『経過』

 息子のジュンの声をこの半年の間、妻が自殺した日から一度も聞いていない。僕とは勿論もちろんしゃべろうともしなければ素振そぶりすらも見せないし、あんなに仲の良かった姉とも話そうともしない。この春に卒園し晴れて小学校へと入学したのに、小さな頃から一緒に遊んでいた友達とも話さなければ、担任の先生への挨拶や返事すらもできなくなっていた。かと言ってやるべき事を何もしない訳ではなく、学校での生活において目立った問題行動を起こしたりはしていないのだが、只管ひたすらに黙ったままで授業を受けていたらしい。姉がジュンの担任からそんな報告を受けた、と僕に相談してきたのは入学して間もなくだった。

 心因性失声症しんいんせいしっせいしょう

 心配になってインターネットで調べてみたら、あまり聞き慣れないワードを見かけた。似たような症状の失語症が、脳梗塞のうこうそく脳内出血のうないしゅっけつなどの脳血管障害のうけっかんしょうがいや、交通事故、転倒などによる脳外傷のうがいしょうによって、大脳だいのうの言語をつかさどる部位が損傷そんしょうをした為に起こる発音障害なのに対し、心因性失声症は心理的ストレスによるダメージや、心理的な葛藤かっとうなどによって突然声がでなくなる状態の事だと書いてあった。心因性失声症には色々な症状があって、声が出てもかすれ声やしわがれた声になり周囲の人が聞き取りづらくなり、仕事や日常の会話に支障をきたすのもあるというのだが、ジュンのようにまったく喋らないケースもあると記してあった。

 でも僕は、ミキが自殺の道連れにジュンの声を奪っていったようにしか思えなかった。妻の自殺は心中と言ってもよい。そんなミキの呪いからどうやって息子の声を取り戻せばよいのか、今はまだ何も判らないままだ。


 そう言っている僕ですら、喋れなくはないが何もする気分になれないでいる。なまけているのでは決してない。回りくどく弁解するなら、ただただ永遠に切れない剃刀かみそりでゆっくりと裂かれるそんな精神の真っ黒な血の海の苦痛、を体感させられる現実から逃げ続けているだけだ。

 こういう物理的な回避ができない事象じしょうから逃げるには、実は簡単な方法が存在する。妻の死があまりにも突然だった所為でメンタルクリニックの諸々もろもろのクスリが、冗談みたいにあふれ返るくらい残っていた。だから僕はごく自然に、クスリに頼った。妻のクスリに頼るという罪悪感よりも、妻と同じように自殺の道を辿たどるのではないか、みたいな恐怖な方が強かったが、そんな恐怖はもう過去の話になっている。今ではもう、ひと目見ただけでどんな効果のあるクスリなのかを覚えてしまっていた。

 例えば、気持ちが落ち着かない時はレモン・イエローのカプセル。どうしても眠れない夜にはインディゴ・ブルー。現実を忘れたい場合はライト・グリーン。何もかも何一つとして考えたくなかったら緋色ひいろの錠剤。急いでワイン・レッドを服用する時は、子供達を残してでも死んでしまいたいと思い始めたら、という具合にだ。

 誰かが教えてくれた。心がダメージを受けると感情がうみになる、と。だから全ての感情が穴だらけになって傷口が化膿した僕にとって、心の膿をことごとおさえてくれるミキのクスリには、驚きと感謝しかなかった。反面、一度クスリに頼ると自力で苦痛を乗り越えようとは考えもしなくなり、後はズルズルと今日に至るまで大量の『妻の遺産』を飲み続けた。ジュンとは違う形だけど、これもきっとミキの呪いなんだ、と思っている。

 人に言わせれば弱い人間だとバカにするかもしれない。僕自身もここまで自分がもろいとは考えもしなかった。妻の死によって無意識下に隠していた脆弱ぜいじゃくな性格が、突如とつじょとしてニキビのように露出したのかもしれない。

 おそらく警告のつもりなのだろうが、凶々まがまがしいビタミンカラーを使用しているクスリを口に含む度に、まるでミキのからだの一部を喰らっている錯覚すらしてしまう。でも、こうした感覚は今に始まったものではない。なのに今もなお、クスリを止めるのはやはり難しい。

 ふとひらめいた。『つま』と『どく』は字が似ている。


 今、僕の中の唯一の安心材料、娘のメイが健気けなげでいてくれる事だろう。妻が自殺してからは、僕とジュンの面倒はほとんどメイが見ているようなもんだ。ことほか、ジュンを気にかけて見てくれている。

 学校がある日は毎朝、ジュンを小学校へと送り届ける。メイはその後、急いで中学校へと駆け足で登校している。「小学校と中学校が近くて助かったよ」いつだったかそんな事を話していた。帰りも同じく、友人との談笑だんしょうもそこそこにメイはジュンを待たせている小学校へと向かい、手をつないで一緒に下校する。

 マンションに戻ってからもメイは一人だけ忙しい。掃除や洗濯の合間を見つけながら自分の宿題を片付けつつ、少しでも時間が空けばジュンや僕に学校での出来事とか友人との他愛たあいもない会話なんかを話してきた。以前のにぎやかな生活に少しでも近付けようとしているみたいだった。ジュンはかくとして僕ぐらいは上手に返事をしてやるべきなんだろうけど、その簡単な事すらクスリというのは許してくれない。最近はクスリを飲んでなくても対応に億劫おっくうさを感じるようになり始めている。

 メイはそれでもくじけやしない。文句など口にもせず、孤軍奮闘こぐんふんとうしながら食事の準備までしている。平日の忙しい朝でも僕の分の朝食と昼食まで用意してから学校へと向かう。

「何言ってんの?私のお弁当の残りだよ」

 小さく曖昧あいまい微笑ほほえむとそのままジュンの手を引き玄関を出るメイが、実はわざと多く作っているのも僕はっくに気付いている。

 ミキが自殺して以降、メイはこんな生活を毎日続けていた。まだ14歳ぽっちの娘に家政かせいほとんどをになわしてしまっているのが現実だ。だがその様子はまるで僕の妻のようであり、ジュンの母親のようであった。違和感がまったくないとは言えないが、それでも僕はこのままでもいいと思ってしまっている。クスリ無しでは妻のいない世界を生きられない、情けない僕だけの所為である。

 こうやってクスリに逃げて、メイに頼り、ジュンに何もしてやれない失格の父親でも、たった一つだけ守らねばならないものがある。どれだけ後ろ指を指されようとも、生き続ける、これだけにはでも喰らいつかなければならない。もし僕が、妻を亡くした悲しさから自殺をしようものなら、残された子供達は一体何をよすがに生きてゆけばよいのか。

 もうこれ以上、子供達に悲しい思いをさせる訳にはいかなかった。


 知り合いの不動産業者から紹介されたこのマンションも、暮らし始めてから12年が過ぎようとしている。家族が住む為の立地環境としては文句のないマンションだった。幼稚園や小中学校が近所にあり大型の商業施設が東西に一つずつあった。他に私鉄の駅や大規模病院や大手コンビニとか有名学習塾とかちょっとした公園も高速道路のインターも、適当な感じで程近い距離にあった。僕の住んでいる街はマンションが建築されたのと同じ頃に新しく計画され造成してできた衛星都市えいせいとしだった。

 マンションの間取りの方も、適度な部屋数や全体の広さとかが、僕とミキが求めていた理想とピッタリの物件だった。しかも最上階、申し分が無い。ただ一つだけ、僕としては受け入れられないものがあった。窓の外に広がる景観、それである。

 当時はまだ開発途中の街だったのも相俟あいまって、穿ほじくり返した土とコンクリートとアスファルトの色ぐらいしかない単色の景色が広がっていたからだ。

 景色を殺すから殺風景さっぷうけい、上手い日本語もあるもんだ。

 「これから変わっていくのよっ」

 ミキが振り向きながらそう言った時、表情は勝者の笑みをたたえていた。きっと心からこのマンションを気に入っているに違いない。今すぐにでもここに住みたい、放っておいたらそんな我儘わがままが飛び出しそうな勢いだった。たとえ今からどれだけマンションの悪口を並べても、彼女は決してひるんだりはしない。こんな時の僕はおおむね敗者側に立たされるのがもっぱらだ。

 しかし、これ程にはしゃいでいるミキを最近は見た事がなかった。それほど普段の生活の中では我儘なんて口にした事がない。僕は我儘なミキも含めて愛しているというのに。

 でも愛している相手だからこそ逆に、小学生の男の子がするようにからかいたくなったりもする。無謀むぼうではあったが僕はミキに反論をこころみてしまった。

 「なぁミキ。僕は絵描きだ、画家なんだ。この窓から外を見てみなよ。こういう単調な景色ばかり見てると、画家としてのセンスみたいなのが狂ってしまうかも、とかは考えたりしないの?」

 妻の横で僕の話を聞きながら、これぞ苦笑にがわらい、を披露している不動産屋をよそに、僕は自分の失敗があからさまだったのを後悔していた。行き過ぎた真面目な態度は演技っぽさを強調してしまい、きっとミキには噓が筒抜つつぬけだ。思わずお手上げムードを顔に出したのを、今の彼女が見逃すはずがない。ミキはいつも僕の事を最初から察知していた。僕は彼女の事を妖怪のたぐいと思ってるんだけど、本人には内緒にしている。

「ねぇ、才能って窓からの景色一つで枯れちゃうもんなの?」

 ミキの言葉は僕にではなく、横で存分に黄昏たそがれていた不動産屋に向けてであった。

「そ、そんな事ないですよっ」

 たちまち息を吹き返した不動産屋はミキの華麗かれいなトスを、でかした、言わんばかり僕へとスパイクした。露骨ろこつなまでの営業スマイルは喜びと下品さを紙一重に感じさせる。真横でりを見ていた僕も降参の意味を含めて微笑んだ。釣られて不動産屋も笑っている。僕は不動産屋に勘違いして欲しくはなかった。別にオマエにびて笑ったんじゃない。純粋に、やっぱりミキには敵わないな、と感心していただけなんだ。


 ミキと結婚してしばらくしてからメイを授かると、それまで道端の標識程度にしか興味を持たれていなかった僕の描いた絵を、どこぞらの好事家こうずかが気に入ってくれたようで、絵を描く事だけが好きだった僕にとって、そこからたまらない生活が待っていた。

 今まで住んでいたつつましい借家から、随分と豪勢ごうせいで気取った高級マンションに移ろうかと決めたのは、地方育ちのミキが以前からあこがれていた都会生活をかなえてやりたかったからだ。今日まで竹みたいなしなやかさで家庭を守り続けてくれたミキへの、深い感謝を形にしたかったのと、ミキと同じくらい、僕へこぼれ落ちるくらいの幸福を与えてくれた娘、メイへの2歳の誕生日プレゼントでもあった。娘はこの時、僕達のそんな幸せな気分を知る由もなく、ミキに抱っこされたまま眠っていた。

 マンションの契約を済ませ引っ越しを終わらせて、待望だった新しい暮らしが始まると、まるで約束されていたかのように僕の家族は充実にあふれていった。娘はスクスクと美しく育ち、妻は変わらない愛情を家族に与えてくれた。勿論もちろん、僕にとってもミキやメイは何にもえがたい人生よりも大切な家族。妻と娘が幸せを感じれば、僕自身も幸せになり、幸福は永久機関のようにローテーションしていた。

 世間の堅い雑誌が『アート界のホープ』などと僕の事を持てはやし始めると幸福は最早、生き物として増殖を繰り返しだした。個展をもよおせば人々が押し寄せ、僕の絵画はまたたく間に売れてゆく。海外の投資家連中までもが僕の作品に注目をし始めてようやく、自信という形のないモノまで手に入れた。

 その後であった、息子のジュンが家族に加わったのは。

 晴れて『お姉ちゃん』の称号を与えられたメイは喜んでいたが、7歳の年齢差が開いてしまったのは大丈夫なのか、と心配もあった。けれど当のお姉ちゃんはそんな事は気にもせず、大喜びで弟を迎えた。ミキも幸せそうに幸福があふれた笑顔をしていた。ジュンという小さな王様の登場で何となしに憧れもしていたドラマや小説なんかでよくある、絵に書いたような幸せな家庭、というフィクションまで現実にできた事を悟った。ベビーベッドに転がっている小振りの王様がメイが話し掛けるたびに、コロコロとよく笑う王様だと判明したのも同じ頃だったと思う。

 隣県りんけんにある静かな湖畔こはん別荘兼べっそうけんアトリエを建てたのは、それから暫くしてからの事だった。「パパ、ただいま」

 墨色すみいろ花腐はなくたしがまた、窓ガラスを濡らしている。僕は回転椅子かいてんいす腰掛こしかけたまま、今日もこの穢らしい雨を眺めていただけだった。そんな僕にメイが後ろから声を掛けてきたみたいだ。

 みたいだ、そう感じたのは今の僕はしこたまクスリを飲んでしまった所為で、現実世界からおよそ100万光年くらい離れたどこでもない場所で漂っていた。だから進行形で起こっている出来事を認識するまでタイムラグがある。高次元こうじげん崇高すうこうな空間に僕は今、いる。

 遅れて聞こえてくるメイの声。何故なぜなのかその中に僕は優しさらしきモノを感じてならなかった。刺激を与えぬように自分の所まで手を引いてくれる、そんな感情の匂いがした。メイは後ろから私の右肩に自分の左手を綿菓子わたがしみたいに柔らかく乗せると、横からのぞむように僕を見てきた。まだクスリがいている僕には、覗いてくるメイの表情が何なのかをさだめるのが難しい。福笑いの顔みたく、心配する顔にも嬉しそうな顔にも怒っている顔にも泣いている顔にもなる。骰子さいころは見せる面を転がる事で変え続ける。メイも骰子みたいだった。そして僕は今になってやっと大切な事実を認識できた。

 子供達が帰ってきたのだ。

 もうそんな時刻になったのか。ミキのクスリは、いよいよ時間感覚すらも狂わせ始めた。大体、僕はクスリを飲んだのだろうか。飲んだとしても何時頃いつごろなんだろうか。そもそも、僕の飲んだのはクスリだったのだろうか。でも一番は、どれだけの量を服用したらこんなにも前後不覚におちいるのか、だった。思えば、今日が何日なのかもよく判らない。絶大なクスリの破壊力、ぼやける視界にクラクラしながらそばにいるメイにどうにか言葉を掛けた。

「······あぁ、おかえりぃ」

 上手に喋るのも困難だった。

「大丈夫?パパ」

 メイが3人いるみたいに聞こえる。

「······あぁ······ジュンはどうしたぁ」

 僕の問い掛けに少し悲しそうな声で、

「ん、もう部屋だよ。いつもと同じ」

 心を離しながら僕に教えた。

「······何か······話したかぁ」

 メイは静かに首を横に振った。

「······そう······かぁ······」

 まだ僕は100万光年地帯から戻ってこれない。そんな遠くにいる所為で、一番傍そばにいるメイよりも先にジュンの方を心配してしまった。メイの性格を考えたらいくらお姉ちゃんでも、私の方を先にあんじて、と思う。後ろから悲しげな表情で僕を見ている気がする。だけど僕は、そんなメイに向けても何も言えなくなっていた。隙間すきまなく全身を支配するクスリの力に負けて、また同じように窓際まどぎわの回転椅子に座ったまま外の卯の花腐しを眺めてしまう。僕諸共もろとも、腐らせてくれる生温なまぬるい雨が見たいんだ。

 突然、メイがまるで何かから僕の身をまもるように、後ろから背中にしがみついてきた。

 きしむ回転椅子、ギしぎシ。

 揺れる100万光年、ぐラグら。

 メイの突飛とっぴな行動に思わず声もでない僕。ただ、それは驚きではなく別の下卑げびた俗悪が正体なのを、僕自身はこの数ヶ月の中でっくに認知していた。

 背後から伝わってくるのは我が娘というえのない存在の温かみよりも、女独特のあやしい体温と息遣いきづかいだったからだ。

「パパも大丈夫?」

 メイの言葉は外連味けれんみなく心配するものだったのに、強くからみつく腕は僕の胸元をとらえ耳の近くでささやく声にはレモネードが混じったような匂いがする。


 少し前まで本当に子供だったはずのメイ。物腰ものごしや素振りの一つ一つが今はもう大人と何も変わらない。母親の自殺は強風となりメイから子供から成長する重要な過程を吹き飛ばした。そうする事によってメイは自分の内側を僕やジュンみたいな崩壊からまぬがれたんだろう。でも幼虫からさなぎを経て羽化うかする昆虫のように、メイは別物に変身した。大人へのステップを形としては強引かつ暴力的な手段で登ってしまったメイは、いがチグハグな上にどこか品性が欠けている。羽化するのはちょうだと思っていたのに出てきたのはだった、という話に似ている。

 けれどそのチグハグさだけがメイの子供らしさの唯一の残滓ざんしであり、彼女は既に大人びてしまっている。僕やジュンのように失ってではなく、女は自動的な脱皮を遂げて困難を乗り越えてゆくもんなんだ、と感心もさせられた。ミキにもメイと同じ強さがあったなら、と思ったりした事もあったような気がする。


 今もこうしてメイに余計な心配をさせている僕自身、不甲斐ふがいないとしか思えない。後ろからしがみついている娘の頭を心の中で詫びながら軽くでた。

「······パパは······大丈夫だよ、ありがとな······それよりもメイは、もう少し······自分を大切にしなさい」

 自分の感情を隠す言葉をどうにか口にして、メイに気持ちを向けた。まさか実の娘に女を感じているなんて、思うだけでも僕はどうかしている。所がメイは何を思ってなのか、からだをより隙間なく密着させてきた。

 触れるメイの肌から伝わる体温の生々しい若さ。

 彼女の首筋辺くびすじあたりからかすかにただよねばり気を持ったっぱい汗の臭い。

 女である事をはっきり主張してくる柔軟じゅうなん蠱惑的こわくてきな曲線。

「ありがと、パパ」

 メイの発した言葉に含有していたのは、純粋な子供らしい嬉しさよりも、女の、それも場末の淫婦いんぷのようなあなどれない気配しか感じられなかった。そしてこれは、僕の頭の中に不意を突いて現れた妄念もうねんがそうさせたのか。

 僕は回転椅子から勢いよく立ち上がり、無意識のうちにメイを自分から突き離した。何事か理解できずキョトンとしたままメイも立ちすくんでいた。

 あぁ、僕はどこまでも愚かで最低な父親だ。

 例え一瞬でも思う事すら許されない父親失格の妄想だった。娘のメイを、一人の大人の女性として見てしまっただけではない。その先の、万が一にも有り得てはならない鬼畜きちくごとき吐き気を催す猥褻な妄執もうしゅうが、まるで過去に体験したかのようにフラッシュバックしたのだ。もう、どうしようもなく情けなかった。妻を自殺で亡くして半年あまり、男寡婦おとこやもめで頭の中にまでうじいたんじゃなかろうか。それともコレもクスリの影響だと言うのだろうか。

 僕はメイへの後悔でおかしくなりそうだったが、せめて愚かさ全てを悟られないよう、慌ててメイの頭をもう一度撫で直した。自分の狂気に手がかすかに震えていたので露骨に不自然でしかなく、メイも不思議そうにコッチを見ている。僕だって、こんなやり方で誤魔化せるのか、と内心は穏やかではなかった。

 しかしメイは再び微笑みを浮かべてくれたので、僕の不安はボチボチではあったが収まっていった。だが、メイからほとばしる大人の女の雰囲気はこれからも加速するのは間違いない。当のメイは女というモノに無自覚で生活している。自分が男性から、子供ではなく女性として見られている事を殆ど理解していない。

 いずれは僕がそういったアレコレを教えたり注意したりしなきゃいけないんだけど、それも今ではない。僕の心には1㎜として余裕がないんだ。しかも今の僕の心境なんかじゃどんな言葉を用意しなくちゃいけないのかも、思い浮かびすらしない。そうだ妻なら、ミキなら、何と言うのだろうか。妻が生きていたなら······

 あぁ、ミキ、僕はクスリが飲みたいよ。娘を、メイを女として見ないようにできるクスリが飲みたいんだ······違う、そんなんじゃないっ。僕は何を考えているんだっ。言うまでもなくメイは僕とミキとの間に生まれた大切な子供じゃないか。クスリでどうにか忘れたいなんて根本がおかしな発想なんだ。

 僕はちゃんと解っている。

 そこまでまだ狂ってはいないんだ。


 僕が隣県りんけんに建てた別荘兼アトリエ。

 あの別荘が、自分の為だけに建てたのではない、と言い切ってしまうのは少し噓になる。

 基本的に僕はマンションでの生活に、これと言った文句なんてなかった。だがどうしても、あの窓から眺める景観だけはやはり好きにはなれなかった。

「これから変わっていくのよっ」

 しくもマンションを購入した時の妻の台詞せりふは、予言にもなっていたな、と今頃になって感心する。穿ほじくり返した土の上には似たり寄ったりの住宅が数多く並び、コンクリートが使われる場所のほとんどが巨大なビルディングへ変身していった。アスファルトの線は太く長く東西南北にスクスクと育ち、そこから細く枝分かれしてゆくと、また多くの人の役に立つ新たな道へつながってゆく。建物は骨、道は血管、だとしたら我々はさながら血液か。急成長する街の姿は荒々しさや衝動までをも巻き込んで怪獣を連想させる。

 僕はマンションの最上階からミキの予言が的中し次々と現実化していく様子を、感心しながらつぶさに観察していた。街というのはてっきり人間が造るものだとばかり思っていたが、窓から見下ろしていると間違いというのに気付く。街とは何処どこかからやってくるのだ。何かの工事が始まったと思ったら、あの東西南北のアスファルトを踏みしだきながらゾクゾクと街はやってくる。勿論もちろん、勝手に歩いて来るのではなくトラックやトレーラー車にせられてやってくるのだが、そうやって街になる部品がしこたま一ヶ所に集められ人間がこぞって組み立てる。僕は色々な部品を街の一部としてパズルのピースみたいにくっつけていく様子を最上階から眺めていたのだが、この高さからでは肝心かんじんの人間の活躍は殆ど目撃できない。となると、パズルのピースは自動的に組み上がっていくような錯覚をしてしまう。昨日までは何もなかった場所に、今日はもう新しい機能の街が拡張かくちょうを済ませているのだ。街は秘密のうち補完ほかんを繰り返して成長をしていく。っておいても勝手に育つ雑草と大して区別がない。

 所で、街にはこんな特性もある。忘却だ。

 街の何かが出来上がる度に以前の景色とか気配が刷新さっしんされる。写真や動画なんかには残りもするが、二次元の媒体ばいたい二進法にしんほうのデジタルでは届かない部分が、街の忘却にはある。新参者しんざんものであるはずの、街の一部、の登場は、短時間でそれまでの記憶を消失させる。結果、一週間もしないで新参者はすっかり周囲に溶け込み、一ヶ月もすれば堂々とひげたくわり返って威張いばり散らす街の一部になっている。

 「ここって前は何があったっけ?」

 よくこんな話をする人がいるが、ノーヒントで思い出せる方が珍しい。

 世の蒼生そうせいは街の発展を喜ばしく思うのだろうけど、僕にとってはさかえれば栄えるほどデメリットしかなかった。だってこんなに多くの人が集まっても、こんなに高いビルが立ち並んでも、結局は大切なモノから引き算しているだけじゃないか。

 街からは毎日、色が逃げてゆく。

 だから僕のマンションから見えるこの景観も街によって色を奪われ、景色、という言葉が使えない。

「ねぇ、才能って窓からの景色一つで枯れちゃうもんなの?」

 この言葉もまた僕にとっては暗示に近い予言となった。引っ越ししてから数年は順調だったんだけど、ジュンが生まれた頃から僕はなだらかにスランプへとおちいってしまった。思った絵を思ったように描けなくなっていた。キャンバスの前に座り続けるだけの時間が多くなったのを、自分では解決できないと思い始めてしまった。

 その頃はもう充分過ぎる程のたくわえもあったし、家族の誰もが幸せだった筈だ。ミキも、

「そんなに無理して描かなくてもいいんだよ」

 となぐさめてくれた。

 本当にその通りだった。僕は富も名声も幸福までも手に入れたってのに、どうしても絵を描きたくて、なのにどうしても描けなくて、だから独りで知らない異国に取り残されたみたいになって怖くて仕方がなかったんだ。

 そんな僕を見ていたミキはよく、買い物に付き合え、と笑顔で命令してきた。少なくとも週に2回か3回、便利に変化を重ねる街のアチコチをセダンで走らされた。ある日、僕は運転しながら、

「こんなに毎回、何を買ってんだよ」

 大した買い物もしないのに、と少し叱り口調でミキを責めたら、ドレッシングをかけないサラダのようにあっさりと、

「家族と一緒の時間」

 白状しながら僕をのぞき込み、

「安い買い物でしょ」

 なんて屈託くったくなく笑ってみせた。

 ミキにとっては今の暮しは幸福でお腹いっぱいだったんだと思う。なのに僕ときたら勝手に一人だけ、何か大切な物を落とした気分になっていたんだ。その焦りは衰える事なく、結局は別荘という形に具現化していった。

 ミキの言うような安い買い物ではなかった。大切に残していた手持ちの絵を3枚も売って別荘はようやく完成する。ミキは最後の最後まで、贅沢ぜいたくだ、と反対していたけど、完成した別荘を見たら満更まんざらでもない様子だった。メイは、

「お金持ちみたい」

 とピョンピョン嬉しがっていた。ジュンは別荘とは何なのかが判っていないみたいだったけど、メイが喜んでいるのを見たら一緒に騒ぎ出したので、やっぱりミキに怒られる羽目はめに合っていた。男の子はヤンチャで大変なのよ、この頃の妻はよくジュンを見ながらぼやきつつも子育てを楽しんでいたみたいだった。

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