第2話 憤怒〈前編〉
子供の頃の記憶なんて、意外と
僕の生まれ育った土地は海の匂いが濃い。生家から海までは子供の足でも5分と掛からないし、日によっては庭先まで
その先に
今の世の中と比較するのがそもそも論なのかもだが、現代風のアスレチックな遊具のある公園や自宅でコソコソと孤独に遊ぶデジタル玩具なんてのは過去の、
所でどうして、抑える方法、などと持って回った言い方をしたのか。それは僕らの親一同が
「海には絶対入っちゃダメよっ」
皆の遊び場だった碁石の浜でどれだけ暴れようとも𠮟られる事はなかったが、南に広がる海で遊ぶのだけは、僕の親のみならず他の腕白の親も同じように強く禁じていた。
この辺り一帯は荒海で有名な土地だっだ。松林から浜に向かう途中には「遊泳禁止」と
実はこの呼び名には物語がある。紀州独特の地形と土地柄に由来していて、ほぼほぼ陸の孤島のこの辺りには人買いが横行していたらしい。そういう下敷きもあってなのか、村一番の器量の
「また鬼が攫いやがったか」
などと大人達は騒ぎ、
「海に子供を近付けるなっ、道連れにされるぞ」
みたいな内容を口にしていた気がするんだけどな······ん、やっぱり違うかもしれない。別の話、例えば夢の中の話なんかをどこかで勘違いしているような気分がする。
「あの海ではねぇ、毎年何人も亡くなっちゃってたんだよ」
そう母から教えてもらったのは、生まれた土地を離れて中部の都会に出てきてからのような気もするし。子供時代の僕の周辺でそういう事故とか事件があったのなら、少しぐらいは記憶に残るとは思うんだが······
あれ?『アノ出来事』は?······いやいや、アレは関係ないだろ。
まぁ、こんな感じで
ただ、確かなのは海だ。何故かあの土地の海には、忘れてはならない
母と
―――何人かの大人が僕と母の脇を駆け抜けてゆく。
曖昧な記憶と言うのならこれもそうだ。
やはり7歳の頃だと思うんだけど、記憶に誤りがないのなら父と母の3人でよく遊びに出掛けた思い出があるんだ。
例えば、少し離れた町にあった小さなデパートの屋上にある、ぎこちない動きのメリーゴーラウンドに乗ったとか。
他にもあるけど、どれも鮮明に思い出せるから夢とかではないと僕は考えている。ここまでなら幼い頃の淡いシネマカラーな思い出話なんだからどうって事はないんだが、この思い出には欠陥があった。
妹だ。
僕には4歳下の妹がいる。という事は、思い出には妹が一緒にいなくちゃおかしい。しかし僕の記憶をどれだけ引っくり返しても、遊びに出掛けたのは父と母と僕の3人だけで、
という事は妹が産まれる以前の記憶なのか。それだと僕が4歳の頃まで
ならば父も母も、まだ赤ん坊と変わらない3歳の妹を置いて、3人だけで出掛けたというのだろうか。例えば妹を親戚か知人に預けていたとか。いや、父も母も関東の出身。この紀州には親戚なんていないと聞いた。
そんな要因の
待てよ『アノ出来事』の時も妹はいなかったぞ。父も一緒じゃなかった······いや違う、後から父は来たんだっけ。
あぁ、もう本当に曖昧だ。別に忘れているからって今の何かが大きく変化するでもないんだが、ボタンを掛け違えたシャツを着ているみたいでムズムズして仕方ない。自信を持って言えるのは、海の記憶と一緒で必ず過去において体験した出来事だ。小さな
「だってもう7歳だもんねぇ······」
母が僕に向かって言ってくれた言葉だ。覚えている。そう、7歳の時なんだ。あの
「夏休みにこんな所まで3人で来れるなんて······」
7歳と夏休みと3人だけ。だから僕の思い出は小学校1年生の夏休みで、父と母と僕の3人でいる思い出なんだ。しかも思い出の中の父と母は幸せな雰囲気に
―――僕の前には母がいたんだ。
妹は今も元気にしている。疾っくに嫁いで子供も4人いる。別にこれと言って不自由も無く普通に暮らしているらしい。
妹が結婚した時の話になるが、僕はそれとなしに父について妹に聞いた事があった。どうしても尋ねたかった訳ではないのに、何故聞いたのかは覚えていない。結婚式に呼ぶ親戚の名前を確認している中で不意にポンと出たんだと思うが妹は、何言ってんの、みたいな
「父さんの思い出なんてないよ」
あっけらかんと答えてみせた。離婚当時3歳そこそこの妹も、僕と同程度の記憶力だったみたいだな、と今なら思えても当時は、
「はぁ?、覚えてないのかよっ」
と驚いたもんだ。てっきり父の姿は妹も共有していると思い込んでいたのが長男の全く以て浅はかな所であり、
妹の結婚式に父は呼ばなかった。
母は今、ケアハウスにいる。
介護型の施設に住んでいる。認知症がいよいよ進行してしまい、僕だけの介護ではどうしようも手に負えなくなってしまったのが理由だ。それでもケアハウスに入所してからの母の病状は少し落ち着きを見せたので、安心したよ、と僕は妹に心境を報告した。
息子の僕だから許される感情がある、と思っているのでこの件に関しては正直に語るが、ケアハウスにいるのは母の残骸だ。特に、幼い日の記憶にベッタリと焼き付いている母は、もういない。こんな考え方を止められない僕は、恐らくはマザコンで間違いないだろう。これと決まった恋人を作らず、老いた母の介護を自ら進んでやっていた。
また曖昧な記憶の話になるが、僕が子供時代の母、特にあの7歳の頃だけだが、僕は母から二通りの愛情を受けていたように覚えている。
妹が産まれてからの母は、僕が産まれた時と同じように妹へと付きっ切りになった。赤ん坊から目が離せないのは全ての親に共通する仕方ない事情なんだが、母からの当たり前だった独占的な暖かさが薄れ、
「もうお兄ちゃんなんだからね」
という独立と責任を
この頃の母の顔をどうしてもハッキリとは思い出せない。それは子育てと今だ慣れない田舎の生活に
ついさっきマザコン宣言をしたばかりなので妙な誤解をされたくないんだが実際、関東出身というだけあって昔の母は周りと比べると確かに
ま、男の子ってのは
しかしそれもこれも、あの7歳の夏休みに帳消しになった。過去の僕の人生において、あんなに優しさに満たされた思い出はない。妹が産まれて以降、僕が求めていたもの以上の愛情があの夏休みに集中している。そして曖昧な3人だけの思い出の中で、不思議な程に存在が浮き上がってくるのは、やはり母である。普段、家の中で一緒にいる母とは違い
あの夏休みに見た母の姿は、遠き日の小さな
学校や腕白達との他愛もない話にも僕の目線の高さにまでしゃがみ込んで、うんうん、と嬉しそうに頷きながらに聞いてくれたり、横で一緒に歩く時は、少し冷たい
それでも僕にとってはどちらも愛しき母である。家での母も外での母も一緒だ······いや、そんな単純な答えを用意して当時の感情を誤魔化しちゃいけない。要は妹の育児で僕への関心を疎かにした母が存在したからこそ、余所行きの母に強く
さて、ここまで母への感情を
二通りの母。二通りの愛。
たった一度だけ二つの母が重なっている記憶があるんだが、逆にこの記憶があるお陰で全部がグシャグシャになっている気がする。30年以上も昔を思い出すなんてのは厄介な作業な上に、振り返った所で実際に正しい現実だったかなんて確信も持てないし検証すらできない。
やっぱり曖昧だ。曖昧なんだ。
―――突然、後ろから誰かに強く抱き締められた。
僕は噓を
認知症が進行するにつれて今の自分から忘れ始め、
あの夏の母にもう一度逢いたい。逢って再び僕をギュッとして欲しい。異常としか思えないあの夏休みへの執着が、母の大切な記憶を
母は僕の事を父の名前で呼び始めるようになった。
母の瞳には僕の姿だけが映っているのに、母の脳では父として認識しているみたいだ。そして母は僕の全く知らない老女になった。
僕の横に寄り添って座り、首を肩に預けてくる母。愛おしそうに無言で
なんだよコレはっ。
コレじゃないんだよっ。
こんなの母なんかじゃないよっ。
ある夜、僕の寝ていたベッドに裸の母が入ってきて、僕は泣いた。母は、何の事だか解らない、といった表情と老いて醜く朽ちた裸体のままで、ただ
また父の名で、僕を呼んだ。
―――そこには、
母がケアハウスに入所してからは、僕の人生が急ぎ足で変化していくのを感じていた。
そして、もう結婚なんてのは諦めてもいたのに、16歳も年下の彼女ができるなんて思ってもいなかった。何より僕が年下の女性に興味を持ったのが、周囲ではちょっとしたセンセーショナルな事件となって騒がれた。今度は妹が安心し、僕はやっぱり照れてしまい、ケアハウスにいる母には報告だけはしておいた。
母は時々だけど普通の状態に戻るようになった。それでも偶に僕を父と間違えてしまうようだ。そんな時は僕も慌てずに優しく返事をすると、随分と嬉しそうに微笑んでくれる。僕のできる小さな罪滅しだ。
老いた母に僕の彼女が会いたいと言い出したのは、プロポーズを受け入れてくれた翌日だった。でも彼女の気持ちに僕も妹も簡単には賛成できなかった。彼女には返事を保留にしつつ、この件で妹とは電話でだったけど2回か3回ぐらいは相談をしたと思う。しかしどうも僕と妹の間では何か奇妙なズレみたいなのがあるのに気付いた。僕は大好きだった母が
「認知症の所為で変な態度を取って先方に迷惑を掛けてしまうと申し訳ない」
と病状の方を何度も心配していた。確かに妹の方が常識的な判断だろうし、まだ僕のマザコンは治っちゃいないな、と苦笑もしたんだが、ふと兄妹だからこそ直感する薄い隔たりみたいな違和感を感じた。あの時、母と妹は僕が知らない何か女同士の共有物を隠しているようにも思えたんだ。根拠なんて一つもないが、現に母の認知症の悪化を見越してケアハウスを事前に予約していた辺りから、妹は僕を母から引き離す方向に懸命になっていた気がする。今でも僕がケアハウスに見舞いに行く事ですら、あまり良い態度を示さない。老いた母を気に掛け始め、自分の子供達を連れてはケアハウスに出入りするようになったのも、こんな流れがあったからだ。
「これが私の親孝行なのよ」
子供達もお
「お兄ちゃんの人生で最後の結婚チャンスなんだから邪魔する訳にはいかないわ」
なんて
母と妹との共有物を今後、僕の生涯で気にして考える事はおそらく二度とない。何か隠したい事があるにせよ、また妹の誤魔化し方が格段に下手にせよ、たった3人の家族なんだし、無理に
しかし、僕の彼女は早くに両親を亡くしている。だから彼女の
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