『土曜日〈2〉』



 昼をだいぶ回ってしまい思った以上に時間を掛けてしまった事に反省しつつ、それでもまだメイは助手席で眠り姫を続けている。ジュンは車が停まる直前まで外の景色を見ていた。本当に今更なのかもしれない。僕ら家族3人を乗せたSUVが別荘に着いた時、昔のような心をはしっこからくすぐられるような気持ちはもう存在しなかった。雨脚あまあしは少しだけおさまってはいたものの、空の灰色は相変わらず重苦しい。

 車を駐車場に停めるとジュンはすぐに車を降り、僕がそのまま鍵を渡すと勢い変わらず驀地まっしぐらに別荘へと向かった。ジュンが一番に別荘には入る。王様がワガママを言って最初に決まったルールだった。あの様子だとチョコの一件はもう気にしていないみたいだ、と僕は安心した。

「······ん、着いた?」

 ちょっと遅れてメイが目覚めた。でも一歩だけ間に合わなかったようだ。

「あぁ、けどもうお昼を回ってしまったよ」

 僕もなるべくさとられないようにしゃべったつもりだったが、

「あれ?ジュンは?」

 さっさと気付いて辺りを見ている。それでもまだ寝惚ねぼけているみたいだったので、

「忘れたのか、王様ルールその1だ」

 と家族の中ではヒントにならないヒントを出した。

「だったらこの後は恒例こうれいの······」

「そ、王様ルールその2だな」

 ジュンが別荘から飛び出してきたのは直後であった。雨降りのましてやまだ肌寒はだざむく感じる気温だというのに、ジュンは別荘のすぐそばにある湖で泳ぐ気満々の格好をしていた。別荘には『ジュンの水泳セット』と称した水着と浮き輪が玄関に常備してある。メイの絶叫が辺りに響いた。

「ジュンっ、寒いから今日は泳いじゃだめぇっ」

 慌てて車から飛び降りて追い駆けるメイと、姉の猛追もうついかわしながら湖へと逃げるように走っていくジュン。すんでの所で捕まり水泳大会は中止になったけど、拍子に自分の脚を濡らしてしまい御立腹ごりっぷくのメイ。その横でジュンがちょっとだけ口元をへの字にして笑っていたように見えた気がした。

 やっぱり別荘に来て正解だった。僕は二人の姿を柔らかく見つめながら、さてと、と車から荷物を降ろし始める。


 僕らの別荘は2階建て、地下室まであるログハウスだ。さわやかな木材の香りが今も強く残っている。僕は別荘を訪れる度にこのかんばしさに包まれるのが嬉しかった。1階には玄関と白のタイルが明るくて清潔なダイニングキッチン。30畳のリビングはそれだけで家族と過ごす時間を幸福にしてくれた。後はトイレと近隣きんりんの温泉地からわざわざ源泉を引いてきた風呂。ミキがよく長風呂をして逆上のぼせていたのが懐かしい。地下室は小さいながらもまるっとシアタールームにした。音響機器にまでこだわって作ったのに、専ら子供向けアニメしか上映されなかった。でも王様がとても喜んでいたので問題はない。2階には子供達それぞれの寝室とミキと僕の寝室。そして南側に大きく突き出た木製のバルコニー。目の前の湖を一望しながらバーベキューまでできる。2階にはもう1部屋、僕のアトリエがあるが察しの通りバルコニーとアトリエは繋がっている。

 確かにミキの言葉は間違っておらず、僕は子供と一緒だった。ログハウスは当時の僕の理想を全て顕現けんげんさせたような形になった。僕の絵画製作に最適な環境に家族の幸せを同居させた奇跡の別荘だ、とあの頃はひそかに心で絶賛していた。特にアトリエからの景観に僕は強くこだわった。マンションの最上階から望む色が欠落した街に比べて、逆にバルコニーから見る世界は色彩が洪水のようにあふれ返っていた。太陽の赤も、湖の青も、森の緑も、一日の中や四季の中で僕に見せてくれるグラデーションから与えられる、時には寂しげなジャン=フランソワ・ミレーの『落穂拾おちぼひろい』みたいに、時には悲しげなジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』みたいに、時にははかなげなヨハネス・フェルメールの『水差しを持つ女』みたいに。まるで僕個人的に喜ばせてくれてるみたいに、景色を次々と変えてくれる。別荘に来る度に、同じ場所なのか、と疑問に思う事すらあった。気分としては素敵な女性を渡り歩くドンファンだ。自然は常に高級な接待をほどこしてくれる宿屋のように、僕の事を両手を広げて歓迎してくれた。また、目の前の湖も別荘に程よいアクセントを与えていた。存在感はあるのだけど思うほどの大きさではない湖で、周りをグルッと歩いても30分くらいしか掛からない。水も透明で綺麗なので冬でもジュンが、泳ぎたい、と駄々だだねるのが別荘でのレギュラーパターンとなっていて、それをメイがなだすかすのも定番のコントのようになっていた。

 別荘が完成した頃、ミキは別荘全体を眺めながら、

「ま、安い買い物じゃなかったんだから、それなりのワガママは詰め込んだんでしょうけど······」

 あきれ果てながら僕につぶやいたあと、

「だからシッカリと元は取ってよね、パパ」

 と満面の笑みをたたえて僕の背中を叩いた。そんなに強くはなかったはずなのに確かな痛みがあったのを僕はまだ覚えている。あれは責任という痛みだったに違いない。ただ、当時から別荘の存在をめて持ち上げはしてきたが、この別荘が僕のスランプに何らかの影響を与えてくれたのか、と問われれば、答えは無かったになる。週末に遊びに来る程度で平日はマンション暮らしなんて、馬鹿丸出しの大臣生活に活用するぐらいしかなかった。たけに合わないおごりしかなかったな、と今はっくに気付いて猛省もうせいしている。


 僕は別荘の中に荷物を運んでいた。外では雨が降っているというのに、メイのはしゃいでいる声が響いていた。久し振りの別荘だし、まぁ仕方ないな。でも別荘の方は仕方なくはなかった。長く来なかっただけで驚くくらい他人の住処すみかの空気になるみたいだ。ひどい湿気の所為せいもあるからだろうか、びた臭いも漂っている。手早く荷物を入れるとすぐ、取り敢えずの応急処置としてアチコチの窓を開けに回った。ついでに何か異常がないか調べておきたかったのもあるが。

 半年も放置していればそれなりに汚れはする。これは掃除もしなくちゃいけないかもだな、と別荘に着くなりげんなりしてしまう僕。1階のリビングの窓を雨の様子を見ながら開けると小走りで2階へと上がる。寝室やらバルコニーのガラス戸も開けてどうにか落ち着き、やっとアトリエへと気持ちが向き合えた。

 バルコニーのガラス戸を開けたのでアトリエに空気が流れ込み、油絵の具独特の芥子油けしゆの匂いが撹拌かくはんされた。絵を描きに戻ってきんだ、そう感じさせてくれる匂いだった。ドアから入って右手にあるバルコニーは、天気の所為でいつものような元気は感じない。南側を向いているバルコニーはこの時間帯なら晴れていればもっと明るくなる筈なのに。久し振りにバルコニーでも歩こうか、と思ったがノンビリなんてしてられない現実にあきらめた。子供達へ遅くなった昼食の準備だけでなく、黴臭かびくさい原因を究明する為にも掃除をしなければならない。まずは食事の準備からだとアトリエから出ようとした時、イーゼルに掛けられたキャンバスに目が釘付けになった。

 名前はさだかではないどこか異国の地、そのひなびた場所にはちきった教会が。割れたステンドグラスから針のごとく真っ直ぐにし込む太陽の光。そのするどい光をころものように、けれど痛々いたいたしげにまとっている裸身らしんの天使。巨大な、しかし青く錆《さ

》びてしまった十字架じゅうじかへ懸命に祈りをささげている。

 絵全体はそんなに暗い構成ではないが、雰囲気としては静物画然せいぶつがぜんとした硬い感じの絵なのに、直向ひたむきに祈る天使の部分だけからは焼けんばかりの激しいカロリーがはなたれてならない。天使は何に祈っているのか。神か、それとも人間にか。キャンバスからは明確なまでのパワーを感じる。だがパワーの種類は厳粛げんしゅくさや優雅ゆうがさみたいな神々こうごうしいモノではなく、凄艶せいえんというか扇情的せんじょうてきというか。天使の裸身がリアルになまめかし過ぎて、エロスの香りがあふれている所為が勝っているからだった。そもそも、作者は天使を明らかに冒瀆ぼうとくしている。天使を天使として見ようとしていない。性的な対象として描写していた。

 いや、そうじゃないだろ。この絵の感想なんてどうだっていい。

 イーゼルに掛けられた絵は、僕が今日まで構想をっていた、まさにそのまんまの内容だった。しかもこれだけのエネルギーを内包ないほうしているにもかかわらず、絵はまだ未完成だ。まだ手を加える部分が残っている。

 僕が密かに別荘にやって来て内緒で描いていたとでもいうのか。まるで盗作された気分でしかない。でも僕の頭の中にしかない構想段階の絵をどうやって盗む事ができるというのか。

 しかも絵の天使だが、髪の色を金色に変えてはいるが明らかにメイだ。娘をモデルにして描いた天使だ。もし僕がこの絵を描いたとするならば······一瞬だったが下劣な妄想が頭をよぎった。

 この自分だけが知らされてないような不気味さは何だ。

「パパ、もう絵を描いてるの?」

 メイがアトリエに入ってきた。雨なのか湖での所為なのか髪も服も濡れており、タオルで拭きながらだったかポタポタと床にしずくが落ちている。

「メイっ、丁度よかった。この絵を見てくれっ」

 僕は取り乱しながらメイの方にイーゼルを動かした。メイはキャンバスを一目見ただけで直ぐに恥ずかしそうな表情に変わり、耳まで真っ赤にしながら、

「見てくれってパパ、これパパの描きかけの絵じゃん······しかも私の」

 メイは何を言っているんだ。僕の絵だって?僕が描いたというのか。更にメイは言いにくそうに口を重くしながら、

「メイがモデルになった······」

 恥じらいながらの小さな声は確かにそう聞こえた。娘の雰囲気からは単純なモデルではないのはさっしがつく。いや、そんな事よりもメイをモデルにしたのか。そんな事までして描いているというのにいまだに思い出せない。

「僕がメイをモデルに頼んだのか?僕が?この絵で?」

「何言ってんのパパっ、あんな恥ずかしい思いまでしてモデルやったんだから、ちゃんと完成させなきゃメイも流石さすがに怒るよっ」

 本気で怒鳴っているメイの声が遠い。僕の状態は混乱なんてもんじゃなかった。本当に僕がこの絵を描いたのか。一体どうやって描いたのかも覚えていない。メイをモデルに使ったのもそうだ。しかもこんなにも淫猥いんわいな絵のモデルになんて。

 ただただ気色が悪い。別荘に来る前に思い描いていた絵なのに大半が完成している。こんなにも描き込んでいるにもかかわらず、今以いまもって目の前の絵に何の実感もかない。なのにだ、この絵のタッチは僕の癖を真似て描いている。いや、真似たのではなく僕が描いたに違いないみたいな確信すらあった。描いた記憶もないのにだ。

 そうだ、こういう時はクスリ、クスリだよ。確か記憶を整理しやすくなる効果のあるクスリがあった。コーヒーブラウンのカプセルだ。

「パパっ、クスリに頼る前に自力で思い出してっ」

 メイの声が切実さと悲痛さがぜになった叫びに聞こえる。

「だけどメイ······やっぱりダメだ、思い出せない」

「すぐにクスリに逃げちゃ意味ないよ。しっかり現実で思い出さないと。メイは一日でも早く元気なパパに戻ってほしいの。早く元気になってまた······」

 そう一息で言うと僕の目を見ながら、

「また激しくメイを抱いて欲しいのっ」

 え、今なんて言ったんだ?

「だから早く元気にならなきゃ家族3人で再出発なんて無理でしょ」

 僕は一体何と聞き間違えたんだ。まるで幻聴げんちょうのような、いや、本当に今のは幻聴なのか。何故なら目の前のメイは、大人びて見えたり子供に戻ったりを繰り返している。たまにメイ自身も消えたりして、僕は自分の見ている光景を疑い始めた。眼球を強くこする。痛い、なのにかゆい。痒くて痒くて痛くて痛くてゴシゴシと眼球を指の腹で擦った。

「もう、仕方ないなぁ」

 メイの声には、諦めしか含まれていない。

「はい、クスリ」

 そんな声と共に出されたコーヒーブラウンのクスリがメイのてのひらに乗っている。いや待て、違う。コーヒーブラウンじゃない、ミルキーピンクだ。いやそれも違う、ワインレッドだった。え、インディゴブルーか、モスグリーンか。そのどれでもない、白色のカプセルだ。ほんのり乳白色の入ったカプセルはモゾモゾとメイの掌の上をっていた。こいつは確かさっき店で見たうじじゃないのか。僕は自分自身の錯覚だと言い聞かせてしまう。だけど本当にクスリが動いているように見えるんだ。

「······メイ、それはクスリなのか」

 ありえるはずのない疑心暗鬼にられて僕はメイに問いかけた。するとメイはゲラゲラと下卑げひた笑い声で、

「これはぁ、これはぁ、スタミナがぁ、バツグンにぃぃぃつくぅぅぅクスリじゃないぃぃぃ」

 何を言い出すんだメイは?

「パパとぉメイはぁ、セックスぅぅぅするんんんだからぁぁぁううぁぁぁ」

 僕はメイを凝視した。

「何を言い出すんだっ、メイっ」

 思わず大声で怒鳴りつけると、メイはキョトンとした表情で、

「だからコーヒーブラウンでしょ」

 はいこれ、とまるで素知らぬ顔のメイは、確かにコーヒーブラウンのクスリを差し出している。

「思い出すとかどうとかは別にして、別荘にいるうちはなるべくクスリは飲まないようにして」

 今し方、僕の目の前で起こった事が、クスリの効果が切れたのが原因だとすれば、僕は相当な薬物中毒におちいっているとしか考えられない。過去に経験のない猛烈な胸騒ぎが僕の心を襲う。だからコーヒーブラウンが先ではない。今は不安を消す為のスカイブルーの錠剤を飲まなきゃだ。

「メイ、すまない。スカイブルーの、クスリに、してくれないか」

 メイは呆れたかのように淡々とした顔で、

「これ」

 けんもほろろにクスリを渡してきた。僕はメイの掌から奪い取るようにクスリを貰うと、水も使わず慌てて飲み込む。早く効いてほしい、1秒でも早く。

「クスリが効いてからでいいからジュンの服を出してあげて。雨でビショビショだから風邪ひいちゃう」

 メイの声をどうにか聞きながら僕は大きく息を吐き、アトリエに置いてあるソファーへバッサリと腰を落とした。お気に入りだったソファーも何となく湿しめっていて、折角の柔らかいクッションも随分と硬く重く感じる。穏やかにクスリは効き始め、僕は漸く安心の奥底へとちてゆくのが判った。

「じゃ、1階にいるよ」

 メイはそのままアトリエを出ていった。僕は独りぼっちでクスリの効果に溺れながらキャンバスに描かれた絵をボンヤリと見ていた。どれだけクスリが効いてこようとも、やはりこの絵の不思議だけはどうしても払拭ふっしょくできなかった。

 所でメイは、コーヒーブラウンのクスリからスカイブルーのクスリへ、どのタイミングで変えてくれたのだろうか。


 夜になって雨足は弱まりはしたものの、依然としてしょぼついている。遅くなった昼食の所為だろうか、子供達はこんな時間になっても夕食を催促さいそくしてこない。夕食と言ってもレトルトのカレーか同じく牛丼か中華丼か。昼に食べたカップめんはやめておこう。本当だったら亡き妻に唯一教わった餃子ギョーザでも作ろうかと考えていたのに。再びスーパーの蛆虫事件への怒りがいてきたが、疲れいるのでそれどころではなかった。結局、昼からは各部屋の掃除に追われてしまったからだ。雑巾がけやら掃除機やらと色々使って頑張ってはみたが、どうしても黴臭かびくささだけが消えてくれない。しかも時間が経過するにつれ、かびにおいは強くなっている気もする。ま、子供らは気にはしていない様子だし、僕が我慢すればいいだけの話なんだが。でも一度、専門の業者に頼むかしなければならないだろう。素人の掃除方法には限界がある。

 その点、ミキは掃除が上手だったし好きだった。

「なんか別荘のお陰で私の仕事は倍になったのよ」

 というような嫌味を、僕に聞こえるポジションからわざとらしくのたまっていたが、本人は言うほど困った様子ではなく、どちらかと言えば鼻唄はなうた混じりに楽しんでいる姿をてらっていたようにもうかがえた。

 ミキという女性は昔から素材に込められている情みたいなのを大切にする人間だった。だから高価なバックや宝石を取り立てて欲しがる事はなく、身の回りにある品物を丁寧に長くあつっていた。当人はノホホンとしながらも『天下一の世話女房』を公言しながら、テキパキと家事をこなしてくれていた。何よりミキは、物質的なモノをちゃんと大事にすれば幸福はおのずと近付いてくる、と信じていた。だからミキは、妻は、一番に家族の幸せを考える良き妻で良き母でいれる事ができたのかもしれない。ミキよりすぐれた女性になんて、もうめぐり合わないだろうと思っている。

 ミキはきっと無理がたたったんだ。

 しかし子供達はやけに大人しくしているな、と様子を見に行ったら地下のシアタールームでアニメを観ていた。ぼう週刊マンガ雑誌で有名な冒険物語の劇場版をあらかじめレンタルしていた。僕にはっくに何が興味を引く内容なのか理解できないが、ジュンはこのマンガがお気に入りだった。僕はシアタールームに静かに入り、黙ってメイの横に座る。ジュンはいつもと変わらない無表情だけど、どことなく真剣に見入っていた。対してメイの方は随分と退屈そうな表情を隠していない。小さな声で、

「やっぱ男の子向けのマンガは、メイはもう卒業みたい」

 それでもホットコーヒーをブラックで飲みながらスナック菓子を袋から一つつまむと、ジュンの方をまじまじと眺めて幸せそうに音を立てずに食べるメイ。

 あれ?僕はこれと同じ光景を過去に何度も見た事があったぞ。

 週末の別荘で雨が降ると、決まって地下のシアタールームではアニメの上映会が行われた。プロジェクターから映し出される200インチの大画面と結構な金額を費やした音響設備は、何も最初からアニメ上映用にあつらえた物ではなく、僕とミキの唯一の共通の趣味だった洋画鑑賞をシアタールームでゆったり観る贅沢ぜいたくそろえた筈だったんだが、ジュンが物心が付くと同時にアニメを観たいとせがむようになり、以降はジュンの喜びそうなのを上映するのがもっぱらとなってしまった。

「やっぱり男の子なんだよね。私にはどうにも判らない事ばかりよ」

 鼻から大きく息を吐きながら、自殺した妻がそう言っていたのを思い出す。

 ミキは三姉妹の次女だった。父親を早くに亡くしたがお金に困る生活ではなかったと言っていた。そんなミキは私立のプロテスタント系の女学校へと通い、大学を卒業するまで世間のれっらした女性ではなく、箱入り娘同然で育ってしまったらしい。当時、僕の教えていた絵画教室にモデルとして来たミキが、実はヌードモデルだと知らずに顔を真っ赤にして困っていたのを、

「ならば今日は普通の人物画にしましょう」

 の一言で救ったのをきっかけで付き合いが始まったのだが、それも今となってははかない記憶に過ぎない。

 そんなミキだからなのか、ジュンの腕白わんぱくさにはホトホト手を焼いていたのは知っていた。なのに地下のシアタールームでポカンと口を開けて真剣にアニメを観ているジュンを、なおいとおしそうに見つめるミキの右手にはコーヒーの入ったマグカップ。香りが好きなの、とブラックで飲むのが彼女だった。アニメをジュンと一緒に観ている時だけ、ミキはスナック菓子を食べる。お菓子は太るから、と普段は食べないのにこの時だけはなるべく音を立てずに、ジュンの邪魔をしないように、静かに。

 今、メイが同じ事を同じモーションでした。

 微笑ほほえましい、よりも先に幽霊を見たかの気味の悪いデジャヴだった。

 アニメはいよいよクライマックス。主人公がピンチを脱して敵を倒そうとしている場面だ。このアニメは毎回、同じような展開になるのが判りきっているワンパターンなのに、ジュンは今回も目が離せない様子だった。


 案の定、遅くなった夕食の後にメイとジュンは風呂へと入り、それぞれの寝室へと向かった。僕は予定から大きくずれ込んでしまったが、これでようやくアトリエで絵の製作に取り掛かれる。本来であるならデッサンから始めるつもりでいたのに、絵の方が粗方あらかたできあがっている。細かな補正やリタッチを加える程度だ。

 それでも尚、絵に関する記憶がない。描いた触感すらも指先に残っていない。しかし絵を見れば判る、間違いなく僕が描いた絵だ。構成も筆使いも色合いも表現方法も、疑う余地もなく僕のものだ。

 ならば、何時いつ、どのようにして描かれたのかを真剣に考えた。

 この半年の間は別荘には来ていない。だとしたら、まだミキが生きている頃に描かれた事になり、ほぼ完成に近かったという話になる。では、ミキもこの絵を僕が描いていたのを知っていたのだろうか。今の僕が構想している絵のテーマが『幸福の再生』なのに対して、すべてが考えていた構成通りのキャンバスからは幸福も再生も感じられない。この絵に存在しているのは、過剰とも受け取れる猥褻わいせつだけだ。更にこの絵からは、描かれていく過程の中で幾度いくどとなく様々な葛藤かっとうがあったのもうかがえる。特に天使には何度も書き直した跡が残っていた。猥褻に仕上げるのに余程の抵抗があったのか。もっと過激な猥褻を目指して努力していたのか。そもそも、僕はどうしてこんなに猥褻に仕上げてまで、この絵を作品として残そうとしたのか。目前のキャンバスに描かれた絵と僕の思い描いていたテーマとの、食い違いが酷過ぎる。こんなにも絵を猥褻にする理由が、どれだけ考えても見当がつかない。

 当時の僕は何を考えていたのだろう。

 かく、今夜はまずメイをモデルにした天使を消してしまわなければならない。心の下の方からしむ気持ちがき上がってはいたけど、気の所為だと構わずパレットナイフでこそぎ落とす。パラパラと音を立てて足元へとちてゆく天使。その時、

「パパ、はかどってる?」

 メイがアトリエに入ってきた。眠れないのだろうか。娘がモデルになったと聞いた天使を削っているタイミングで入ってきたのでいささかな驚きがあったが、それでもメイが来る前に大体終わっていたので安心はしていた。どう考えても僕の描いた天使は卑猥ひわいでしかない。無理を言ってモデルにまでなってくれたという申し訳ない気持ちが強かったが、親としても画家としても描き直さなくてはならなかった。

「コーヒーれたけど飲む?」

 メイの両手にはマグカップがあった。いつの間にかコーヒーの良い香りがアトリエに広まっている。湯気がまだ白く立っていた。

「コーヒーなんてどうしたんだ。もしかして片方は自分の分か」

「だって眠れないだもん」

 甘えた声で言い訳するメイ。

「コーヒー飲んだらもっと眠れなくなるぞ」

「大丈夫、明日も休みだし」

 何を根拠に大丈夫と言ってるんだよ。だから、

夜更よふかしはダメだぞ」

 親としての当然の注意をしてみる。メイは、チェッ、と憎々しげに、

「つまんない、少しくらいいいじゃん」

 そう言いながら勝手に自分のコーヒーをすすりつつ、僕の分のコーヒーを渡してきた。実は僕も最初からちょっとくらいの夜更しは許す気分だったので、メイのコーヒーをとがめるつもりはない。僕のマグカップには甘めで苦めのカフェ・オ・レ。まるでミキが淹れてくれたみたいな僕の好みの味がした。

 そういえばミキがまだ恋人だった頃、僕はよく彼女のヌードをキャンバスに描いた。ミキは美人だったが身体もまた美しく、これでもか、と大人の肉体美をキャンバスに表現していった。

「そういう風に私が見えてるの?」

 初めての恋人が画家だったのもあったんだろう。ミキは僕の描いたヌード画を不思議そうに眺めなが、そんな評価をしてきた。

「やっぱり変かなぁ······」

 当時から僕の絵は個性的な雰囲気があったので、自信なさげに答えると、

「私、こんなにもグラマーじゃないもん」

 と不満げに答えたので、

「そうでもないよ」

 僕は嬉しくなって笑いながら返事をした。

 するとミキは、昔に聞いた話なんだけど、みたいなよくある切り口で話を始めた。

「画家ってね、えてる世界が他の人とは違うんだって。ピカソとかダリとかゴッホとか、何か凄い絵を描いた人って、本当にあんな風に世の中が視えてるんだって聞いた事があるの。でも······」

 ミキは少し言いあぐねて悲しそうに視線をらすと

「でもそれって可哀そう」

 泣き出しそうな声で呟いた。僕は心配しながら、どうして、と尋ねると、

「私が今こうして感じている幸福の景色が私とは違って見えるんだよね。私が知ってる幸福と画家が思う幸福。大切な価値観がずっと一緒にならないのは、幸福を共に喜ぶ事のできない不幸だとは思わない?」

 ミキらしい考え方だな、と今なら理解できる。結婚してから僕や子供達、家族の幸せに専心していたのをつぶさに見ていた僕だからこそあの時、

「ミキ、僕はそんな芸術家みたいな才能なんて持った人間じゃないよ。絵を描くのが好きなだけの平凡な男だ」

 なんて本当に凡庸ぼんような答え方をしたデリカシーの皆無加減かいむかげんに、我ながら辟易へきえきとする。なのにミキは大袈裟おおげさに、あら残念、みたいな顔を見せると、

「こんなにグラマーに私を描くって事は、もしかしたらアーティストとしての才能があるかなって思ったわ。私って男を見る目がないのかなぁ」

 舌をペロッと出しておどけるミキ、一緒に笑う僕。でも僕にはミキがこう見えるんじゃなくてミキをこう感じるんだよ、と真面目に絵の説明を始めたら、キスで黙らされた。

 あの頃の僕らは何があっても笑っていたな。とキャンバスの天使の残りをけずりながら思い出していた。今の僕には幸せな記憶ほどつらく苦しいものはない。こんな地獄もあるもんなんだ、そう思った途端、ふとこらえきれず涙がこぼれた。

「パパ、泣いてるの?」

 真っ白なメイの声が暗く静かなアトリエに染み込んでゆく。

「無理しなくていいよ。クスリ飲もっか」

 心が落ち着く優しい音楽みたいに聞こえた。まるで床に堕ちた天使がささやいたように感じた。それでも僕はクスリの誘惑に負けなかった。もうクスリにはなるべく頼らないんだ。昼にメイから言われた言葉が頭の中で繰り返す。3人で再出発するんじゃないか。改めて僕は父親である事を認識できた。シッカリしなくちゃいけない。いつまでもメイばかりに任せっきりではいけないんだ。今、この時がり所であるのを解っていた。

「クスリはいらない。少しだけ昔を思い出していただけだよ。としを取ると小さな事でも感傷的になっちゃうもんなんだ。大丈夫だよ」

 思っていたより近くまで寄ってきていたメイの頭をでながら、娘の心配を少しでもなくそうとする父親らしい言葉だった、と今までのクスリ漬けだった自分では考えられない言葉に僕の心の中には勇気が少しだけ湧いてきていた。

「パパも頑張ってるんだ」

 嬉しそうに微笑ほほえむメイは、

「じゃあ、ご褒美ほうびあげるね」

 メイはそう言うと、僕の唇に黙ってキスした。驚く僕をかいする事なく、

「おやすみ」

 と花を置くように言葉を残して、メイはアトリエを出ていった。

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