小なりあったんじゃないかな。

 そんな要因の所為せいかどうかは判らないけど、父と母は僕が小学校1年生の2月期が始まって間もなく、離婚している。当たり前だが、それから後の思い出に父の姿は登場しない。

 待てよ『アノ出来事』の時も妹はいなかったぞ。父も一緒じゃなかった······いや違う、後から父は来たんだっけ。

 あぁ、もう本当に曖昧だ。別に忘れているからって今の何かが大きく変化するでもないんだが、ボタンを掛け違えたシャツを着ているみたいでムズムズして仕方ない。自信を持って言えるのは、海の記憶と一緒で必ず過去において体験した出来事だ。小さな齟齬そごくらいはあるかもしれないが、夢とか別の話を持ってきてるでなく、現実であった感覚が五感に染み込んでいる。

「だってもう7歳だもんねぇ······」

 母が僕に向かって言ってくれた言葉だ。覚えている。そう、7歳の時なんだ。あのいつくしみのもった優しく包み込む声で語り掛けてくれたのは、母だった。そしてこんな母の声も残っていた。

「夏休みにこんな所まで3人で来れるなんて······」

 7歳と夏休みと3人だけ。だから僕の思い出は小学校1年生の夏休みで、父と母と僕の3人でいる思い出なんだ。しかも思い出の中の父と母は幸せな雰囲気にあふれているというのに、この後1ヶ月もしないうちに離婚してしまう。そういう過去の記憶なんだ。


―――僕の前には母がいたんだ。


 妹は今も元気にしている。疾っくに嫁いで子供も4人いる。別にこれと言って不自由も無く普通に暮らしているらしい。むしろ、このご時世じせいに4人も子供をもうけるなんて、と少しばかり呆れもするが幸せな人生のあかしとも言えるだろう。

 妹が結婚した時の話になるが、僕はそれとなしに父について妹に聞いた事があった。どうしても尋ねたかった訳ではないのに、何故聞いたのかは覚えていない。結婚式に呼ぶ親戚の名前を確認している中で不意にポンと出たんだと思うが妹は、何言ってんの、みたいな怪訝けげんそうな事をくっちゃべりながら、

「父さんの思い出なんてないよ」

 あっけらかんと答えてみせた。離婚当時3歳そこそこの妹も、僕と同程度の記憶力だったみたいだな、と今なら思えても当時は、

「はぁ?、覚えてないのかよっ」

 と驚いたもんだ。てっきり父の姿は妹も共有していると思い込んでいたのが長男の全く以て浅はかな所であり、しきりに反省した。

 妹の結婚式に父は呼ばなかった。

 母は今、ケアハウスにいる。

 介護型の施設に住んでいる。認知症がいよいよ進行してしまい、僕だけの介護ではどうしようも手に負えなくなってしまったのが理由だ。それでもケアハウスに入所してからの母の病状は少し落ち着きを見せたので、安心したよ、と僕は妹に心境を報告した。

 息子の僕だから許される感情がある、と思っているのでこの件に関しては正直に語るが、ケアハウスにいるのは母の残骸だ。特に、幼い日の記憶にベッタリと焼き付いている母は、もういない。こんな考え方を止められない僕は、恐らくはマザコンで間違いないだろう。これと決まった恋人を作らず、老いた母の介護を自ら進んでやっていた。

 また曖昧な記憶の話になるが、僕が子供時代の母、特にあの7歳の頃だけだが、僕は母から二通りの愛情を受けていたように覚えている。

 妹が産まれてからの母は、僕が産まれた時と同じように妹へと付きっ切りになった。赤ん坊から目が離せないのは全ての親に共通する仕方ない事情なんだが、母からの当たり前だった独占的な暖かさが薄れ、

「もうお兄ちゃんなんだからね」

 という独立と責任をうながす言葉が徐々に混じるようになった。今でも思い出す度に心の黄色い部分が涙ぐむが、あの頃も子供ながらに母の態度の端々はしばしに、二人の子育てと村社会の特殊性の疲れを感じ取っていたのも確かだった。なのに母からの愛情を常に求めていたのが当時の僕であり、だから普通に甘えもしていたし母もそんな僕の気持ちを知ってくれていたのか優しかった方だと信じたい。ただその愛情も妹が産まれる以前の濃さは失われており、僕は母からの愛情を渇望かつぼうしていた。

 この頃の母の顔をどうしてもハッキリとは思い出せない。それは子育てと今だ慣れない田舎の生活に翻弄ほんろうされた母が、少し老け始めた所為があるのだと思っている。若い頃の母の顔だけが僕の記憶を上書きしてきて、脳ミソが老いた母を意図的に風化させてしまったんだ。でも勝手な脳ミソの判断に感謝してしまう程に、僕の記憶の母は今でも美しい。

 ついさっきマザコン宣言をしたばかりなので妙な誤解をされたくないんだが実際、関東出身というだけあって昔の母は周りと比べると確かに垢抜あかぬけていた。僕にとっても自慢の母親だったが、そんなのも含めて土臭い周囲からはやっかまれていたんだろう。

 ま、男の子ってのはおおむね心の中に美しい母親の姿をとどめているもんだし、そういうのは息子として健全な証拠とも思っているが、確かに僕は妹が産まれて母の美しさにかげりが生じた事に、何もできなかった無力感が今でも残っていて、そういうのが個人的にも面白くないだけなんだ。勿論、妹に対して変な逆恨みなんてある筈ないし、ホントに個人的な見解なんだから今更無理に穿鑿せんさくする気もない。母の子育てに関してはあくまで僕の主観ばかりなので、母にしてみれば分けへだてなく育てた自負があるだろう。けれどどうしても僕の中の考え方は自分中心なものになってしまうので、結論するなら妹の育児に追われていた頃の母との思い出に、あまり良いものが無い。

 しかしそれもこれも、あの7歳の夏休みに帳消しになった。過去の僕の人生において、あんなに優しさに満たされた思い出はない。妹が産まれて以降、僕が求めていたもの以上の愛情があの夏休みに集中している。そして曖昧な3人だけの思い出の中で、不思議な程に存在が浮き上がってくるのは、やはり母である。普段、家の中で一緒にいる母とは違い余所行よそゆきの姿をした母からは、骨肉とは別の大人の女性の匂いがして、子供でも、いや息子だからこそだろうか、婀娜あだめく気配みたいなのを感じ取り夏の強い日差しの下で僕は少し照れてしまったのを覚えている。暴露するなら、この頃の影響で僕の女性観みたいなのが決まってしまった。マザコンであるのを他人に誇示した事はないが、年上の女性にばかり目が向いていたのはいなめない。

 あの夏休みに見た母の姿は、遠き日の小さな火傷やけどとなって心の中でくすぶっていた。そしてあの夏の母は、僕が日頃から求めて止まなかった愛情の殆どを、しむ事なく注いでくれた。

 学校や腕白達との他愛もない話にも僕の目線の高さにまでしゃがみ込んで、うんうん、と嬉しそうに頷きながらに聞いてくれたり、横で一緒に歩く時は、少し冷たいてのひらで僕の小さな手を柔らかく優しく包むように繋いでくれたり、僕を愛おしそうに強く抱き締めてくれる事が時々あったり。今思えば、何もそこまでしなくても、と感じてしまう異常さを含んだ愛情に近いのかもしれない。母の胸元からはいつも微かに花のようなオー・ド・トワレの香りがして、家で妹の世話をしている時の乳臭い母とは別人と思えてならなかった。

 それでも僕にとってはどちらも愛しき母である。家での母も外での母も一緒だ······いや、そんな単純な答えを用意して当時の感情を誤魔化しちゃいけない。要は妹の育児で僕への関心を疎かにした母が存在したからこそ、余所行きの母に強くしびれてしまっただけなんだ。きっとそうに違いない。この世に一人しかいない母親を状況だけで比較してしまう僕の頭の悪さには、もう閉口するしかない。一度だけ、余所行きの母に会いたい、みたいな我儘わがままを言って叱られた思い出があるが、どうして叱られたのか、それが父だったのか母だったのかすら覚えていない。でも幼い子供の気持ちを推してみるなら致し方なかったんじゃないかな。

 さて、ここまで母への感情をつまびらかにしてもだ、依然として余所行の母の顔もまた、ハッキリとは思い出せない。

 二通りの母。二通りの愛。

 たった一度だけ二つの母が重なっている記憶があるんだが、逆にこの記憶があるお陰で全部がグシャグシャになっている気がする。30年以上も昔を思い出すなんてのは厄介な作業な上に、振り返った所で実際に正しい現実だったかなんて確信も持てないし検証すらできない。

 やっぱり曖昧だ。曖昧なんだ。

 小間切こまぎれになったフィルムのように断片的だった記憶を、一つずつ寄せ集めて繋ぎ合わせて『アノ出来事』を思いだす作業は、僕が考えていた以上に時間が掛かっているのだが『アノ出来事』はこれ以上は細かな部分を穿ほじくり返すものではないんじゃないかな。


―――突然、後ろから誰かに強く抱き締められた。


 僕は噓をいている。正確には妹に黙っている事がある。母についてだ。知られたらきっと妹は怒るに違いない。だから僕も黙っている。僕が母へ犯した罪はおそらくこれで秘密にできる。心の中をさらしてしまえば、僕は母を介護しながら母からの愛情を欲していただけだった。あの7歳の夏休みの母を求めていた。そして僕は母の優しさなんかを求めていたのではなく、夏の陽射しの下で見た花の香りのする母の姿だけを求めていたんだ。これは僕の曖昧な記憶の為の行動ではない。じれ曲がった黒い欲望に近い感情だったのを、正直に告白しておく。全てのけりが付いた今だから言えるのだが、介護を買って出てた頃の僕もまた病気だったんだと思う。

 認知症が進行するにつれて今の自分から忘れ始め、緩慢かんまんではあったが確実に過去へと戻ってゆく母。思い返せば、僕を中学生みたいな扱いをしだした辺りでケアハウスへ入所させるべきだったと後悔しているが、あの頃の僕は過去の母に会う為だけに介護を続けていて何も見えてなかった。早い話、僕の心の中にあった夏休みの火傷はこれっぽっちも治っておらず、日を追って過去へとさかのぼってゆく母を間近でながら期待と興奮を隠していたんだ。

 あの夏の母にもう一度逢いたい。逢って再び僕をギュッとして欲しい。異常としか思えないあの夏休みへの執着が、母の大切な記憶をもてあそんでいた。やがて母の人生に対する冒瀆ぼうとくが忘却の歯車を狂わせ始める。

 母は僕の事を父の名前で呼び始めるようになった。

 母の瞳には僕の姿だけが映っているのに、母の脳では父として認識しているみたいだ。そして母は僕の全く知らない老女になった。

 僕の横に寄り添って座り、首を肩に預けてくる母。愛おしそうに無言で只管ひたすらに僕を見つめるだけの母。僕の手を取ると執拗しつよう愛撫あいぶする母。今まで耳にした事もない蜜の声で、見せた事もない濡れた視線で、想像すらした事もないふしだらな嬌態きょうたいで、僕にまとわり付く老いた女性。

 なんだよコレはっ。

 コレじゃないんだよっ。

 こんなの母なんかじゃないよっ。

 ある夜、僕の寝ていたベッドに裸の母が入ってきて、僕は泣いた。母は、何の事だか解らない、といった表情と老いて醜く朽ちた裸体のままで、ただ狼狽ろうばいしていた。

 また父の名で、僕を呼んだ。


―――そこには、ひざまずく父がいた。


 母がケアハウスに入所してからは、僕の人生が急ぎ足で変化していくのを感じていた。あらかじめ妹がケアハウスへの申込みをしていたらしく、タイミングが合ったのは僥倖ぎょうこうと言ってもいいだろう。母を介護していた頃の心理は、過去から現在まで引きってきた色褪いろあせた呪縛だったのかもしれない。

 そして、もう結婚なんてのは諦めてもいたのに、16歳も年下の彼女ができるなんて思ってもいなかった。何より僕が年下の女性に興味を持ったのが、周囲ではちょっとしたセンセーショナルな事件となって騒がれた。今度は妹が安心し、僕はやっぱり照れてしまい、ケアハウスにいる母には報告だけはしておいた。

 母は時々だけど普通の状態に戻るようになった。それでも偶に僕を父と間違えてしまうようだ。そんな時は僕も慌てずに優しく返事をすると、随分と嬉しそうに微笑んでくれる。僕のできる小さな罪滅しだ。

 老いた母に僕の彼女が会いたいと言い出したのは、プロポーズを受け入れてくれた翌日だった。でも彼女の気持ちに僕も妹も簡単には賛成できなかった。彼女には返事を保留にしつつ、この件で妹とは電話でだったけど2回か3回ぐらいは相談をしたと思う。しかしどうも僕と妹の間では何か奇妙なズレみたいなのがあるのに気付いた。僕は大好きだった母が見窄みすぼらしく老けてしまった姿を見せたくなかったのに対し妹は、

「認知症の所為で変な態度を取って先方に迷惑を掛けてしまうと申し訳ない」

 と病状の方を何度も心配していた。確かに妹の方が常識的な判断だろうし、まだ僕のマザコンは治っちゃいないな、と苦笑もしたんだが、ふと兄妹だからこそ直感する薄い隔たりみたいな違和感を感じた。あの時、母と妹は僕が知らない何か女同士の共有物を隠しているようにも思えたんだ。根拠なんて一つもないが、現に母の認知症の悪化を見越してケアハウスを事前に予約していた辺りから、妹は僕を母から引き離す方向に懸命になっていた気がする。今でも僕がケアハウスに見舞いに行く事ですら、あまり良い態度を示さない。老いた母を気に掛け始め、自分の子供達を連れてはケアハウスに出入りするようになったのも、こんな流れがあったからだ。とついだオマエがそこまでしなくてもいいから、と叱っても、

「これが私の親孝行なのよ」

 子供達もお祖母ばあちゃん大好きだし、みたいな事を付け加えた挙げ句に、

「お兄ちゃんの人生で最後の結婚チャンスなんだから邪魔する訳にはいかないわ」

 なんてうそぶく始末。僕としても二の句が告げられない。

 母と妹との共有物を今後、僕の生涯で気にして考える事はおそらく二度とない。何か隠したい事があるにせよ、また妹の誤魔化し方が格段に下手にせよ、たった3人の家族なんだし、無理に穿ほじくっても良いモノなんて出てきやしない。秘密なんてのは大昔からそういう正体が殆どだ。

 しかし、僕の彼女は早くに両親を亡くしている。だから彼女のおもいをどうしても無視するなんてできなかったんだ。母が僕を父と間違えても上手になせる自信があったし、義母だからこそ結婚する前にどうしても会いたい、という彼女の気持ちを僕だけがんで、妹には内緒で彼女をケアハウスに連れて行く事に決めたんだ。

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