R=H【Restricted=Homo sapiens 人間の閲覧禁止】
美人蔵いでる
第1話 憂鬱
夏に入る前の話になる。
だから過去の話だ。
その頃に住んでいたマンションが面白い立地をしていて、何というかお堀のように周りを
いや、別荘みたいな
別に
運良く内定を貰った大手の会社。望んでいた都内でのオフィスワークに
そんな色々な出来事を言い訳に持ってくるべきじゃないんだけど、日々倉庫に通い続け、合間に不動産会社に連絡を取りつつ引っ越しの段取りをし、漸く荷物も運び終わって落ち着いた、と思った今このタイミングまで、キッチンの東側に小窓があるなんて知りもしなかったんだ。
まぁ、最大の原因は、この大きな
それは都会での20数年間の生活の中で、自然からどれほど解離していたのかを痛感させられただけでなく、純粋な自然から受け取る優しいカロリーに、長く森羅万象へ無頓着だった現実を認めざるを得なかった。モテたい下心をガソリン代わりにし、口先とポーズだけのナチュラリストを気取っては、偉そうに
ただ一つだけ残念なのは、キッチンの小窓は
背景には、あまり知らない土地での孤独と何の楽しみもない寂しい郊外での生活がストレスなのがあったのだが、そういうのを癒やしてくれる、座り心地の良い小さなクッション、と密かに
夏はいよいよ目の前だ。
新社会人の緊張と慣れない田舎での生活で、疲れが薄く
昼間は相変わらず美しい緑を漂わせている小窓だが、陽が沈むと部屋の
日を追うことに蟲共の種類も数も増えていった。しかも不思議なのは風景画の小窓だけにしか蟲は群がらないんだ。ベランダ側のガラスには
それでもいざという時の来客の為に、そこそこ
夏になった。
詳しく語りたくは無いが、社内での人間関係は倉庫作業の暑さとの相乗効果もあってか、ドロドロになっていた。
キッチンの小窓にも変化が現れたのは、仕事の悩みと熱帯夜の所為で寝付けなかった頃だったのを覚えている。いつものように夜の絵画鑑賞でもしようとビール片手に小窓のカーテンを開けると、左の隅に初見の客がへばり付いていた。
勿論、客とは言ったものの、絵画にとっては招かれざる客である。蛙は自分の周りの蟲共から、片っ端に口の中へと放り込んでいた。蛙の舌は思っていたのより小さくて短いのに、特別な配慮も必要ともせず単純に前方に、シュン、伸ばすだけで、蟲共は勝手に
しかも蛙にしてみれば、最高の展望ビュッフェじゃないか。自分の棲んでいる田圃を見下ろしながら、全てがメインディッシュのコース料理を胃へと詰め込んでいる。その姿から人間世界にも似たような行為を鼻に掛ける連中がいるのを思い出してしまい、気分としては面白く無い。
本来なら蛙の方が大した奴なんだよ。眼下の田圃から
しかもこういうのは人間社会でも同じ事で、脇目も振らず努力した者だけが成功し、対価として良い思いをする。システムなんてのは告知されて無いだけで
そんな事を考えている
こちらの気持ちなぞ知る必要の無い蛙は、相変わらずの底無しの食欲で、蟲共は今も次々と奴の栄養源と化している。
不意に『動く風景画』を見ていられなくなった。吐き気を我慢できなくなり、部屋の床へと戻してしまう。突然の体調の激変に恐ろしくなり、カーテンを勢いよく閉めると、フラフラになった身体をどうにかベッドまで辿り着かせた。横になればきっと落ち着く、などと安穏と考えていたのだが、一向に体調が良くなる事は無く、何故か身体全部が押し潰されそうな息苦しい感覚に襲われ続けた。
あぁ、きっと蟲共と同じ、食べられる側なのだろうさ。死刑囚にも似た諦らめの心境に酷く落ち込みながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
夏の真っ最中。
マンションの住民とすれ違う。同じ東の角部屋に住んでる方だと思う。
「······なんで······
横を通る時にボゾボソとそんな感じの事を言われたのだけれど、出勤途中だったし相手もそのままマンションへと消えていったので、それきりになった。
何の意味だがサッパリ判らない。
伝える人間を間違えてやしないか。
妙な後味の悪さが、汗と一緒に流れて終いだった。
夏が折り返して少し経った。
どうやら人生における社内でのポジションが、悪い方向へと中毒化し始めた様子だ。何一つとして解答が立体に見えてこない。独りぼっちを引き摺りながら、ペタリと貼られた二次元で平たくなって狂っていた。あの頃は、精神が
どちらかと言えばインドア派だったのに、あの日曜日にフラッと散歩に出たのは、少しでも体に溜まった毒を外に放出しようと、脳ミソが緊急に提案した選択だったに違いない。生意気を言語化するなら、生きるのは単純では無い、のだ。現実で見る夢を追うのと現実で喰らう苦痛の大きさのギャップが酷く大き過ぎたんだ。
一歩外に出れば、そこには田舎らしい夏の暑さが、終わりに向けて最後に放つ青臭さをツンと尖らせていた。ラードみたいにしつこい太陽光が、Tシャツを無視してハグをしてくるから気が
······ハハハ······独りで笑いたいんだ。
いつの間にか散歩に夢中になっていた。なんか久し振りに色んな事を考えない時間だった気がする。思っていた以上に毒が溜まっていたみたいだ。あちこち長く歩いた所為で疲労は
ふと気付くと辺りは既に暗くなっている。夕方と呼べる時刻は疾っくに過ぎて、月の光で薄っすら影ができていた。ノンビリと夜の涼しさの恩恵を受けながらの帰り道、遠くからマンションを望む。蛙の一件以来、キッチンの小窓のカーテンはずっと閉めたままにしているが、意外にも最上階の角部屋からは部屋の灯りが漏れてしまっている。
実は蛙の事件を境に『動く風景画』の鑑賞会は、やっていなかった。愉しむなんて余裕は蛙をきっかけに喪失してしまい、帰宅したらベッドに直行してそのまま朝までがルーチンワーク化している。
ただ、それだけじゃなかった。
心の底の方であの蛙に会うのを恐怖していたからだ。きっともういない、でもまだいたとしたら。丸々と
部屋の灯りを点けっぱなしで散歩に出たのを遅れて気付き、早足で家路を急ぐ。他の階の小窓からは灯りが漏れていないのに、最上階だけがポツンと黄色に四角い。すっかり夜に溶けたマンションはとても寂しそうに、なのにピエロみたいに滑稽でアンバランスな建造物だった。
もうすぐ夏が終わってしまう。
最近はめっきり残業が増えて、帰宅が夜の9時や10時を回るなんて珍しくない。労働基準法って何だったっけ。有名企業だからと安心していたが、社会はまだ想像よりも優しくはなっていない。過重労働も去る事ながら、最近はマンションが見える所まで来る度、ホッとするよりも、またか、と落胆する事が増えた。今夜もそうだ。
部屋の灯りを消し忘れている。
仕事の忙しさで部屋での日常的なあれこれが
今更急いでも手遅れなので意味は無いのに、どうしてもダッシュでマンションへと走り出してしまうのは、別に今夜が初めてではなかった。
夏が終わった日。
その日もまた、残業で帰りが遅くなっていた。やはり今夜も9時を大きく回ってしまっている。なのにマンションの上を見れば、やっぱりやらかしていた。部屋の小窓は今夜も黄色に光っていた。疲れの分だけ生温くなった二酸化炭素が、肺から口腔を経由して苦い溜め息に化けると、ハァ、と一粒零れる。けれど以前みたいに駆け足になったりはしない。だから本当に疲れてるんだって、ずっと······
月の光で出現した自分の影はとても重たく、足の下で引っ張りながら、でもこの時、漸く気付いた。東側の小窓が明るくなっているのは、最上階の部屋一つだけだった。
いつの間にかマンションの全員が引っ越ししたのか、と思ったがベランダ側からはどの部屋も真っ白な明るい光が確認できたので、誰かしらがそこに住んで生活しているのは間違いなかった。では、どうして東側の灯りは最上階の一つだけなんだ?
鋭い爪を
東通路を使わない理由は、幼子のように頼りなくて細くて暗いからだろう。気味の良い場所ではなかった。硬いコンクリートの通路に立ち、小窓のある辺りから最上階までを見上げてみた。全ての東の角部屋には小窓がある。なのに最上階以外は光が漏れていない。しかも漏れていないというより、
四角い満月は、独りぼっちで9階から見ている。
はたと通路に小さな笑い声が響いた。東の角部屋のどれかなのは間違いない。でも何階なのかまでは判らなかった。幸せそうで耳に心地の
ずっと同じ見上げる姿勢をしていたもんだから、首が疲れてしまい足が
ッタァーンッッッ······
すぐ脇に何かを強く叩きつけたような大きな音がした。思わず驚いて身を起こしてしまう。どうやら何かが上から落ちてきたみたいだ。音はマンションの壁で
蛙だ。蛙が死んでいる。
すぐに事態に気付いた。死んでいる蛙は、9階の小窓から落ちてきたのだ。しかも、その震撼する死に様に思わず息を呑む。蛙は白い腹をピンポン玉のように丸々と膨らませ、腹にある血管を赤黒く浮き上がらせていた。蛙の口からは、蟲共の死骸が溢れ出ている。にも関わらず、一匹も逃すまいと、口でしっかりと
その時、蛙の最期を想像していた。
蛙は、9階の展望ビュッフェにて蟲共を喰らっている。喰って喰って喰いまくって、いずれは動けなくなるとも知らずにそれでも喰い続ける。どれだけ胃に詰め込んでも、小窓から漏れる灯りに目がけて蟲共は次々と集まってくる。やがて、蛙は圧倒的な蟲の大群に自らの居場所を失ってゆく。しかし、蛙は下に降りて田圃へと戻る選択を持たない。満腹で重くなって降りられないのか。本能としての食欲が勝り、危機感を
蛙はそれでも、もっともっと蟲共を
どの道、蛙は助からない。
死んだ蛙が咥えている蟲共は、まだ少し生きているのか微かにモゾモゾと動いている。更に恐ろしいのは、ピンポン玉の腹の中でもまだ蟲は生きているのだろう、時折ビクビクとしていた。未消化の蟲共もまた、助からないというのに懸命にのたくっているのが判る。コンクリートの通路には同じような蛙の死骸が、汚らしくアチコチにあり異臭が漂っている。そんな蛙の死骸を別の蛙たちがワッシワッシと踏み付けて、マンションの壁をそのままゆっくりと登っていた。
あぁ、そうなんだ。蛙は己の末路の上を歩いている事にすら気付けないんだ。
そんな自然のルールに得体の知れない怯えを覚えながら、ふと見上げた最上階の
ッタァーンッッッ······
今度は蛙が、顔に目掛けて
あと少しで秋は終わる。
別のマンションに引っ越しはしたものの、仕事は辞めずに続けている。案外、こうやって社会の中毒にやられている方が、ほんの少しだけ幸せに思い始めたからだ。今は不安も不満も無い訳ではないが、以前ほど感じていない。
あの日以来、灯りの消し忘れだけは気を付けている。
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