『土曜日〈2〉』
昼をだいぶ回ってしまい思った以上に時間を掛けてしまった事に反省しつつ、それでもまだメイは助手席で眠り姫を続けている。ジュンは車が停まる直前まで外の景色を見ていた。本当に今更なのかもしれない。僕ら家族3人を乗せたSUVが別荘に着いた時、昔のような心を
車を駐車場に停めるとジュンはすぐに車を降り、僕がそのまま鍵を渡すと勢い変わらず
「······ん、着いた?」
ちょっと遅れてメイが目覚めた。でも一歩だけ間に合わなかったようだ。
「あぁ、けどもうお昼を回ってしまったよ」
僕もなるべく
「あれ?ジュンは?」
さっさと気付いて辺りを見ている。それでもまだ
「忘れたのか、王様ルールその1だ」
と家族の中ではヒントにならないヒントを出した。
「だったらこの後は
「そ、王様ルールその2だな」
ジュンが別荘から飛び出してきたのは直後であった。雨降りのましてやまだ
「ジュンっ、寒いから今日は泳いじゃだめぇっ」
慌てて車から飛び降りて追い駆けるメイと、姉の
やっぱり別荘に来て正解だった。僕は二人の姿を柔らかく見つめながら、さてと、と車から荷物を降ろし始める。
僕らの別荘は2階建て、地下室まであるログハウスだ。
確かにミキの言葉は間違っておらず、僕は子供と一緒だった。ログハウスは当時の僕の理想を全て
別荘が完成した頃、ミキは別荘全体を眺めながら、
「ま、安い買い物じゃなかったんだから、それなりのワガママは詰め込んだんでしょうけど······」
「だからシッカリと元は取ってよね、パパ」
と満面の笑みを
僕は別荘の中に荷物を運んでいた。外では雨が降っているというのに、メイの
半年も放置していればそれなりに汚れはする。これは掃除もしなくちゃいけないかもだな、と別荘に着くなりげんなりしてしまう僕。1階のリビングの窓を雨の様子を見ながら開けると小走りで2階へと上がる。寝室やらバルコニーのガラス戸も開けてどうにか落ち着き、やっとアトリエへと気持ちが向き合えた。
バルコニーのガラス戸を開けたのでアトリエに空気が流れ込み、油絵の具独特の
名前は
》びてしまった
絵全体はそんなに暗い構成ではないが、雰囲気としては
いや、そうじゃないだろ。この絵の感想なんてどうだっていい。
イーゼルに掛けられた絵は、僕が今日まで構想を
僕が密かに別荘にやって来て内緒で描いていたとでもいうのか。まるで盗作された気分でしかない。でも僕の頭の中にしかない構想段階の絵をどうやって盗む事ができるというのか。
しかも絵の天使だが、髪の色を金色に変えてはいるが明らかにメイだ。娘をモデルにして描いた天使だ。もし僕がこの絵を描いたとするならば······一瞬だったが下劣な妄想が頭を
この自分だけが知らされてないような不気味さは何だ。
「パパ、もう絵を描いてるの?」
メイがアトリエに入ってきた。雨なのか湖での所為なのか髪も服も濡れており、タオルで拭きながらだったかポタポタと床に
「メイっ、丁度よかった。この絵を見てくれっ」
僕は取り乱しながらメイの方にイーゼルを動かした。メイはキャンバスを一目見ただけで直ぐに恥ずかしそうな表情に変わり、耳まで真っ赤にしながら、
「見てくれってパパ、これパパの描きかけの絵じゃん······しかも私の」
メイは何を言っているんだ。僕の絵だって?僕が描いたというのか。更にメイは言いにくそうに口を重くしながら、
「メイがモデルになった······」
恥じらいながらの小さな声は確かにそう聞こえた。娘の雰囲気からは単純なモデルではないのは
「僕がメイをモデルに頼んだのか?僕が?この絵で?」
「何言ってんのパパっ、あんな恥ずかしい思いまでしてモデルやったんだから、ちゃんと完成させなきゃメイも
本気で怒鳴っているメイの声が遠い。僕の状態は混乱なんてもんじゃなかった。本当に僕がこの絵を描いたのか。一体どうやって描いたのかも覚えていない。メイをモデルに使ったのもそうだ。しかもこんなにも
ただただ気色が悪い。別荘に来る前に思い描いていた絵なのに大半が完成している。こんなにも描き込んでいるにも
そうだ、こういう時はクスリ、クスリだよ。確か記憶を整理しやすくなる効果のあるクスリがあった。コーヒーブラウンのカプセルだ。
「パパっ、クスリに頼る前に自力で思い出してっ」
メイの声が切実さと悲痛さが
「だけどメイ······やっぱりダメだ、思い出せない」
「すぐにクスリに逃げちゃ意味ないよ。しっかり現実で思い出さないと。メイは一日でも早く元気なパパに戻ってほしいの。早く元気になってまた······」
そう一息で言うと僕の目を見ながら、
「また激しくメイを抱いて欲しいのっ」
え、今なんて言ったんだ?
「だから早く元気にならなきゃ家族3人で再出発なんて無理でしょ」
僕は一体何と聞き間違えたんだ。まるで
「もう、仕方ないなぁ」
メイの声には、諦めしか含まれていない。
「はい、クスリ」
そんな声と共に出されたコーヒーブラウンのクスリがメイの
「······メイ、それはクスリなのか」
ありえる
「これはぁ、これはぁ、スタミナがぁ、バツグンにぃぃぃつくぅぅぅクスリじゃないぃぃぃ」
何を言い出すんだメイは?
「パパとぉメイはぁ、セックスぅぅぅするんんんだからぁぁぁううぁぁぁ」
僕はメイを凝視した。
「何を言い出すんだっ、メイっ」
思わず大声で怒鳴りつけると、メイはキョトンとした表情で、
「だからコーヒーブラウンでしょ」
はいこれ、とまるで素知らぬ顔のメイは、確かにコーヒーブラウンのクスリを差し出している。
「思い出すとかどうとかは別にして、別荘にいるうちはなるべくクスリは飲まないようにして」
今し方、僕の目の前で起こった事が、クスリの効果が切れたのが原因だとすれば、僕は相当な薬物中毒に
「メイ、すまない。スカイブルーの、クスリに、してくれないか」
メイは呆れたかのように淡々とした顔で、
「これ」
けんもほろろにクスリを渡してきた。僕はメイの掌から奪い取るようにクスリを貰うと、水も使わず慌てて飲み込む。早く効いてほしい、1秒でも早く。
「クスリが効いてからでいいからジュンの服を出してあげて。雨でビショビショだから風邪ひいちゃう」
メイの声をどうにか聞きながら僕は大きく息を吐き、アトリエに置いてあるソファーへバッサリと腰を落とした。お気に入りだったソファーも何となく
「じゃ、1階にいるよ」
メイはそのままアトリエを出ていった。僕は独りぼっちでクスリの効果に溺れながらキャンバスに描かれた絵をボンヤリと見ていた。どれだけクスリが効いてこようとも、やはりこの絵の不思議だけはどうしても
所でメイは、コーヒーブラウンのクスリからスカイブルーのクスリへ、どのタイミングで変えてくれたのだろうか。
夜になって雨足は弱まりはしたものの、依然としてしょぼついている。遅くなった昼食の所為だろうか、子供達はこんな時間になっても夕食を
その点、ミキは掃除が上手だったし好きだった。
「なんか別荘のお陰で私の仕事は倍になったのよ」
というような嫌味を、僕に聞こえるポジションから
ミキという女性は昔から素材に込められている情みたいなのを大切にする人間だった。だから高価なバックや宝石を取り立てて欲しがる事はなく、身の回りにある品物を丁寧に長く
ミキはきっと無理が
しかし子供達はやけに大人しくしているな、と様子を見に行ったら地下のシアタールームでアニメを観ていた。
「やっぱ男の子向けのマンガは、メイはもう卒業みたい」
それでもホットコーヒーをブラックで飲みながらスナック菓子を袋から一つ
あれ?僕はこれと同じ光景を過去に何度も見た事があったぞ。
週末の別荘で雨が降ると、決まって地下のシアタールームではアニメの上映会が行われた。プロジェクターから映し出される200インチの大画面と結構な金額を費やした音響設備は、何も最初からアニメ上映用に
「やっぱり男の子なんだよね。私にはどうにも判らない事ばかりよ」
鼻から大きく息を吐きながら、自殺した妻がそう言っていたのを思い出す。
ミキは三姉妹の次女だった。父親を早くに亡くしたがお金に困る生活ではなかったと言っていた。そんなミキは私立のプロテスタント系の女学校へと通い、大学を卒業するまで世間の
「ならば今日は普通の人物画にしましょう」
の一言で救ったのをきっかけで付き合いが始まったのだが、それも今となっては
そんなミキだからなのか、ジュンの
今、メイが同じ事を同じモーションでした。
アニメはいよいよクライマックス。主人公がピンチを脱して敵を倒そうとしている場面だ。このアニメは毎回、同じような展開になるのが判りきっているワンパターンなのに、ジュンは今回も目が離せない様子だった。
案の定、遅くなった夕食の後にメイとジュンは風呂へと入り、それぞれの寝室へと向かった。僕は予定から大きくずれ込んでしまったが、これで
それでも尚、絵に関する記憶がない。描いた触感すらも指先に残っていない。しかし絵を見れば判る、間違いなく僕が描いた絵だ。構成も筆使いも色合いも表現方法も、疑う余地もなく僕のものだ。
ならば、
この半年の間は別荘には来ていない。だとしたら、まだミキが生きている頃に描かれた事になり、ほぼ完成に近かったという話になる。では、ミキもこの絵を僕が描いていたのを知っていたのだろうか。今の僕が構想している絵のテーマが『幸福の再生』なのに対して、すべてが考えていた構成通りのキャンバスからは幸福も再生も感じられない。この絵に存在しているのは、過剰とも受け取れる
当時の僕は何を考えていたのだろう。
「パパ、
メイがアトリエに入ってきた。眠れないのだろうか。娘がモデルになったと聞いた天使を削っているタイミングで入ってきたので
「コーヒー
メイの両手にはマグカップがあった。いつの間にかコーヒーの良い香りがアトリエに広まっている。湯気がまだ白く立っていた。
「コーヒーなんてどうしたんだ。もしかして片方は自分の分か」
「だって眠れないだもん」
甘えた声で言い訳するメイ。
「コーヒー飲んだらもっと眠れなくなるぞ」
「大丈夫、明日も休みだし」
何を根拠に大丈夫と言ってるんだよ。だから、
「
親としての当然の注意をしてみる。メイは、チェッ、と憎々しげに、
「つまんない、少しくらいいいじゃん」
そう言いながら勝手に自分のコーヒーを
そういえばミキがまだ恋人だった頃、僕はよく彼女のヌードをキャンバスに描いた。ミキは美人だったが身体もまた美しく、これでもか、と大人の肉体美をキャンバスに表現していった。
「そういう風に私が見えてるの?」
初めての恋人が画家だったのもあったんだろう。ミキは僕の描いたヌード画を不思議そうに眺めなが、そんな評価をしてきた。
「やっぱり変かなぁ······」
当時から僕の絵は個性的な雰囲気があったので、自信なさげに答えると、
「私、こんなにもグラマーじゃないもん」
と不満げに答えたので、
「そうでもないよ」
僕は嬉しくなって笑いながら返事をした。
するとミキは、昔に聞いた話なんだけど、みたいなよくある切り口で話を始めた。
「画家ってね、
ミキは少し言い
「でもそれって可哀そう」
泣き出しそうな声で呟いた。僕は心配しながら、どうして、と尋ねると、
「私が今こうして感じている幸福の景色が私とは違って見えるんだよね。私が知ってる幸福と画家が思う幸福。大切な価値観がずっと一緒にならないのは、幸福を共に喜ぶ事のできない不幸だとは思わない?」
ミキらしい考え方だな、と今なら理解できる。結婚してから僕や子供達、家族の幸せに専心していたのを
「ミキ、僕はそんな芸術家みたいな才能なんて持った人間じゃないよ。絵を描くのが好きなだけの平凡な男だ」
なんて本当に
「こんなにグラマーに私を描くって事は、もしかしたらアーティストとしての才能があるかなって思ったわ。私って男を見る目がないのかなぁ」
舌をペロッと出して
あの頃の僕らは何があっても笑っていたな。とキャンバスの天使の残りを
「パパ、泣いてるの?」
真っ白なメイの声が暗く静かなアトリエに染み込んでゆく。
「無理しなくていいよ。クスリ飲もっか」
心が落ち着く優しい音楽みたいに聞こえた。まるで床に堕ちた天使が
「クスリはいらない。少しだけ昔を思い出していただけだよ。
思っていたより近くまで寄ってきていたメイの頭を
「パパも頑張ってるんだ」
嬉しそうに
「じゃあ、ご
メイはそう言うと、僕の唇に黙ってキスした。驚く僕を
「おやすみ」
と花を置くように言葉を残して、メイはアトリエを出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます