『日曜日〈1〉』

 まんじりともせずアトリエにて夜は明けつつある。昨夜の出来事は僕の狂った脳ミソが際限なくリフレインしてくれた。勿論だが今、この時も続いている。絵なんて少しどころではなく、何も手をつけられやしない。床に天使の破片かまだ散らばったままになっていた。これほど感情がまとまらない中で天使を描いたとしても、前よりもっと猥褻わいせつな天使にしかならない。

 娘が、メイがキスをしてきた。

 おさない我が子が父親にするような、そんな可愛らしさをまとったキスとは明らかに違う、大人の男女が愛を確かめ合うような濃厚な接吻せっぷん。メイとのキスには幼気いたいけなさが存在していない。唇は5秒ほど重なっていた。いや、もっと長かったかもしれない。メイの唇が離れる時の粘膜と粘膜が立てる下品で湿しめった音までした。唾液だえきの独特のっぱいにおいもあったし、温かくて柔らかい弾力のある唇の肉としての感触まで当然、した。これは気の所為かもしれないが、もしかしたらメイの舌先が僕の舌先に触れたような気もする。

 僕は今、後悔している。

正直に告白するならメイとのキスに、感情も肉体も昂奮こうふんさせられてしまった。

 だから娘が僕にキスした瞬間でもよかった。何ならアトリエを出たメイを追い掛けて、そのままベッドへと押し倒してもよかった。妄想で繰り広げた通りにメイの全部をむさぼり尽くせばよかった、とアンモラルな後悔が今更になって僕の心をじってくる。

 行動に移せなかった単純な理由は、父親としての理性、それだけだった。肉親としての当たり前の道徳が肉体の暴走をどうにか食い止めてくれたのだ······畜生、何を安心してるんだっ。

 大体、血の繋がった娘に欲情している時点で全部アウトなのに。葛藤しているだけでも充分過ぎる不義であるのに。安心している段階が既におかしい。

 僕は昨夜からクスリを10錠も飲んでしまっている。もう何色のクスリを飲んだのかすら覚えていない。そもそも、何色のクスリを飲んだとしても僕の昂奮は抑えられるようなモノではなかった。漸く気分が落ち着いたのは、ついさっきの事である。しかも落ち着いたとは言っても、クスリが効いてくれたからではない。自覚があった。僕はクスリが効きにくくなり始めている。

 別荘の夜の暗闇を覗きながら、僕は自殺する数ヶ月前のミキを思い出していた。今の僕と殆ど同じ様子だった。どれだけクスリを飲んでも、効果が現れなくなっていた。ジュンがスナック菓子を頬張るみたいに、ミキはクスリを食べていた。ポリポリとクスリを噛み砕くミキを、あんなにも異常になってしまったミキを、どうして僕は止める事ができなかったのだろうか。自分が同じ境遇に陥って初めて知る懺悔ざんげであった。ふと考える。あの時のミキは自分をクスリで破壊してまで、何の苦しみから逃れていたのだろうか。僕や家族をずっと支え続けてくれた芯の強い妻が、どんなキッカケからクスリに頼らなくちゃいけない事になってしまったのだろうか。

 どうして自殺なんかしてしまったんだ。

 不意に脳の中にミキの首を吊った姿が浮かび、死体が腐乱していく様が流れた。そのリアルさに唐突に猛烈な吐き気を催してしまい、僕はアトリエの床に自分の胃の中身をぶち撒けてしまう。あまりの苦しさに全身で息をしている僕。ふと自分の吐瀉物の中に小さな白い粒を見つけた。まるで昨日のスーパーマーケットの蛆のように思えた。胃液の中央で小さな白い粒がモゾモゾと動く。

 どうして僕の体の中に蛆がいるんだ?

 僕は再び勢いよく吐き戻してしまう。体内で起きた異常に恐る恐るではあったが、よく観察すれば大量の吐瀉物の中にあったのは未消化のクスリだった。

 涙が流れた。

 吐いて苦しいからではない。情けないのもあったんだろう。妻の事を思い出したのもあった。娘への劣情を抱いたのもそうだろう。その全てを含めて、でもその全てとは違う感情。

 恐怖、僕は純粋に自分の為だけに涙を流していた。僕が僕ではなくなっていくような、自分が消失してしまうような、今日までの人生全部が夢だったような、恐怖に怯えて流す涙だった。僕はこのままクスリの所為で自我を亡失し、いずれは娘を犯した挙げ句にジュンを一人残して、妻と一緒の自ら命を絶つ道を歩むんじゃないのだろうか。

 僕は単純に、死、が恐ろしい。

 そういう感情なんて誰しもが抱えているのなんて判りきってはいる。何も僕だけが特殊な感覚で生きているなんて思ってはいない。でも僕は物心がついたときから、既にザックリと死を畏怖いふしていた記憶がある。理由なんて探せばあるかもしれないが、これだと言い切って該当できる事案はない。それでも僕は暇さえあれば、死、を空想していた。死んだ事もないのに自分の死ぬ夢まで見て泣いた経験すらある。この程度ならまだよくある話で終わるかもだが、僕は自分の死への空想を画用紙に書き溜め始めた。別にダイレクトに死をイメージするものではなく、空想の死なので時には風景の写生画みたいなモノだったり、別の日には意味を持たない抽象画的なモノだったりと兎に角、僕は死を表現したかった。表現する事によって、死、を絵の中に閉じ込められると信じていたんだ。

 そんな子供時代があったからか、僕は昔から比較的ダークな絵を好んだ。死を予感させる絵、連想させる絵に強くかれる傾向がある。特に16世紀から17世紀に掛けて描かれたヴァニタス画に大きく興味を持った。ヴァニタスとはラテン語で『虚しさ』の意味の言葉だ。人生のはかなさを主題とする絵画で髑髏どくろや泡や時計や腐ってゆく果物などが絵の中に描かれているのが特徴として多い。実は僕の絵にもヴァニタス画の影響が大きく出ていて、キャンバスには巧妙に死の雰囲気を隠蔽いんぺいしながら描いていた。

 だけど、世の中のディレッタント共が小癪こしゃくにも僕の絵の中の、死、を見つけてしまい、

「現代における新しいヴァニタスだ」

 なんて騒ぎ出してしまったんだが、しかし結果として僕の絵が日の目を見る形にも繋がった。

 確かに客観視すれば僕も成功者の一人に数えられるのかもしれない。最初はミキにすら絵の秘密は黙っていたんだが、僕は子供の頃と何も変わっていない一つの証拠が絵だった。今以いまもって、僕は自分の描いた絵に死を閉じ込めていたに過ぎない。だから僕にとって絵を描くという事は、死が内包するあらがいようのない妖気を絵の具で封じ込めて、自分から死を遠ざける儀式も含まれていた訳だ。

 僕は誰にも秘密にしていた命乞いのちごいの儀式が見つかってしまい咄嗟とっさに、

「今まで封じ込めてきた、死、が大挙して襲ってくる」

 と恐怖に駆られてしまった。なので僕は更に複雑な形で死を封じる儀式を完成させねばならなくなった。あの手この手で儀式を構築し、より絶妙にしかも手間を掛けて、死、をひた隠しにしたんだが、まるで誰かが義務のように見つけてしまったので僕は絵を、死を描けなくなってしまったんだ。要約すればネタが尽きたんだよ

 これがスランプの正体なんだけど、正体を知っているだけに解決策が簡単ではないのも最初から何となく理解していた。僕は絵を描く以外に、死、の恐怖を遠ざける方法を知らなかったんだ。

 ミキも僕のスランプの正体に薄々ではあったが気付いていたんだと思う。だから家族と過ごす時間を増やしてくれたり、働き過ぎだと注意をうながしてくれたりしてくれた。

「アナタは子供達と変わらないわ」

 と優しくたしなめてくれたのも、別荘を建てるワガママでさえ強く反対しなかったのも、全ては僕から死への恐怖を引き離す為に妻が、彼女なりに考え出した儀式のようなものだったに違いない。

 なのに、僕一人を残して自殺するなんて。

 ミキはまるで本当の呪いの儀式みたいに死んでしまった。

 涙が少し収まったので、僕は自分で汚してしまった床を掃除する。ドロドロとした胃液に溶けかけのクスリが幾つも見えた。数から考えると殆どのクスリは体内に吸収されていない事が判る。

 今の僕はクスリが効かなくなっているのではなかった。

 雨の音は聞こえていなかった。


 ん?

 今、何かを思い出しそうになったぞ。難解な四次元の迷宮だと思っていた筈の道程みちのりが、突然に出口が見えたような一瞬の光。

 街の発展。

 ミキの自殺。

 ジュンの失声症。

 メイとのみだらな空想。

 毎日飲んでいるクスリ。

 妻と僕との結婚記念日の腕時計。

 スーパーマーケットの床にいた蛆。

 添加物によって腐りにくくなった死体。

 いつ描いたか全く覚えのない天使の猥褻画。

 必要がないと感じる情報までが頭蓋骨内部を飛び交い、あたかも電撃を受けたかのように一瞬の出来事として収束してのだが、なのに引波が全てをさらったみたいに何一つとして残っていない。何をとか何かすらも、そんな印象全てが消し飛んでいたので却って得体の知れない薄気味悪さだけを心に塗付けられた感じがあるだけだ。僕は不明な余韻に改めて身震いをする。

 僕は、本当は何を失ったんだろう。


 アトリエの床を掃除してから、1階に降りて朝食の準備を始めた。レトルトパックのご飯にフリーズドライの味噌汁とレトルトの肉じゃが。正味10分もせずに朝の支度は完了する。まだ子供達は眠っているというのに、何を急ぐ必要があったんだろう。

 鍋に移してまた温め直せばいい、と台所の鍋にさっさと移し終えると、昨夜にメイが淹れてくれたコーヒーの残りを見つけた。丁度よかった、とポットごとコンロで温めて飲む事にした。だが、温まったコーヒーは驚くほどに不味まずい。香りも味も全部抜けており、加えて泥水みたいな味になっている。一口で飲むのを止めてコーヒーをシンクへと捨てた。ドス黒い墨の色をした液体が渦を巻きながら排水口に流れてゆくのを眺めつつ、別に特別な意味もなく外が見える窓へと目をやった。

 あちこちに濃いきりかたまりが雲のように漂っていた。カミーユ・ピサロの『モンマルトルの大通り、冬の朝』に見られる遠景にあったもやよりも分厚ぶあつく、しかもジェームズ・マクニール・ホイッスラーの『白のシンフォニー―第1番―白の少女』みたいな存在感のある濃さを持った、なのに現実味の全くない絵画のような霧がある。点在する霧の塊を見ていると、別の空間に飛ばされて現実味のない世界のように感じてしまう。別荘の周りだけがポッカリと空中に浮かんでいる、そんなファンタジーな空想をしていた。雨が降っていない景色を見るのはいつ以来だろうか。

 しかし霧が不気味に濃い。僕は玄関から外に出てみた。あまりにもフィクションじみた霧が本物なのかを確かめたかったからだ。外の霧は本物で想像以上の濃霧だった。まるでミルクの中に落ちたみたいだ。霧に包まれると一瞬で何も見えなくなり、僕の視力が異常になった錯覚までする。自分の手を目の前に持ってきて意識が正常なのを再確認しなければ、進行形で見えている全てを疑ってしまうくらいの、白、だった。

 濃霧の塊の一つに入って行くと直ぐに何かにぶつかった。僕のSUVだった。ぶつかって漸く、ここが駐車場だと気付く。無人の車が存在しているだけでも、現実世界にいる安心感を得られた。なのに、どうしてこんなにも心細いのだろうか。

 SUVのボディに沿って歩きながら霧から脱出すると、僕は湖へとそのまま歩いた。理由は判らない。ただ漠然と衝動に駆られたに過ぎない。というよりも、湖があるのを確認したかったんだと思う。あって当然の湖が何故なのか、あやふやなモノに感じてならなかった。クスリの所為なのだろうか。

 気づけばさっきから、体調に呼応するみたいに頭の中で誰かが囁き始めている。最初は小さな声で何を言っているのか判然としなかったが、段々と言っている事が判り始めてきた。

 湖······桟橋······ボート······ブイ······

 湖には桟橋もボートもブイある。別荘を建てる以前からあった。だから桟橋もボートも共に古くてボロボロになっている。湖周辺に他の別荘は無いが、昔はあったとも聞いていた。過去の別荘で誰かが所有していた物に違いない。また湖の中心付近には目的不明なブイも浮かんでいる。ボートでブイを回って戻って来るような遊びをしていたのだろう。

 今では使う事のできない桟橋とボート。危ないから遊ばないように、と僕もミキも子供達には厳しく釘を刺していた。ボートの方はまだ水に浮いてるだけマシだが、それでも子供達が間違って乗り込んで流されでもしたら事だ。更に桟橋の方に至っては経年劣化が進んでおり、湖の小さな波でも木材の擦れる嫌な音を響かせていた。

 桟橋もボートも誰の所有物で誰が管理しているのかも判らないので、勝手に処分できない。不動産屋に聞いても判らなかったので正直、参っていた。しかし子供というのは、特にジュンは親の目を盗んでは桟橋を態と揺らしたりだとか、桟橋の先端まで歩いてみせて意味のない度胸をアピールして、満足に変えていたようだ。子供だし男の子だから無茶をする気持ちは理解できなくはないが、一度だけミキにこっ酷く叱られていたのを見た事がある。親の仕事の9割は子供の心配だな、と妙に納得したのを覚えている。

 頭の中の声に引き摺られるように湖まで来てしまったが何故、過去の忘れ物を囁くのかは判らない。何かの意味でも含まれているのだろうか。

 しかもこの声、女の声だ。小さくてくぐもった苦しそうな声だが女性のものだ。どこかで聞いた事のある声なんだが、誰なのかが思い出せない。知っている感じはするんだけど。

 牛乳みたいな濃い霧がポツポツと浮かんでいる湖を眺めていた。別荘を出てから10分くらいか、体感では30分は経っていないと思う。まさか1時間はないだろう。でも、言葉の通じない外国で迷子になったように、自信がなかった。今の僕はクスリと霧の所為なのか、空間と時間を亡失している。

 反射的に懐を探った僕は、ピルケースを置いてきた事に気付く。しまった、クスリは持ってくるべきだった。

 ずっと続いている女の声と、いつまでも辿り着けない湖は、僕の気持ちを心細くしやがて不安に変わってしまうと漸く、それが恐怖である事に気付く。

 迷子になったデパートで自分の名前を伝えるアナウンスを聞いても、それが何処に行けば安心できるのか理解できない、そんな心境しかなかった。

 恐怖は次第にこの霧の存在を、もしかしたら生き物なのでは、と疑い始めさせる。僕は疾っくに巨大な怪獣の腹の中にいる、きっと少しずつゆっくりと消化されている。

 そんな恐ろしさを妄想し振り向けば、白い霧は恰もに意思があるかのようにグルリと僕を取り囲む。右を向けば右を、後ろを見れば後ろを、まるで白蛇の如く巻き付き僕の逃げ場を閉ざす。

 ただただ立ち竦むだけの僕は、今や恐怖に喰われてクスリを求めるだけのオートマターだ。

 そして恐怖はいよいよ、頭の中の声の正体を知らせ始めた。湖、桟橋、ボート、ブイ、の声より下の方から別の言葉が重なって聞こえてきた。

 腕時計は私がもらったの、パパがくれたんだよ。

 これはメイだ。ずっと響いていた声の主はメイだった。どうしてこんなにも低くてくぐもった声なのかは判らないが、メイに間違いなかった。

「メイっ、メイ何処だっ、何処にいるんだっ」

 僕の声は白に吸い込まれるだけで消えてしまう。やがてメイの言葉も少なくなり始め、遂にはたった一つの言葉だけを繰り返すだけになった。

 ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······パパ······

 頭の中ではずっとメイの声が僕を呼び続けている。途切れる事のないメイの声は、本当に頭の中だけなんだろうか。まるで耳元にメイが口を押し付けて囁いているような、息遣いきづかいいや温度や匂いまで感じる近さがあった。僕は咄嗟とっさに両耳をてのひらで押さえる。しかし、どれだけ強く耳を押さえても、メイの声は僕のすぐ傍から聞こえてくる。押された内耳がキーンと痛い。

 僕は本当に狂ってしまったのだろうか。クスリの効果が切れてしまうと幻聴が聞こえるなんて。体験の無い恐ろしさが末端からゆっくりと侵食しんしょくしてきて、僕はおかしくなりそうになりけものみたく絶叫した。自分の内側から響いてくる自分の叫び声に、僕はもうダメなのかもしれない、とすら絶望していた。

「パパっ、大丈夫?」

 いつの間にか僕の横にはメイがいた。心配して、というよりも、僕の狂乱を目の当たりにして怯えている。

 辺りはさっきとは少し様子が違っていて、霧は掛かっているものの薄くなっていた。朝霧が晴れ始めていたが、まだ濃い色をした霧がガス溜まりのように残っている。どうやら僕はあのガス溜まりの中にいたのかもしれない。

 周りを見れば別荘のすぐ傍だ。こんな近くで僕は勝手に不安がってたなんて、恥ずかしい。きっと同じ場所をグルグルと回っていただけなんだ。メイも僕の状況をどうやら飲み込めたらしく、

「ま、こんな大声をマンションでやられたら私も迷惑だけど、今日は別荘だから許してやるか」

 なんて冗談めいた口調で僕を安心させてくれた。

「さてと、もう戻って朝食にしようよ。ジュンも起こして3人で食べよ。それからクスリも飲もうね」

 メイの声は小鳥のさえずりみたいに僕の耳をくすぐる。不安なんていつしか消えていた。メイの言葉が心のひびへと蜂蜜のように甘く染み込んでくる。今ならクスリなんて必要無い。

「メイ、クスリはいいよ。それよりも朝食にしよう」

 僕がそう言うと、メイは優しく笑いながら僕の手を引っ張って別荘へと歩き出した。

「もう朝食の用意はできてるんだ」

「あぁ、知ってるよ」

そう答えるとメイは妻みたいに笑った。僕は少し嬉しかった。


 朝食の後、暫くして僕はジュンを連れて外へと出た。マンションから持参したあまり使ってないボールとグローブも一緒に。僕はジュンとキャッチボールをする。

 勿論、僕がジュンを誘っても気持ちの良い返事なんて聞かせてくれない。メイの助けを借りてやっとジュンはコクンと首肯うなづいた。説得にはあまり時間を使わなかった所から、ジュンも満更まんざらではないんじゃないかと判断している。

 ヤンチャなジュンでもどうしてなのか、キャッチボールは苦手にしてた。小柄なジュンにとってグローブという存在は大きくて重いのだ。その辺りも考慮して子供用の小さなグローブを買ったにも関わらず、何度教えてもグローブを着けてない右手で捕球しようとする。

 ジュンと僕とのキャッチボールのデビューはネガティブだった。普段から父親らしい事をしてやれていなかった僕が、実に安直な発想で誘ったキャッチボールだっただけに、横で見ていたミキが拍子抜けしながら笑っていたのを記憶している。

 それでも僕はジュンを愛している。仕事のスランプとジュンの産まれた時期が重なったのは単なる偶然だというのに、一部のマスコミが面白可笑おもしろおかしく書き立てたのには実に業腹ごうはらだった。

 だから僕がジュンを愛している事を知ってくれていたのは家族だけになってしまい、そんな家族の為にも僕はスランプから抜け出したかった。だが、スランプという泥沼は藻掻もがく相手を捕まえて離さない。あせりは新しい焦りを生むばかりで、僕はもっともっと身動きが取れなくなっていった。

 がどうだい、今さ。

 ミキは自殺してしまい、ジュンは言葉を失い、メイには大人とも子供とも区別がつかない複雑な感情を植え付けてしまった。

 僕だって今もずっと焦ったままだ。焦りは、何の結果も現れないジュンへの愛情を、更に空回りさせている。

 なのに、こうやって昔のようにキャッチボールに誘いでもすれば、もしかしたら、みたいな気分に傾いてしまう。当たりもしない宝くじみたいだ。こんな簡単な事だけでジュンが元に戻るなら、何の苦労もいらない。

 誰も僕を責めてないし脅しもしてないのに、僕は考えてた言い訳を口にするみたく、ジュンとキャッチボールを始めた。

 しかし、外の霧は思っていた以上にまだ濃い。10mと離れてないのに霧はジュンを、どこか亡霊のようにおぼろげに映した。

「さぁジュン、パパのボールが捕れるかな」

 ワザワザ、このボールだぞ、とジュンに見せた。霧の中で白いボールが見立たないかも、と余計な心配をしたのもあったが、今も亡霊のように佇むジュンが本当に存在をしているのかが不安になった所為もあった。だから僕は女の子でも捕れるような山なりのボールをゆっくりと投げてみた。

 だがジュンは、彫像にボールを投げたみたいに全く反応をしなかった。息子の横を一つ二つとバウンドして、ボールはジュンより小さな音を立てながら後方へと転がっていく。

 まるで無関心。向かって来るボールにさえピクリとも動じない。ジュンの状態がこんなにも深刻だったとは思いもしなかった。僕はボールが投げたボールが転がって止まっても、何も言葉が出てこない。それよりも先に涙がこぼれてしまいそうだったからだ。

「い、今のは、ちょっと難しい、ボールだった、な」

 かろうじて口から出たのは、本心ではない自分にもジュンにも偽った言葉だった。なるべくジュンを見ないように、泣きそうな僕を悟られないように、皺苦茶しわくちゃのティッシュみたいな笑い顔を無理矢理作って、後ろに転がったままのボールを取りに早足で駆ける。

 僕は早計で愚かな父親だ。心が壊れてしまったジュンがキャッチボール程度で元に戻るはずが無い。そんなのは別荘に来る前からわかっていた事だった。ただ現実のジュンを改めて突き付けられたショックを隠すのは容易ではなかった。ジュンに気付かれないように大きく息を一つだけ吸ったのは、効かないまじないでもやらなきゃいけない気分だったからだ。

 僕はボールを拾い再びジュンの方に振り返ると、いつの間にかジュンも僕のいる方を向いて立っている。ジュンの行動はとても些細ささいなものだったが、僕には充分過ぎる驚きを与えていた。

 そうなんだよ、壊れていようが狂っていようがジュンはジュンじゃないか。思っていても身体が動かないなんてよくある話だ。況してや子供、況してやジュン、僕は何を期待してるんだ。ジュンを信じなきゃだよ。もし、ジュンが僕を最低の父親なんだと感じていたら、そもそも別荘から出ようとしないのが普通じゃないか。ジュンは心の奥底で僕を信頼しているに違いない。

 僕は不安定な確信を燃料にもう一度、ジュンの方へボールを投げてみた。ジュンは先程と同じように人形のごとく無関心で、ボールは後方へとまた転がっていく。1分前に見た動画を巻き戻したかの光景だ。でも僕は再びジュンの横を駆け抜けてボールを拾う。そして答えを確認する為に後ろを振り向いた。

 やっぱり、ジュンは僕の方を向いてくれていた。僕はまたボールを投げ動かないジュンの横を走りボールを拾って振り向く。ジュンは僕をこっちを見ている。続けてボールを投げ横を走り振り向く。投げて走り振り向く。

 投げる、走る、振り向く。

 僕は嬉しくなっていた。一人で走り回りながらジュンの心を触っているかのように感じていた。本当は忙しなく駆けずり回っている僕を、ジュンは見ているだけなのかもしれない。薄っすらだが僕も気付き始めている。だけどいいんだ、それで。僕はピエロで充分なんだよ。そもそも僕の存在なんてピエロみたいなモンなんだから。絵描きなんて職業は、いや職業とも呼べる代物じゃないのはっくに判っていた事なんだ。どこの誰とも知らん奴らに僕の絵画を色々言われた所で、僕の価値なんて上がりはしないんだ。僕と作品は別物、世に放たれた僕の絵に僕自身が埋め込まれている筈は無く、絵画を通して見えてくるであろう虚構の僕を世の中の連中は勝手に作り出してバラ撒くだけ。僕が世界のカラクリに気付いてしまった時から僕だけではなく、家族にまで不幸を伝染させてしまった責任は、ピエロとして走り回る事ぐらい罪滅ぼしにもなりゃしない。


 ん?僕が家族を不幸にしたって一体······


 再び脳ミソの中で記憶の欠片かけらうごめき出す。

 強烈な目眩めまいともないながら数時間前のソレよりも激しい電撃のような記憶の群れは、僕を混乱される為の悪夢にすら感じる。

 街が目紛めまぐるしく発展していく様が早送りに流れてゆけば、ミキがキッチンで首を吊ってブラブラと揺れているのに、その足元でジュンは笑っているみたいで、なのにメイの唇も乳首も性器すらも僕はどうして知っているのだろうか。

 目眩の所為で思わず変な力が入ってしまい、ボールは大きく横へれてしまいジュンの後方へと真っ直ぐに飛んでしまった。

「ごめんなさい、ジュン」

 何を慌ててたのか、ジュンへ慇懃いんぎんな謝罪をしてしまう僕。なのに正しい言葉だと何故か思ってしまい、訂正するでもなく構わずジュンの横を通り過ぎる。

 その時だった。どうしてそう思ったのか見当もつかないが、二度とジュンには会えないんじゃないか、と感じてしまい、僕は急いで振り返った。

 ジュンは今まで通り僕を見てくれている。僕のよく知っているジュンの表情ではないが、優しくてコロコロしてて、なのにりんと落ち着いた表情。だけど久し振りに本当のジュンに会えたようで、僕はボールを取りにいくのを忘れて立ち止まった。瞬間、嬉しくも悲しくも淋しくもあり、ごちゃ混ぜな感情を殺して僕がジュンへ向けた言葉は「ボール······取ってくるな」だけだった。

 本心は飛んでいったボールなんでどうでもよかった。只々ただただ愛する息子のそばに駆け寄って強く抱き締めたかった。けれど今、そんな事をしてしまったら僕はもう我慢はできないだろう。ジュンを抱き締めながら泣き叫んでしまう姿が容易に浮かんだ。だから今の僕ときたら陳腐な一言を残すだけが精一杯で、追い立てられるように濃い霧の中へと小さなボールを探す為に入っていった。

 直ぐにボールを拾って早くジュンの所へ、焦る思いがボールを見つけるのをはばむ。いや、本当に見つからない。それ程は強く投げてないのにどこまで転がったんだろうか。更に霧の奥へと探しに行こうとした時、またしても目眩が僕を襲った。目眩と共に渦巻くのは記憶という情報の混乱。僕にはもう、クスリ以外の心当たりが無く、別荘にピルケースを置いてきた事を後悔していた。

 あの毎日のように服用しているミキのクスリは相変わらず沢山あるが、僕だってこの半年でかなりの量を飲んだというのに全く減らない。僕と妻がベアで揃えた結婚記念の腕時計を、どうしてメイなんかにあげたんだろう。いつ、どんな理由で娘の手に渡ったのか思い出せない。よくよく考えるとこの数日、僕の周辺には不思議な事が多発している。待て本当に、この数日、だけなのか。どうしてなのか、もっともっとずっと前からの感じがしてならない。しかし目眩の所為でいつ頃なのかが断定できない。

 フラフラになりながらも僕は漸く足元に転がるボールに気付く。どの辺りまで探しに来たのかは判らないが、思ってたよりも時間が掛かった。探すのに手間取ったのをジュンに謝らなきゃ、と思いながら別荘の前まで戻ったが、肝心のジュンの姿が見当たらない。

「ジュン、ジュンどこだ?どこに行ったっ」

 呼んでも返事はない。ジュンは喋れないんだ。まさか僕を探して湖へ向かったのか。あの桟橋で遊びでもして何か危ない事になったとしても、ジュンは助けなんか呼べない。

 なのにこのタイミングでまたしても目眩。今までのよりも一段と酷い目眩だ。地球全体が裏返しにでもなったかの錯覚すらしてしまう。そして、僕にこんな物を見せる脳ミソが気味悪かった。

 白い粒。こいつはスーパーマーケットで見た蛆だ。しかも一匹だけじゃない。およそ数万匹はいる光景が見える。メイの話した腐らない食べ物が、僕の絵の中に溢れていた。僕が絶対に描かない絵だ。だって僕の描く絵にはもっと淫らな天使がいるんだ······いや待ってくれ、あの絵だって僕は描いてない。あんな如何わしい姿のメイを描くだなんて······え、メイをだって?じゃあやっぱり僕はメイをモデルにあの天使を描いたのだろうか。何をどう考えれば自分の娘をモデルにしようと思ったのか。大体、僕が描くテーマから大きく外れている。あんなタッチの絵なんてミキの時以来、描いた事がないんだ。

 解らない、解らない事だらけだ。そして解らない事が多過ぎて、僕は段々と怖くなってきてしまう。恐怖はゆっくりと胃の中へと溜まり、口から溢れようとしている。死の恐怖とは違ったまた別の種類。もしかしたら、世界の全部の人間がもう死に絶えていて、残ったのが僕だけみたいなそんな恐怖。

 だから思わず大きな声でメイを呼んだ。

「メイっ、大変だ!ジュンがいなくなった」

 これでメイも返事がなかったら自殺しようとまで考えていたが、別荘の中からノンビリと出てきたメイは少し呆れ顔をしながら、

「さっき戻ってきたよ。疲れたんじゃない?部屋に入っていったけど」

 そう言いながら僕にマグカップを渡してきた。

「はいコーヒー、お疲れ様」

 湯気の立つ熱いコーヒー。香りが良い。

「昨日の残りだけど大丈夫みたいだったから」

 よかった、と付け加えてメイも自分のコーヒーをすすっている。

 僕は何かを忘れてしまっている気がした。昨日の残りのコーヒーとメイは言っていたが。

 それでも美味いコーヒーを飲んでいると、そんな忘れた事なんてどうでもよくなっていた。僕はコーヒーを口にしながら、ジュンとの距離が少し縮まった気がして、頬が緩んでいた。

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