第4話 冒瀆 『結果』

 花腐はなくたしを見ている。

 陰暦いんれきの4月、今では5月初旬の長雨を指してそう呼ぶらしい。あの卯の花を腐らせる雨。初夏には似つかわしくない、雪のように寒々しく咲く卯の花を、茶色に腐らせる雨だなんて。恐ろしい。

 窓ガラスにはドロリとした溝水どぶみずのように黒く汚れた雨粒がスローモーション、下へと引っ張られきたなく糸を引いている。

 もうずっと、いつからか判らないずっと、そう、ずっと、ずっと、ずっと、それを眺めている。

 マンションの部屋から見える全ての景色は、忘れてしまいそうなくらい、もうずっと前から、モノクロにしか映らない。


 初めてこの窓から見た風景を何故か思い出した。妻が一緒だった。今はもういない。

 自殺した。


 出先から娘と一緒に帰ってくると、妻はキッチンの天井からぶら下がった姿で僕らを出迎えてくれた。不自然にびて奇妙な方向に曲がった首を今も忘れる事ができない。冷え症が悩みだった妻が喜んでいた床暖房が、妻かられ出た尿を無機質に湯気ゆげへと変えていた。キッチンは田舎の便所のにおいがした。

 その中でたった一人、妻の死体の下で、息子は僕達が帰ってくるのを、待っていた。


 妻が······ミキが自殺した理由を考えた。

 彼女はいつの頃からか、とても疲れ始めていた。その疲れが原因で病院に通っていたのも、僕と娘は知っていた。駅近くの新しいビルに小綺麗なメンタルクリニックが1軒ある。しかしメンタルクリニックとは言うものの、少ない診療時間で大量のクスリを処方しょほうするだけの病院だった。こう言っちゃなんだが、医者と患者にとってはウィンウィンな関係のコンビニエンスなクリニックとの評判も流れていた。勿論もちろん、良い意味ではない。

 最近の精神病院はメンタルなんて横文字の氾濫はんらんのお陰か、二の足を踏む薄暗さがない。どちらかと言えばオシャレなアイコン感覚が、患者でもない患者をジャンジャン増やして、商売繁盛の熊手くまでを年々大きくしているんじゃなかろうか。

 そんな病院から、ミキは数種類のクスリを処方されていた。クスリの量も尋常ではなかった。しかしそれだけの種類と量を服用しなければ、ミキは僕ら家族が知っているミキとしての存在が不可能になっていた。クスリを飲むのを止めると、アッという間に家族の知らない妻に、母に、ミキは変わってしまう。だからあんなにも変わり果ててしまった彼女に、どんな形で手を差し伸べてよいのかもわからず、ただただクスリを飲み続けるミキを眺めるしかなかった。

「妻は狂ったのではない。少しの、ほんの少しの疲れが抜けないだけなんだ」

 そうやって周囲に説明する事こそが愛情だ、と信じて疑わず、妻の心の中で起こっていた全てから目をけた。これが正しい選択だ、僕は心を心でだましていた。

 だからミキが自殺した後ですら、あのクリニックが、あのクスリが、あの抜けない疲れが、と妻を殺した原因をアチコチにつけ回して、おのれに舞い降りた悲劇から逃避とうひし続けた。そんな事をしていた所為せいで、地獄で燃えるクソよりも最悪な現実世界ヘいまだに自分の気持ちを向けられないでいる。


 そして、自殺から半年あまりが過ぎた。

 水の流れがよどむと立ち所ににごってしまうのは自然の摂理せつりなのだろう。何かが止まってしまって何もかもが灰色にしか感じない。

 ざっとこんなもんだろうか、モノクロにしか映らない原因の言い訳は。

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