R=H【Restricted=Homo sapiens 人間の閲覧禁止】

美人蔵いでる

第1話 憂鬱

 夏に入る前の話になる。

 だから過去の話だ。

 その頃に住んでいたマンションが面白い立地をしていて、何というかお堀のように周りを田圃たんぼが囲んでいた。更に悠々閑々ゆうゆうかんかんな風景に馴染むのをしっかり拒絶していたモダンな造りの9階建てマンションだったので、周囲には中途半端な雰囲気を放ってもいた。空間と建物がこんなにもミスマッチな物件も近年、珍しいと思われる。そんなマンションの最上階の角部屋という好環境で、はかない夏の時間を過ごした。

 いや、別荘みたいな豪奢ごうしゃなもんと誤解しないでくれよ。通勤の為だけに借りた色気のない部屋さ。都心から目一杯に離れている所為せいもあってか、部屋の方は素朴で長閑のどかで家賃が安い。夏でも涼しい風が吹く田舎だから、風の形のまま田圃の稲が端っこから端っこまでまろやかになびく。田舎の田圃はすこぶる広い。

 別にひなびた地方マニアとか、流行だった移住生活にあこがれてとかの大雑把な気持ちで住んだ訳じゃないんだ。

 運良く内定を貰った大手の会社。望んでいた都内でのオフィスワークにけた、と喜んでいたのに、配属されたのは予想だにしなかった郊外の、しかも倉庫での配送管理だなんて正直、残酷な現実に落胆したもんさ。また、遠距離通勤となればセットで付いてくる朝の早起きにも不安があった。昔からどうにも直らない寝坊癖があるので、一時は就職を蹴ってしまおうか悩んだのも本音にあった。しかし、大手バリューという優越感の方が下らなくも勝ってしまい、よも想定外だった僻地へきちでの勤務の為に慌てて引っ越しの準備を進めたんだが、結局は5月の連休までは毎日2時間ちょっとの通勤を余儀なくされた。

 そんな色々な出来事を言い訳に持ってくるべきじゃないんだけど、日々倉庫に通い続け、合間に不動産会社に連絡を取りつつ引っ越しの段取りをし、漸く荷物も運び終わって落ち着いた、と思った今このタイミングまで、キッチンの東側に小窓があるなんて知りもしなかったんだ。

 まぁ、最大の原因は、この大きな洋服箪笥ようふくだんすにある。どうして以前の住民は台所の小窓に合わせて、壁にピタリと箪笥を設置したのだろうか。単純に9階から運び出すのが面倒臭かったのか、それとも収納スペースの乏しい2LDKへの小粋なサービスのつもりか。どちらにしても組み立て式の安上がりな箪笥を使って、折角の採光口を塞いでいる方がどうかしている。勿体無もったいないとはこういう事だ。

 くして、小窓より先程の新緑と柔らかな空気の風景を眺めるに至る。

 それは都会での20数年間の生活の中で、自然からどれほど解離していたのかを痛感させられただけでなく、純粋な自然から受け取る優しいカロリーに、長く森羅万象へ無頓着だった現実を認めざるを得なかった。モテたい下心をガソリン代わりにし、口先とポーズだけのナチュラリストを気取っては、偉そうに蘊蓄うんちくを垂れ流していた過去を恥じつつ、5月の終わりに吹く季節の定まらない風が、溌溂はつらつと生い茂った翠色みどりいろのカーペットをゆっくり撫でていく様に、暫く時を奪われたもんだ。

 ただ一つだけ残念なのは、キッチンの小窓はごろしになっていて、黙って外を鳥瞰ちょうかんするしかない事だった。手を出して暖かな空気に触れたり、田圃から蒸し上がってくる稲が量産した酸素を室内に招き入れたり、風が奏でるサワサワと耳をくすぐるBGMに心を和ませる、なんてのはどれも無理な話で、それを望むのなら南側のベランダへと赴くか、反対の玄関までどうぞといった寸法になる。しかし、その程度でガラス越しに望む静かな緑が簡単にしらける筈はなく、この所謂いわゆる『動く風景画』というのをいたく気に入ってしまったのだった。

 背景には、あまり知らない土地での孤独と何の楽しみもない寂しい郊外での生活がストレスなのがあったのだが、そういうのを癒やしてくれる、座り心地の良い小さなクッション、と密かにたとえたりもしていた。



 夏はいよいよ目の前だ。

 新社会人の緊張と慣れない田舎での生活で、疲れが薄くほこりのように重なり始めた頃、あの『動く風景画』に新しい動きが加わった。

 むしだ。

 昼間は相変わらず美しい緑を漂わせている小窓だが、陽が沈むと部屋のあかりに魅せられるのか、ガラス一面に群がるようになった。本物の自然主義者でも、種々様々な蟲共が小窓のちっぽけなスペースヘ集合してくれば、気味が良いなんて思えないだろう。ガラスをコツコツと叩いて追い払うも、威嚇の程度が低いのだろうか、蟲共は直ぐに戻ってきてしまう。元の木阿彌もくあみではないが、ガラスを叩く前からこうなるのを、何となく勘付いていたような気もする。

 日を追うことに蟲共の種類も数も増えていった。しかも不思議なのは風景画の小窓だけにしか蟲は群がらないんだ。ベランダ側のガラスにはしたる数しか集まらないのを、果たして位置的な問題だけで片付けてよいものなのか。気になって仕方無かったが、まぁ恐らく解答みたいなのは簡単なものなのさ。蟲なんてのはかれる光源があれば自動で集まってしまうのが習性。偶々たまたま小窓からこぼれてくる光が、彼らにとっては堪らないだけの話なんだよ。たかが蟲の本能程度に何かしらの理由を求めてしまう人間サイドのナンセンスに、相変わらず自分基本の考え方しかしないな、と呆れもしていた。とは言っても、一般的な感覚なら無数の蟲共が折り重なる様子は、充分に気分を害するもんだと思い込んでいた。このまま放っておくのはどうかとも考えながら、実は昼の緑の風景画と同じくらい夜のうごめきがあやなす抽象絵画アブストラクトも、あの頃はどちらも気に入ってしまったんだ。それは昼夜の対象とも感じられる奇妙で、なのに鮮烈な陰陽の簡易体験を常に与えてくれて、どちらも当時の疲弊した生活におけるイコン的存在、心のり所だった。

 それでもいざという時の来客の為に、そこそこ小洒落こじゃれたカーテンを買ってきたんだけど、隠匿いんとくが目的だったのに、かえって描いた絵に額縁をあしらった感じになってしまった。あの頃は有象無象の蟲共をビール片手にたのしむ夜が一番待ち遠しいかった。



 夏になった。

 詳しく語りたくは無いが、社内での人間関係は倉庫作業の暑さとの相乗効果もあってか、ドロドロになっていた。

 キッチンの小窓にも変化が現れたのは、仕事の悩みと熱帯夜の所為で寝付けなかった頃だったのを覚えている。いつものように夜の絵画鑑賞でもしようとビール片手に小窓のカーテンを開けると、左の隅に初見の客がへばり付いていた。

 かえるだ。

 勿論、客とは言ったものの、絵画にとっては招かれざる客である。蛙は自分の周りの蟲共から、片っ端に口の中へと放り込んでいた。蛙の舌は思っていたのより小さくて短いのに、特別な配慮も必要ともせず単純に前方に、シュン、伸ばすだけで、蟲共は勝手にからられてしまう。致し方無いのは当然だ。ガラスには、これでもかと隙間なく蟲共で溢れ返っているのだから、不思議でも何でもない。

 しかも蛙にしてみれば、最高の展望ビュッフェじゃないか。自分の棲んでいる田圃を見下ろしながら、全てがメインディッシュのコース料理を胃へと詰め込んでいる。その姿から人間世界にも似たような行為を鼻に掛ける連中がいるのを思い出してしまい、気分としては面白く無い。

 本来なら蛙の方が大した奴なんだよ。眼下の田圃から遠路遥々えんろはるばる、マンションの9階まで這い上がってきているんだよ。自然の中じゃ餌を探すのだって楽では無い。自らが餌になる可能性もある。ガラスの向こうの蛙はここまでの苦労が報われているだけだ。

 しかもこういうのは人間社会でも同じ事で、脇目も振らず努力した者だけが成功し、対価として良い思いをする。システムなんてのは告知されて無いだけでっくに完成してるのだよ。それに同じ道なら、二番手以降は願ったように報われない場合だってあるし、道が険しかったりしたら挑む者なんて尚更いない。この蛙みたいに田圃からマンション東側の通路を横切り、壁をよじ登って9階まで餌を求めてやって来るくらいのガッツがなけりゃ、人間だって動物だって虫けらだって生き残れやしないんだ。

 そんな事を考えているうちにガラスの外の蛙が偉そうに莫迦ばかにしてきた錯覚に駆られてしまい、どうにも忌々しい思いが膨らみ始めると、合わせて無性に悔しさまで増してきた。ちっとも慣やしない仕事と田舎暮らしに行き詰まっていたのもあったからだろう。つい、割れない程度にガラスを強く叩いてやったが蛙は、何かあったのかい?、みたいな顔をしてピクリともしない。その太々しい態度ときたら、まるで小窓が嵌め殺しになっているのを理解していて、直接手が出せないのを判って居るみたいだった。寧ろ、小窓への攻撃は守るべき蟲共の方を驚かせてしまい、逃げた蟲が戻ってきた所を、パクリ、という結末まで招いてしまう。只々申し訳無い気分になるだけだった。

 こちらの気持ちなぞ知る必要の無い蛙は、相変わらずの底無しの食欲で、蟲共は今も次々と奴の栄養源と化している。

 不意に『動く風景画』を見ていられなくなった。吐き気を我慢できなくなり、部屋の床へと戻してしまう。突然の体調の激変に恐ろしくなり、カーテンを勢いよく閉めると、フラフラになった身体をどうにかベッドまで辿り着かせた。横になればきっと落ち着く、などと安穏と考えていたのだが、一向に体調が良くなる事は無く、何故か身体全部が押し潰されそうな息苦しい感覚に襲われ続けた。

 あぁ、きっと蟲共と同じ、食べられる側なのだろうさ。死刑囚にも似た諦らめの心境に酷く落ち込みながら、いつの間にか眠ってしまっていた。



 夏の真っ最中。

 マンションの住民とすれ違う。同じ東の角部屋に住んでる方だと思う。

「······なんで······ふさがないんだ······」

 横を通る時にボゾボソとそんな感じの事を言われたのだけれど、出勤途中だったし相手もそのままマンションへと消えていったので、それきりになった。

 何の意味だがサッパリ判らない。

 伝える人間を間違えてやしないか。

 妙な後味の悪さが、汗と一緒に流れて終いだった。



 夏が折り返して少し経った。

 どうやら人生における社内でのポジションが、悪い方向へと中毒化し始めた様子だ。何一つとして解答が立体に見えてこない。独りぼっちを引き摺りながら、ペタリと貼られた二次元で平たくなって狂っていた。あの頃は、精神が一つ目巨人サイクロプスになっていたんだと思っている。何一つとして多角的に視えていなかった。それ程に毎日が苦痛だったというのに、朝目覚めるとまるで脱皮して別の生き物に生まれ変わったように、ケロリと会社へ向かってしまう。

 どちらかと言えばインドア派だったのに、あの日曜日にフラッと散歩に出たのは、少しでも体に溜まった毒を外に放出しようと、脳ミソが緊急に提案した選択だったに違いない。生意気を言語化するなら、生きるのは単純では無い、のだ。現実で見る夢を追うのと現実で喰らう苦痛の大きさのギャップが酷く大き過ぎたんだ。

 一歩外に出れば、そこには田舎らしい夏の暑さが、終わりに向けて最後に放つ青臭さをツンと尖らせていた。ラードみたいにしつこい太陽光が、Tシャツを無視してハグをしてくるから気が滅入めいってしまう。汗が、うわっ、とアスファルトヘ墜落しても、しゅん、と消えて知らんぷりだ。せみだ、蝉が今年も夏を儚んで泣いている。大きな雲が天辺に座っている。よく見たら逆立ちした入道雲だった。風が吹く。アッチの方へ吹いてゆけば、ココの湿気った色々を洗いざらい持ってっちゃった。

 ······ハハハ······独りで笑いたいんだ。

 いつの間にか散歩に夢中になっていた。なんか久し振りに色んな事を考えない時間だった気がする。思っていた以上に毒が溜まっていたみたいだ。あちこち長く歩いた所為で疲労は困憊気味こんぱいぎみだが、毒抜きなんだから、これくらいヘトヘトに歩いて丁度なのかもしれない。初めて田舎に感謝ができた。

 ふと気付くと辺りは既に暗くなっている。夕方と呼べる時刻は疾っくに過ぎて、月の光で薄っすら影ができていた。ノンビリと夜の涼しさの恩恵を受けながらの帰り道、遠くからマンションを望む。蛙の一件以来、キッチンの小窓のカーテンはずっと閉めたままにしているが、意外にも最上階の角部屋からは部屋の灯りが漏れてしまっている。

 実は蛙の事件を境に『動く風景画』の鑑賞会は、やっていなかった。愉しむなんて余裕は蛙をきっかけに喪失してしまい、帰宅したらベッドに直行してそのまま朝までがルーチンワーク化している。

 ただ、それだけじゃなかった。

 心の底の方であの蛙に会うのを恐怖していたからだ。きっともういない、でもまだいたとしたら。丸々とふとった蛙が、今この時も口の中に蟲共を詰め込んでいるとしたら······理由にパンチが無いのは理解している。とても下らない事だし、口実にすらしたくない意地もあった。頑なでややこしい性格が災いして、昔から損ばかりをしていた。だから、どこか社会と上手に馴染めないのかもしれない。

 部屋の灯りを点けっぱなしで散歩に出たのを遅れて気付き、早足で家路を急ぐ。他の階の小窓からは灯りが漏れていないのに、最上階だけがポツンと黄色に四角い。すっかり夜に溶けたマンションはとても寂しそうに、なのにピエロみたいに滑稽でアンバランスな建造物だった。



 もうすぐ夏が終わってしまう。

 最近はめっきり残業が増えて、帰宅が夜の9時や10時を回るなんて珍しくない。労働基準法って何だったっけ。有名企業だからと安心していたが、社会はまだ想像よりも優しくはなっていない。過重労働も去る事ながら、最近はマンションが見える所まで来る度、ホッとするよりも、またか、と落胆する事が増えた。今夜もそうだ。

 部屋の灯りを消し忘れている。

仕事の忙しさで部屋での日常的なあれこれがおろそかになっているのを差し置いても、こういう自堕落が癖になるのだけは避けなくてはいけない。しかし、今週はこれで3度目になる。安いサラリーから出す電気代だって馬鹿にならないのは判っちゃいるんだが······

 今更急いでも手遅れなので意味は無いのに、どうしてもダッシュでマンションへと走り出してしまうのは、別に今夜が初めてではなかった。



 夏が終わった日。

 その日もまた、残業で帰りが遅くなっていた。やはり今夜も9時を大きく回ってしまっている。なのにマンションの上を見れば、やっぱりやらかしていた。部屋の小窓は今夜も黄色に光っていた。疲れの分だけ生温くなった二酸化炭素が、肺から口腔を経由して苦い溜め息に化けると、ハァ、と一粒零れる。けれど以前みたいに駆け足になったりはしない。だから本当に疲れてるんだって、ずっと······

 月の光で出現した自分の影はとても重たく、足の下で引っ張りながら、でもこの時、漸く気付いた。東側の小窓が明るくなっているのは、最上階の部屋一つだけだった。

 いつの間にかマンションの全員が引っ越ししたのか、と思ったがベランダ側からはどの部屋も真っ白な明るい光が確認できたので、誰かしらがそこに住んで生活しているのは間違いなかった。では、どうして東側の灯りは最上階の一つだけなんだ?

 鋭い爪を穿ほじくり回して広げたようないびつな心の間隙から、見た事ない奇妙な色の不安がジワリとにじみ出てきて、そのまま滅多に通る事の無いマンションの東通路へと足を向けた。この時の胸騒ぎを今でも上手に説明出来ない。小さな疑問を無視できないクセに、何かしらのフラグが立たないと行動出来ないという、好奇心と消極的な性格が同居している所為かもしれない。

 東通路を使わない理由は、幼子のように頼りなくて細くて暗いからだろう。気味の良い場所ではなかった。硬いコンクリートの通路に立ち、小窓のある辺りから最上階までを見上げてみた。全ての東の角部屋には小窓がある。なのに最上階以外は光が漏れていない。しかも漏れていないというより、寸毫すんごうたりともこぼれていなかった。カーテンでもしているのだろうか、と単純に考えていたが、その程度の布切れじゃ灯りは漏れてしまう。最上階のカーテンが進行形で証明している。あるいは大きな箪笥とかを窓までピタリと寄せてしまえば可能かもしれないが。住人によるかたくなな遮光によって暗闇にちた東通路で、そんな物理的な方法ばかり考えていた。

 四角い満月は、独りぼっちで9階から見ている。

 はたと通路に小さな笑い声が響いた。東の角部屋のどれかなのは間違いない。でも何階なのかまでは判らなかった。幸せそうで耳に心地のい笑い声、ふと夏に擦れ違った住人を思い出した。ぶっきらぼうに感じたあの住人も、こんな風に笑ったりするのだろうか。けれど、ヒステリックなまでに小窓を塞いで、それなのに幸福に笑えるってどんな生活をしているんだろう、などと考えてもいた。この夏の些細な出来事が頭の中でまとまりなく渦巻き、なのに9階からの月光を眺めていた。

 ずっと同じ見上げる姿勢をしていたもんだから、首が疲れてしまい足がもつれてしまったんだが、フラフラと後退あとずさりした拍子に右のかかとで何かを踏んでしまった。小さくて柔らかいゴムの塊みたいな感触だったと思う。もしくは噛み捨てたガムにも。似ていたというのは今になって思っている後付けで、あの時はそこまで深くは考えもしてなかった。だけど何かを踏んだのだけは確かな事だった。辺りは9階から漏れる灯り以外は光源はないので、足元なんてハッキリ見えやしない。仕方無しに目を凝らしながら、地面へと顔を近付けようとした。

 ッタァーンッッッ······

 すぐ脇に何かを強く叩きつけたような大きな音がした。思わず驚いて身を起こしてしまう。どうやら何かが上から落ちてきたみたいだ。音はマンションの壁でこだまして意外なくらいに嫋々じょうじょうと響いていた。あの幸せそうな笑い声はもう聞こえない。風の無い熱帯夜のコールタールみたいな空気が、肺の中へドロドロと侵入してくる。不気味な気配が、足元にあった。その正体が気になってしまい、暗くよく見えない地面を確認する為、ストンとしゃがんだ。暗さに目が慣れるまでジッとしていたが、この何でもない積極性が直後に後悔へと変化する。

 蛙だ。蛙が死んでいる。

 すぐに事態に気付いた。死んでいる蛙は、9階の小窓から落ちてきたのだ。しかも、その震撼する死に様に思わず息を呑む。蛙は白い腹をピンポン玉のように丸々と膨らませ、腹にある血管を赤黒く浮き上がらせていた。蛙の口からは、蟲共の死骸が溢れ出ている。にも関わらず、一匹も逃すまいと、口でしっかりとくわえ込んでいる。

 その時、蛙の最期を想像していた。

 蛙は、9階の展望ビュッフェにて蟲共を喰らっている。喰って喰って喰いまくって、いずれは動けなくなるとも知らずにそれでも喰い続ける。どれだけ胃に詰め込んでも、小窓から漏れる灯りに目がけて蟲共は次々と集まってくる。やがて、蛙は圧倒的な蟲の大群に自らの居場所を失ってゆく。しかし、蛙は下に降りて田圃へと戻る選択を持たない。満腹で重くなって降りられないのか。本能としての食欲が勝り、危機感をけさしているのか。けどおそらく、蛙は最初から何も考えてなんかいない。これこそ、人間の押し付けがましい想像力、蛙の本能レベルにどうしても理由を付けずにはいられないんだ。前も言ったようにナンセンス、神様気分の上から目線でしかないんだよ。

 蛙はそれでも、もっともっと蟲共を頬張ほおばり続ける。当初の目的だった食欲を満たすだけの行為が、いつの間にか生き残る場所の確保だけの行為にすげ替わる。そして遂には、食い過ぎでそのまま絶命して落ちてきたか、苦しくて失神し墜死したか、若しくは蟲共の圧倒的多数に押されて投身したか······

 どの道、蛙は助からない。

 死んだ蛙が咥えている蟲共は、まだ少し生きているのか微かにモゾモゾと動いている。更に恐ろしいのは、ピンポン玉の腹の中でもまだ蟲は生きているのだろう、時折ビクビクとしていた。未消化の蟲共もまた、助からないというのに懸命にのたくっているのが判る。コンクリートの通路には同じような蛙の死骸が、汚らしくアチコチにあり異臭が漂っている。そんな蛙の死骸を別の蛙たちがワッシワッシと踏み付けて、マンションの壁をそのままゆっくりと登っていた。

 あぁ、そうなんだ。蛙は己の末路の上を歩いている事にすら気付けないんだ。

 そんな自然のルールに得体の知れない怯えを覚えながら、ふと見上げた最上階の四角い満月スクエアムーンは、こうしている今も生命を誘い込みもてあそぶだけの、単純で簡単な黄金にきらめく装置として以外、何一つとして主張はしていない。

 ッタァーンッッッ······

 今度は蛙が、顔に目掛けてちてきた。



 あと少しで秋は終わる。

 別のマンションに引っ越しはしたものの、仕事は辞めずに続けている。案外、こうやって社会の中毒にやられている方が、ほんの少しだけ幸せに思い始めたからだ。今は不安も不満も無い訳ではないが、以前ほど感じていない。



 あの日以来、灯りの消し忘れだけは気を付けている。




【TITLE】『偽月光にせげっこう

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