『現在』
「ゴハンできたよぉ」
メイの声が大きく響き、続いてジュンの部屋のドアが開く音、そして閉まる音。僕の部屋にも伝わってくる。
あれからずっと窓の外を見ているだけだった。メイの声が合図となり、スローモーションでクスリに手を伸ばす。残された家族3人の
奥歯で柔らかく潰れたミルキーピンク。
妻が自殺したキッチンに今夜は美味しそうなハンバーグの匂いがしていた。メイが
「ほら、今夜はジュンの大好きなハンバーグだぞ」
メイは自分の事のように嬉しそうにしながらジュンの前に皿を置いた。とても乾いた軽い音が一つ、テーブルを鳴らす。メイがまだ幼かった頃、熊の
僕は涙を
その時、ジュンがハンバーグを口にした。一人静かに食事を始めたジュン。テーブルに仕掛けられたカラクリが作動したような、
キッチンはジュンにとって残酷な記憶がこびり付いた
ただそれ以上にメイは、この
本当はキッチンでミキの自殺なんて無かったのかもしれない。
いや、僕はミキなんて女性とは結婚すらしていないのかもしれない。
実は目の前にいるメイが僕の本当の妻で、ジュンは僕とメイとの間に生まれた子供なのかもしれない。
······僕は何てバカな事を考えているのだろうか。ミルキーピンクの効きが悪いのか、今日飲んだクスリのどれかが強く効いているのか。昼間の
冷静を取り戻してキッチンを見渡せば、明るく響くメイの
「パパもちゃんと食べなきゃだよ」
口調は叱り気味、けれどワザと大人のフリをしている感じはない。メイの声と妻の声とが重なり思わず凝視したが、メイは自分の椅子に座る所だった。
ハンバーグにかけられたケチャップは、食欲を失う程の
その夜、僕はメイを部屋に呼び一つの相談を持ち掛けた。
「今週の金曜から月曜くらいまで、3人で別荘に行かないか」
やはり
「あぁ、今更かもだけど気分転換だジュンの為にも、勿論メイの為にもだ」
何ならこのまま別荘に住もうじゃないか、と言いかけたのを
「でも連休とかでもないのに······マンションには戻って来るんだよね」
どうやら賢いメイは、そんな僕の考えを読んでいるみたいだ。少し疑り深く心配げな顔をしている。
「あぁ、戻ってくるとも。パパは少しでも長く家族3人の時間が欲しいだけだし」
上手に噓と本音を混ぜた答え方をする。
「学校はどうすんの?」
「そうだよなぁ、こんな休み方ってやっぱりマズいのかなぁ」
「ジュンの学校の方にはメイから聞いてみるよ。中学校は言い方かな、どうにかなると思う」
どうやらメイに至っては学校を休む事に
「でも月曜日には帰ってくるんだよね」
とは言ったものの具体的な決定にはしていない。今の時点ならもう少し伸びてもおかしくはないな、と思ってもいる。
「そうだな、そのくらいには帰るつもりだ。別荘で久し振りに絵も描きたいしな」
「そうじゃん、描きかけの絵があったんだ」
メイの口調には、うっかり忘れてました、的な雰囲気が強く感じられたが、僕には何の事やら全く解らない。
「メイ、描きかけの絵ってなんだ」
そうだ、中途半端で終わらせている絵は、今は一枚も無い。
「描きかけの絵は描きかけの絵じゃん」
当然の質問をしないで、みたいな顔をしている。
「そんなのあったか」
「うん、あった」
メイは当たり前感たっぷりに断言してみせたが、僕には心当たりがない。何もピンときていない僕を見て、
「もう、自分の絵だよっ。パパ、クスリに頼り過ぎっ」
メイがそこまで強く言うんだからきっとあるんだろうけど、じゃあ何を描いてたんだろうか。納得を見せない僕にメイは少し
「別荘にいけば判る事だから今は無理しない方がいいよ」
僕の体調を
「で、別荘では何をするの?メイとジュンは?」
メイにしては珍しく歯切れが悪い。おそらくは、どうせ別荘に行ってもメイがジュンの面倒みたりするんでしょ、と考えているのだろう。少し不満げなニュアンスを
「別にメイは何もしなくていい。食事だってパパが作るさ。でも久し振りだから文句は言うなよ。ジュンだってパパが見るよ。キャッチボールでもしようかと思っている。メイ、パパは考えたんだ。今のままじゃダメだ。少しずつでも変わらなきゃいけない。ジュンだってきっと方法を探している最中なんだ。別荘ではメイもジュンもパパに任せてノンビリと楽しめばそれでいい」
ベラベラと
「ホントに?」
てっきり喜んでいると思っていたメイの態度は、いつの間にか
「······ネェ······ホントに······
あからさまに部屋全体の空気が変化した。これは
そして、その
抵抗するメイを
その時、メイは僕に向かって言った。
「ねぇ、本当に楽しんでいいの?」
一瞬にして我に返る僕。メイは僕の前で
「メイも
僕が酷い妄想に
僕は一体、何を考えてあんな妄想を······そんなんじゃない。アレを妄想なんかで片付けてしまうには、あまりにも
メイの息の臭いや体臭も、メイの熱かった体温も、メイの体液の酸味も、メイの柔らかい乳房も固く
そんなバカな事があるかっ。
だったら目の前のメイはどうなんだ。あんな
「ノンビリしたければすればいい。今夜はもう寝なさい」
はぁい、と気の抜けた返事を残して部屋を出ていくメイ。ホッ、と息が
翌日の夜遅くにメイから、ジュンと自分が学校を休む許可を得た、という
「
出来ればメイをモデルにしたかったんだが
古びて見捨てられた
静物画の『止』と
しかし今、この問題だけはメイと真剣に
「ダメ、持っていき過ぎ。9割は置いてって」
メイがとんでもない無茶を言いだした。
「待ってくれメイ、9割を置いていけ?逆だろ?」
「だって火曜日には戻ってるんでしょ?だったら多いよね、これは」
やられた、メイは僕を
「まだメイもジュンも義務教育なんだから学生の本分を全うさせなきゃだよ」
正論過ぎて反論なんかできやしない。でもメイは、
「別荘に引っ越すなら手続きが先だよ。マンションとか学校とかね」
「パパに、メイはついてくから」
と言ってくれたが、その流れのまま、
「という訳だからクスリは没収ね」
僕が用意していたクスリの大部分は、こうして
「それにしてもこの量は普通に多過ぎだよ」
クスリを取り出しながら
それでもいよいよ明日からは3人だけでの別荘での生活が始まる。少しでも良い結果が出せればいいのだか心配は拭えない。大丈夫だろうか。
外は依然として
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