4-6 ~ 退院 ~


 俺の退院手続きは事務手続きから支払いを含めて婚約者のリリス嬢が手続きを代行してくれたので、俺は指先一つ動かす必要もなく、ただ退院日を待つだけの置物と化していた。

 正直、記憶の片隅にあるクソ面倒くさい事務手続きを覚悟していたのだが……流石は優秀な未来の正妻ウィーフェというところだろう。


 ──完璧にヒモの発想だな。


 21世紀の感覚が残っている俺としては、非常に心苦しい立ち位置ではあるのが……まぁ、この時代はBQCO脳内量子通信器官で調べた限り、男性が労働を行うこと自体、推奨されてないと言うか半ば禁止されているので、と言っても過言ではないのだが……。


 ──しかし、俺が暮らしていた時代の、女性の働く権利云々って叫んでいたフェミニストたちがこの時代の様相を知ったなら……

 ──果たして何と言うんだろうな?


 そんなどうでも良いことを考えつつも最後に病室を振り返り、忘れ物どころか私物の一つもなかった事実に苦笑した俺は、そのまま自分の足で病室から出ると……一歩一歩を踏みしめながら廊下を歩き続ける。


「あの、あああなた、その、抗重力リニアカートもありますが……」


「……いや、歩くさ、これくらい」


 俺の隣の、付添いを買って出てくれたリリス嬢がそう尋ねてくるものの……俺としてはこの自分が数週間くらい寝泊まりした、だけどろくに出歩きもしなかったこの建物の中を自分の足で歩いてみたかったのだ。

 俺がそう呟いた途端、何かに納得したのか、未来の正妻ウィーフェが軽く頷いた後、彼女の身長が5cm程度ゆっくりと

 どうやらあのケニー議員と同じように抗重力ブーツとやらで少しだけ浮いていたらしく……この浮かんで滑っていくシステムこそが、この時代流行りの室内移動手段なのかもしれない。


 ──すげぇ。

 ──今更だけど、本当に、未来なんだな。


 尤も、俺自身としてはそんな未来の技術よりも、通路の窓に映し出されている周囲の景色にこそ意識を奪われていたのだが。

 ……そう。

 俺の認識が正しければ、俺が今いる場所は、海中都市『スペーメ』……あのケニー議員とやらが正妻ウィーフェとして建造した都市の中の筈であり、それは恐らく事実なのだろう。

 少なくとも俺が暮らしていた時代よりは未来であることは確実で……何しろ、俺が知っている都市というモノは、こんなに立体化はしていなかったし、する必要もなかったのだから。

 高層ビルがどうのこうのではなく、都市の構造そのものが立体化している……と言えば俺の驚きが伝わるだろうか?

 水圧に抵抗するための球形外殻を上手く利用するようになっているらしく、高層ビルの合間をリニア通路が抜けているその姿は、大昔のSFで見たような景色であり……そういう俺の知っている時代では『あり得ない景色』がこの海中都市では至る所に存在していた。

 何が一番凄いって、そんな海中都市であるにも関わらず、だろうか。

 BQCO脳内量子通信器官はその空を「球形外殻の内側に映し出された映像でしかない」と語ってくれているものの……映像の割には太陽光の眩しさも暖かさも、雲の動きも透明感のある空の碧さも、何もかもが凄まじく現実感を持っていて、それが俺を更に驚かせてくれる。

 虚空のど真ん中に金属製の外殻フレームが浮かんでいるのが見えなければ、ここが海中都市であることすら納得出来なかったことだろう。

 むしろ「此処が海中都市であると忘れないため」だけにあの外殻フレームは見えるようにされている、とのことらしいが……言われてみればそれも納得できる話である。

 ちなみにBQCO脳内量子通信器官によれば、海中都市の黎明期には何を思ったか携行用航空ユニットを使って飛び出し、球形外殻に直撃して死んだ例が数件も発生したとのことで……まぁ、空を自由に飛びたい類の人は今も昔も存在しているのだろう。


 ──技術の発達ってのは凄まじいんだな。

 ──これなら、自宅のシアタールームで見るAVはどれほど……


 それほど凄まじい技術の進歩を目の当たりにしてすぐに思いついたのがと言うのが、子供の身体とは言え中身がエロいおっさんという欠点だろうか。

 とは言え、こちらはビデオデッキ時代からAVを眺め、DVDで高画質になった途端に高画質が写るテレビまで買い替え、ブルーレイで高画質になったもののモザイクに涙した、人生とエロとは切り離せなかったもてないおっさんである。


 ──何でこんなアホなことはすぐに思い出せるんだ、畜生。


 自分の過去はあまり思い出せないのに、魂に刻まれていたのかそういう過去の矜持とかは衝動的に浮かんでくる自分が悲しくなり、俺は思わず嘆息する。


「大丈夫です、ああ、あなた。

 私たちの都市も、この『スペーメ』に負けないくらい、頑張りましょうっ!」


 窓の外を眺めながら吐き出した俺の溜息をどう勘違いしたのか、婚約者の少女は拳を握りしめ鼻息荒くそう宣言する。


「ふふっ、お手柔らかにお願いしますね、クリオネ君。

 そして……リリス。

 貴女の今後に期待しておりますわ」


 そう少女が宣言するを見計らった訳ではないだろうが、タイミングが良かったのだろう……俺の退院を見送りにきたらしきケニー議員が笑いながらリリス嬢の声にそう言葉を返す。

 その笑みが意味するところは、恐らく「余裕」だろう。

 この海中都市『スペーメ』を世界で五指に入る都市へと成長させたという実務者としての余裕が、ライバルとなるだろう後進のやる気を笑って流せたのだ。


「はい、スペーメ正妻ウィーフェ

 私は今日、この都市を卒業します。

 今までありがとうございましたっ!」


 俺の知らないところでリリス嬢とケニー議員の間には色々と関係があったらしく……俺の婚約者の少女は眼前の老女に向け、そう大きく頭を下げていた。

 実際のところ、正妻教育を受けられるのは非常に優秀で金銭と教育環境に恵まれた、10万人に数名という少数のみである。

 である以上、この巨大な海中都市であったとしても副市長とも言うべき正妻と、正妻教育を受けられる上級市民の子供との間に関係性がないと考える方がおかしいのだろう。


 ──もしかして、恋人ラーヴェの子供だったりしてな。

 ──もしくは、大企業取締役の娘とか。


 よくよく考えてみれば、俺自身……あまりこのリリスという名の少女について知らないことを今更ながらに思い知る。

 はっきり言ってしまうと、ゲームの便利な案内キャラ程度のつもりだったのでそこまでの興味がなかったのだが……今となってはそれなりに情も移っていて、もうちょいと目をかけてあげるべきなのだろう。

 と言うか、俺は「男性は働かなくても良い」というお題目を免罪符に、この時代の企業とか就職とか、そういう社会システムについて全く勉強していなかったのが実情である。

 そもそも俺がいくら頑張っても血縁者については全く思い出せず、ついでに言えば労働に関しては良い思い出が一切出て来ず……だからこそ俺は、仕事とか血縁に関して敢えて目を逸らしている自覚はあるのだが……それでももう少しくらい労働から目を逸らしていたいという欲求には逆らえない。


「じゃあ、行くか」


 そういう自省もあったことから、俺は少しだけ歩み寄ろうとして未来の正妻ウィーフェの手を取りながらそう語りかける。

 何と言うか……記憶の片隅に乗っている映画の最後のシーンや漫画の打ち切りシーンなどであるような、「俺たちの未来は此処から始まる!」って感じを演出してみたかったのだ。


「は、はひっ?

 え、えええええ、えええと、ああああああああああなた。

 ご、ごご護衛は、配備、しししておおおります、はい」


 そのの効果は、俺が思っている以上に絶大過ぎた。

 異性との接触に欠片の免疫もなかったらしきリリス嬢は、たかが手を握られた程度で顔を真っ赤にしたかと思うとあっさりと機能不全に陥り……瞬時に俺は少しサービスし過ぎたと反省する。


「あら、思ったより上手くやっているみたいですね、クリオネ君。

 では、貴方の門出をお祝いさせて頂きます。

 何かお困りでしたら、出来る限りのことは協力させて頂きますので」


「ありがとうございます、ケニー議員。

 ですが、出来る限りは自力で……いや、二人でやって行こうと思います」


 老女の社交辞令に対し、俺も笑顔で社交辞令を返す。

 この辺りは俺も社会人をしていた大の大人であり、記憶が今一つ定かではないものの、それほど苦労なくこなすことが出来る。

 まぁ、本来こういう駆け引きをするべき未来の正妻ウィーフェが見事ぶっ壊れているのが原因とも言えるのだが……


 ──こんなんで、子供作れるのかね?


 俺はたかが手を握っただけで真っ赤になってしまう婚約者の将来を心配しつつ……そんなことは欠片も表情に出さないまま、地球連邦議員の一人と社交辞令を交わし合う。


「引き留めて申し訳なかったわね。

 では、良い人生を」


「ええ、ご丁寧に。

 色々とありがとうございました」


 彼女は俺の経歴を……北極の海の中に沈んでいた経歴を知っているのだろう。

 だからこそ「改めて」なんてわざわざ言の葉に乗せて別れの挨拶としたようだし、俺はそんなこと意にも介していないという姿勢を崩さず礼を告げる。

 それが、この病院での最後の会話となり……そのまま振り返ることもなく、婚約者の手を引いたまま俺は真っ直ぐに歩き続ける。

 この先には男性専用ポート……女性客と一切顔を合わせることなく都市外へと出られる港がある筈なのだから。

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