『経過』
息子のジュンの声をこの半年の間、妻が自殺した日から一度も聞いていない。僕とは
心配になってインターネットで調べてみたら、あまり聞き慣れないワードを見かけた。似たような症状の失語症が、
でも僕は、ミキが自殺の道連れにジュンの声を奪っていったようにしか思えなかった。妻の自殺は心中と言ってもよい。そんなミキの呪いからどうやって息子の声を取り戻せばよいのか、今はまだ何も判らないままだ。
そう言っている僕ですら、喋れなくはないが何もする気分になれないでいる。
こういう物理的な回避ができない
例えば、気持ちが落ち着かない時はレモン・イエローのカプセル。どうしても眠れない夜にはインディゴ・ブルー。現実を忘れたい場合はライト・グリーン。何もかも何一つとして考えたくなかったら
誰かが教えてくれた。心がダメージを受けると感情が
人に言わせれば弱い人間だとバカにするかもしれない。僕自身もここまで自分が
おそらく警告のつもりなのだろうが、
ふと
今、僕の中の唯一の安心材料、娘のメイが
学校がある日は毎朝、ジュンを小学校へと送り届ける。メイはその後、急いで中学校へと駆け足で登校している。「小学校と中学校が近くて助かったよ」いつだったかそんな事を話していた。帰りも同じく、友人との
マンションに戻ってからもメイは一人だけ忙しい。掃除や洗濯の合間を見つけながら自分の宿題を片付けつつ、少しでも時間が空けばジュンや僕に学校での出来事とか友人との
メイはそれでも
「何言ってんの?私のお弁当の残りだよ」
小さく
ミキが自殺して以降、メイはこんな生活を毎日続けていた。まだ14歳ぽっちの娘に
こうやってクスリに逃げて、メイに頼り、ジュンに何もしてやれない失格の父親でも、たった一つだけ守らねばならないものがある。どれだけ後ろ指を指されようとも、生き続ける、これだけには
もうこれ以上、子供達に悲しい思いをさせる訳にはいかなかった。
知り合いの不動産業者から紹介されたこのマンションも、暮らし始めてから12年が過ぎようとしている。家族が住む為の立地環境としては文句のないマンションだった。幼稚園や小中学校が近所にあり大型の商業施設が東西に一つずつあった。他に私鉄の駅や大規模病院や大手コンビニとか有名学習塾とかちょっとした公園も高速道路のインターも、適当な感じで程近い距離にあった。僕の住んでいる街はマンションが建築されたのと同じ頃に新しく計画され造成してできた
マンションの間取りの方も、適度な部屋数や全体の広さとかが、僕とミキが求めていた理想とピッタリの物件だった。しかも最上階、申し分が無い。ただ一つだけ、僕としては受け入れられないものがあった。窓の外に広がる景観、それである。
当時はまだ開発途中の街だったのも
景色を殺すから
「これから変わっていくのよっ」
ミキが振り向きながらそう言った時、表情は勝者の笑みを
しかし、これ程に
でも愛している相手だからこそ逆に、小学生の男の子がするようにからかいたくなったりもする。
「なぁミキ。僕は絵描きだ、画家なんだ。この窓から外を見てみなよ。こういう単調な景色ばかり見てると、画家としてのセンスみたいなのが狂ってしまうかも、とかは考えたりしないの?」
妻の横で僕の話を聞きながら、これぞ
「ねぇ、才能って窓からの景色一つで枯れちゃうもんなの?」
ミキの言葉は僕にではなく、横で存分に
「そ、そんな事ないですよっ」
ミキと結婚して
今まで住んでいた
マンションの契約を済ませ引っ越しを終わらせて、待望だった新しい暮らしが始まると、まるで約束されていたかのように僕の家族は充実に
世間の堅い雑誌が『アート界のホープ』などと僕の事を持てはやし始めると幸福は最早、生き物として増殖を繰り返しだした。個展を
その後であった、息子のジュンが家族に加わったのは。
晴れて『お姉ちゃん』の称号を与えられたメイは喜んでいたが、7歳の年齢差が開いてしまったのは大丈夫なのか、と心配もあった。けれど当のお姉ちゃんはそんな事は気にもせず、大喜びで弟を迎えた。ミキも幸せそうに幸福が
みたいだ、そう感じたのは今の僕はしこたまクスリを飲んでしまった所為で、現実世界から
遅れて聞こえてくるメイの声。
子供達が帰ってきたのだ。
もうそんな時刻になったのか。ミキのクスリは、いよいよ時間感覚すらも狂わせ始めた。大体、僕はクスリを飲んだのだろうか。飲んだとしても
「······あぁ、おかえりぃ」
上手に喋るのも困難だった。
「大丈夫?パパ」
メイが3人いるみたいに聞こえる。
「······あぁ······ジュンはどうしたぁ」
僕の問い掛けに少し悲しそうな声で、
「ん、もう部屋だよ。いつもと同じ」
心を離しながら僕に教えた。
「······何か······話したかぁ」
メイは静かに首を横に振った。
「······そう······かぁ······」
まだ僕は100万光年地帯から戻ってこれない。そんな遠くにいる所為で、
突然、メイがまるで何かから僕の身を
揺れる100万光年、ぐラグら。
メイの
背後から伝わってくるのは我が娘という
「パパも大丈夫?」
メイの言葉は
少し前まで本当に子供だった
けれどそのチグハグさだけがメイの子供らしさの唯一の
今もこうしてメイに余計な心配をさせている僕自身、
「······パパは······大丈夫だよ、ありがとな······それよりもメイは、もう少し······自分を大切にしなさい」
自分の感情を隠す言葉をどうにか口にして、メイに気持ちを向けた。まさか実の娘に女を感じているなんて、思うだけでも僕はどうかしている。所がメイは何を思ってなのか、
触れるメイの肌から伝わる体温の生々しい若さ。
彼女の
女である事をはっきり主張してくる
「ありがと、パパ」
メイの発した言葉に含有していたのは、純粋な子供らしい嬉しさよりも、女の、それも場末の
僕は回転椅子から勢いよく立ち上がり、無意識のうちにメイを自分から突き離した。何事か理解できずキョトンとしたままメイも立ち
あぁ、僕はどこまでも愚かで最低な父親だ。
例え一瞬でも思う事すら許されない父親失格の妄想だった。娘のメイを、一人の大人の女性として見てしまっただけではない。その先の、万が一にも有り得てはならない
僕はメイへの後悔でおかしくなりそうだったが、せめて愚かさ全てを悟られないよう、慌ててメイの頭をもう一度撫で直した。自分の狂気に手が
しかしメイは再び微笑みを浮かべてくれたので、僕の不安はボチボチではあったが収まっていった。だが、メイから
あぁ、ミキ、僕はクスリが飲みたいよ。娘を、メイを女として見ないようにできるクスリが飲みたいんだ······違う、そんなんじゃないっ。僕は何を考えているんだっ。言うまでもなくメイは僕とミキとの間に生まれた大切な子供じゃないか。クスリでどうにか忘れたいなんて根本がおかしな発想なんだ。
僕はちゃんと解っている。
そこまでまだ狂ってはいないんだ。
僕が
あの別荘が、自分の為だけに建てたのではない、と言い切ってしまうのは少し噓になる。
基本的に僕はマンションでの生活に、これと言った文句なんてなかった。だがどうしても、あの窓から眺める景観だけはやはり好きにはなれなかった。
「これから変わっていくのよっ」
僕はマンションの最上階からミキの予言が的中し次々と現実化していく様子を、感心しながら
所で、街にはこんな特性もある。忘却だ。
街の何かが出来上がる度に以前の景色とか気配が
「ここって前は何があったっけ?」
よくこんな話をする人がいるが、ノーヒントで思い出せる方が珍しい。
世の
街からは毎日、色が逃げてゆく。
だから僕のマンションから見えるこの景観も街によって色を奪われ、景色、という言葉が使えない。
「ねぇ、才能って窓からの景色一つで枯れちゃうもんなの?」
この言葉もまた僕にとっては暗示に近い予言となった。引っ越ししてから数年は順調だったんだけど、ジュンが生まれた頃から僕はなだらかにスランプへと
その頃はもう充分過ぎる程の
「そんなに無理して描かなくてもいいんだよ」
と
本当にその通りだった。僕は富も名声も幸福までも手に入れたってのに、どうしても絵を描きたくて、なのにどうしても描けなくて、だから独りで知らない異国に取り残されたみたいになって怖くて仕方がなかったんだ。
そんな僕を見ていたミキはよく、買い物に付き合え、と笑顔で命令してきた。少なくとも週に2回か3回、便利に変化を重ねる街のアチコチをセダンで走らされた。ある日、僕は運転しながら、
「こんなに毎回、何を買ってんだよ」
大した買い物もしないのに、と少し叱り口調でミキを責めたら、ドレッシングをかけないサラダのようにあっさりと、
「家族と一緒の時間」
白状しながら僕を
「安い買い物でしょ」
なんて
ミキにとっては今の暮しは幸福でお腹いっぱいだったんだと思う。なのに僕ときたら勝手に一人だけ、何か大切な物を落とした気分になっていたんだ。その焦りは衰える事なく、結局は別荘という形に具現化していった。
ミキの言うような安い買い物ではなかった。大切に残していた手持ちの絵を3枚も売って別荘は
「お金持ちみたい」
とピョンピョン嬉しがっていた。ジュンは別荘とは何なのかが判っていないみたいだったけど、メイが喜んでいるのを見たら一緒に騒ぎ出したので、やっぱりミキに怒られる
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