8-6 ~ カレーライス ~
「っと、おわぁっ?」
突如としてテーブルから浮き上がってきたカレーライスを見た俺が、そんな情けない声を上げたのも仕方のないことだろう。
何しろ現実では全くあり得ない現象だったのだ。
勿論、今俺がこうして座っている食堂自体がVR……仮想現実によるモノであり、このカレーの匂いも椅子とテーブルの触感も、窓から見える月明かりも、そして微かに空調が動いているっぽい空気の感触までもが現実ではないってことは、頭では理解しているのだが。
「ああ、済みません。
もしかして、
そんな俺の驚きに気付いたらしきユーミカさん(13歳・仮)がそう訊ねて来たお陰で、この「出来立ての食事が転送される現象」は流石に現実ではあり得ないことだと理解できた。
ちなみにそんな疑問を抱いたお陰ですぐさま俺の脳裏に知識が埋め込まれたのだが……現実では基本的に全自動の給仕用ロボットが持ってくる、らしい。
何故、「基本的に」という注釈が付けたのかと言うと、ロボット嫌い……と言うより女性に傅かれるのを好む男性が、給仕係を傍に置くこともある、という知識が
俺が検索すらしていないのにそんな知識が浮かんで来たのは、俺がそういう奉仕を好むかどうかチェックをし……上手くいけば
本当にこの世界の男性は天然記念物並みの扱いを受けていて、男性はなるべく多くの胤をバラまくよう社会全体で誘導されている節がある。
「いや、単に驚いただけだ」
「……済みません、市長がVRに不慣れなことを失念しておりました。
慣れてくると、給仕の待ち時間が無駄という声が大きくなるとのことで……」
彼女のそんな弁明は、聞けば確かに納得のできるものだった。
確かに人間は「待つ」という時間が苦手で、満席のレストランで無為に10分間を待つよりも、20分遠くのレストランへ向かうのを選択しがちな生き物である。
俺の生きていた21世紀初頭ですらそのザマなのだから、600年もの歳月が経過したこの未来社会では、幾らデータでしかないとは言え、調理時間どころかキッチンから客席までの運搬時間すら短縮されるようサービスが進化したのはある意味で必然なのかもしれない。
「取り合えず、いただきますか」
「……ええと、はい?」
とは言え、久々にまともな料理が目の前に出てきているというのに、いつまでもお預けを食らい続けるのに耐えらえるほど俺は我慢強くない。
すぐさまいつもの癖で両手を合わせてそう呟いたのだが、俺の仕草を見たユーミカさんは首を傾げていて……真っ当な食事すらも廃れたこの600年未来の世界では、こんな風習なんてとっくに廃れてしまっているのかもしれない。
尤も、そんな疑問もカレーライスの暴力的な匂いの前ではコンマ数秒と経たずに消え去ってしまい……俺は近くに置かれていたスプーンを手に取ると、湯気の立つカレーとライスとを自分の中のベストと思われる割合で掬い、口の中へと運ぶ。
──暴力的だろ、これはっ!
口にした瞬間、カレーの尖ったスパイスの香りが鼻を突き抜け、直後に舌を軽く刺すような辛みが口内に広がっていく。
だが、このカレーの素晴らしいところは炊き立てご飯のふくよかな香りと微かな甘みとが後からその辛さを洗い流してくれ、辛さが尾を引かずカレーの香りだけを愉しめる、まさに逸品というモノだった。
しかも、俺の記憶よりも遥かにカレーの香りが複雑怪奇になっているようで……だと言うのに辛さが強烈になっている訳でもないため、ご飯とカレーとの混ざり合ったハーモニーは、俺が過去味わったカレーよりも遥かに美味しいと断言できる。
品種改良が進んだのか記憶よりも随分と甘くなったニンジンはカレールーの辛みに混じってもなお、お互いの味を際立たせていたし、ジャガイモに至ってはある程度の食感を残しつつも味を染み込ませていて……その一口は、まさに究極のカレーライスとでも言うべき代物だった。
勿論、ここまで美味しく感じるのは暫く真っ当な食事を……こういう複雑な味をした食事を食べてない所為もあるのだろう。
「ああ、相変わらず。
このチープで単調な代り映えのない味が、このカレーライスの特長なのです」
事実、俺と同じものを食べている筈のユーミカさんはそれほど味に感動した様子もなく……いや、それどころか「チープで単調な味」と言い切ったし、俺が口にしたカレーライスも二口目からは、先ほど絶賛したほどの料理ではなくなっていたのだ。
それでも、カレーライスなんてのは久々に食べるなら、専門店でたまに出て来る際立って美味しい逸品よりも、家庭でいつも口にしている食べ慣れた味の方が美味しく感じるものである。
この眼前のカレーライスは『未来の』という前提があるものの、まさに「それなりに美味しくできた家庭料理」であり……勿論、記憶の片隅にすら存在していない我が家の味とは恐らく絶望的に違うのだろうが……それでもどこかの家庭の味と言った丸く無難な味だったのだ。
そして俺は、このカレーライスが家庭の味だったからこそ、カレーを口に運びながら、ただ涙を浮かべ、「うめ……うめ……」と言葉にならない声を発するくらいしかリアクションが出来なかったのだ。
「お、お替りもありますよ?」
そんな俺の様子に驚いたのか、ユーミカさん(13歳・仮)は自分の食を進めるのも忘れ、おずおずとそう呟くばかりであり。
俺はカレーライスを完食するまで、一切他のリアクションが取れないという……そうして会話もろくないまま、訳の分からない二人の食事はあっさりと終わっていたのだった。
恐らくであるが、ユーミカさんとしてはこの異性とのVR体験……こっちで言うところのデートかもしれない催しは失敗だったようで、現実に戻った瞬間、彼女は何処となく落ち込んでいる様子を見せていた。
尤も……
──次は何を食おうかな?
──親子丼も良いし、オムライスもパスタも食べたい。
──いや、酒と共に居酒屋メニューなんてのも……
俺自身は、自分の欲望の儘、また彼女を誘うつもり満々だったのだが。
しかしながら、このVRによる『食事』というものに一つだけ欠陥があるとすれば……
「さっきまで満腹だったのに、腹が減ってるって違和感がヤバいな、コレ」
……そう。
VR空間から現実に引き戻され、床上5cmの仮想力場の上で目覚めた俺は、VR特有だと思われる壮絶な違和感に襲われていた。
さっきまでと肉体的皮膚的感覚が違い過ぎるから発生するもので……暖かい時期に真冬の映画なんかを没頭するほど見て、見終わった時に「寒くない」ことに驚く感覚に近いだろうか。
もしかしたら、五感が全く違う身体を操作した場合……眼前に良い見本があるのだが、ユーミカさん(13歳・仮)がユーミカさん(38歳)に戻ってしまった今なんかも、彼女の中では酷い混乱を招いていそうな気がする。
まぁ、この凄まじい違和感も車酔いと同じように、ある程度の場数を踏めばそれなりに慣れてしまう、とは思いたい。
「で、では、市長。
VRによる『食事』はお楽しみいただけ、ましたで、しょうか……」
「ああ、最高だ。
また美味いところを教えてくれ」
どんよりとした表情で38歳の警護官が告げた言葉に、満面の笑みで俺が言葉を返した……次の瞬間の彼女の顔は必見だろう。
デート失敗してこの世の終わりのような表情だった女性が、宝くじに当たったのを目の当たりにしたような信じられないという表情で首を左右に振り……直後、金メダルを取ったスポーツ選手のように涙を浮かべながら大きくガッツポーズを取ったのだ。
──そこまで喜ぶことか?
俺の中ではご飯の趣味の合いそうなゲーム友達、という程度の感覚だったのだが……まぁ、それは兎も角。
本当の問題は、ここからだった。
「……えっと。
アルノーも、楽しそうなところの案内を頼む」
「はい、市長。
個人的に一番お気に入りのコースを案内します」
……そう。
ユーミカさんとの仮想現実体験を楽しんでおいて、同じ警護官であるアルノーと遊ばない訳にもいかない訳で。
俺はあまり好きではないスポーツという苦行を仕事の延長でさせられる不条理に、表情には出すことなく内心で大きな溜息を吐き出したのだった。
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