愛という抽象物
「今日ぐらいは休んでもいいのよ」
「大丈夫。もう元気よ」
「具合が悪くなったら、すぐに先生に言いなさいね」
「はいはい。行ってきます」
翌日、多少の重だるさはあるものの、熱も下がり食欲もある私は、学校へ向かうために玄関を出た。
家族から心配されたため、普段は父が使う送迎を今日は私が借りることになった。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「おはようございます、お嬢様」
車に乗り込み、走り出した車内で、今朝家を出る直前に受け取った手紙を鞄から取り出す。丁寧な文字で私の名前が書かれている。
昨晩、私が寝ている間にスイがやってきたのだという。翌朝早く自宅に手紙を届けて家を発ったそうだ。手紙なんて久方ぶりで開けるのがもったいない。
しばらく手紙を弄んでから、意を決して封を切ったところで車が止まり、体が揺れた。
「……やっぱり車は大袈裟ね」
歩いたって10分ほどの距離なのだ。車なら尚更早い。私は手紙を読むのを諦めて、鞄にしまう。
「行ってきます」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
車から降りて、校門をくぐる。下駄箱が置かれた昇降口前では委員会の人たちが挨拶運動を行っている。その挨拶に返しながら、今日の授業の時間割を頭に並べていると、声をかけられた。
「桐生さん」
「おはようございま、あの……?」
そこに立っていたのは友だちではなかった。
顔は見たことがあるから同じ学年の子たちだ。
「今日の放課後、お時間あるかしら」
「今日ですか?まあ、はい、ありますけど……」
「まあ、よかった。じゃ、教室にいてくださいな」
「ちづるさんが桐生さんにお話があるそうですよ」
「それじゃあ」
彼女たちは用件だけを伝えると、すぐにその場を去った。その様子から察するに、他意はなさそうだった。
「……時間ないって言えばよかったかな」
思ったところで遅いのだが、私はため息を一つ吐いて、靴を履き替えた。
落ち着かない一日を過ごし、学校が終わる。クラスメイトの誘いに乗りたかったけれど、今日はもう先約がある。また今度誘ってとお願いすれば、クラスメイトはまたねと手を振って帰っていった。
「あ、手紙」
鞄に仕舞いっぱなしの手紙があったことを思い出す。
男の人らしい、けれど綺麗な文字で綴られた文は、私を心配する言葉から始まっていた。
「スイってこんなに心配性だったかな」
それから、普段は聞けないスイの学校のことや、この前のデートのことも書かれていた。
スイは基本的に言葉にしてくれることが多いけれど、こうやって丁寧に書かれていると何だか恥ずかしくなる。
「信じて、なんて難しいこと言ってくるのね」
手紙の末尾にはそう書いてあった。
「信じる」
これがどんなに難しいことか、彼は知らないのだろうか。否、知っているからこそ、求めたのだろう。
「ずっと信じているわ」
これまでだって、彼を疑ったことはない。私に対して常に誠実でいてくれる彼のことを、私は信頼している。だから、これから訪れるかもしれない別れも甘んじて受け入れるつもりだ。
ガラガラと、教室の扉が開く音がした。
「ごめんなさい、待たせたかしら」
「いいえ大丈夫です」
鈴を転がすような高めの透き通る声は、可愛らしくて、とても人を攻撃するような感じがしない。
「最近は暗くなるのが早いから、あまり長く話していてもよくないし、手短に済ませるわね」
「あの、西ノ宮さん」
「あら?もう決めたの?」
「私、西ノ宮さんの提案は受けられません」
「……そう……」
「仮に私が承諾しても、私には決定権がありません。貴女が私を脅しても意味がないのです」
表情を無くした彼女は、まるで西洋人形のようで、どこか恐ろしささえ感じさせる。
「もし……もし、スイが私との婚約を破棄すると決めたのなら、受け入れます。でも、まだスイの口からそのようなことは何も聞いていません。西ノ宮さんは、スイと話をしたんですよね?」
「殿方を呼び捨てなんてはしたなくってよ」
「話をそらさないで」
「そらしてなどいないわ。じきに分かることだもの。この婚約は間違いだったと」
ヒュッと顔の横を一筋の風が抜けた。
「話はそれだけですか」
「ええ。……まあ、いいわ。来月、私の家でパーティーが行われるのよ。桐生さんにも招待状を送るわ。是非いらしてね」
「予定がなければお伺いします」
「そうして。それじゃあね」
先ほどまでの無表情を一変させて、朗らかな表情を浮かべた西ノ宮さんは、教室を出ていった。
「し、ぬかと思ったぁ……」
風が触れた頬に触れると、ぴりっとした痛みを感じる。指先が赤く染まっていた。
鞄から鏡を取り出して確認すると、うっすらと一筋の赤が頬に走っていた。
「うわ……」
魔力を自在にコントロールすることだけでもすごいのに、それをしっかり狙いに当ててくる能力の高さに感心するとともに、恐ろしさを感じた。優秀な力を持っているからこそ、彼へ固執するのもうなづける。
ため息をひとつ零して、鏡を仕舞って鞄を持ち直し教室を出る。
廊下から差し込む太陽の光は赤く色づいていた。
***
管弦楽の楽団がホールの中を賑わせている。ゆったりと流れる曲に合わせて踊る大人たちを、壁際に立って眺めていた。
悲しいことに用事など存在せず、断る口実も見つからないまま西ノ宮家のパーティーに引っ張り出された。
「アイラ」
「蘭!」
「よかった、お友だちがいなくて居心地が悪かったの」
「実は私も。島崎さんは?」
「なんか上司と会っちゃったからお話し中よ」
鳳家の末娘で、クラスメイトの蘭が私を見つけて駆け寄ってきた。婚約者の島崎さんは上司に捕まったらしい。蘭の口調が少し拗ねたもので、私はその可愛さに笑みが零れる。
「アイラこそ、榊くんは一緒じゃないの?」
「今、遠征中なの。手紙には、今日帰ってくるって書いてあったけど」
「そっか。拝みたかったなぁ、榊くん」
「拝むって、神様じゃないんだから」
「いやいやご利益ある顔よあれは」
「もう、蘭ったら」
軽口を叩きながら、給仕から手渡されたグラスを受け取り乾杯をした。
「傷も薄くなってきたわね」
「あ、うん。痕にならなくてよかった」
蘭が指摘したのは数日前に西ノ宮さんにつけられた傷のことだ。血は出たけれど、紙で指を切った程度の切り傷で済んでよかった。
蘭には詳しい事情を話してはいないけれど、多分、うっすら察していると思う。スイや西ノ宮さんの家と同じくらい力がある家の娘が、知らないはずがない。
「今日は榊くんがいないから、気をつけてね」
「そうだね。もう少ししたら帰る予定だから、大丈夫だと思うけど……」
「用心するに越したことはないわ。私が側にいてあげたいけど、勇次さんがそろそろ戻ってくるから……」
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だから、気にしないで」
「何かあったらすぐに呼んでね」
こちらに向かってくる島崎さんに挨拶をして、蘭と別れる。グラスを持ちながら目の前で仲睦まじい男女を眺めると、彼が恋しくなってくる。スイは怪我なく帰ってきただろうか。きっと彼のことだから、成果も上げて帰ってくるだろう。
グラスを返却して、賑やかな室内を後にする。
西ノ宮家の庭には、モダンな雰囲気を漂わせる庭園が広がっていた。
「スイも、見たのかな」
胸の奥が少しだけ悲鳴を上げた。スイの家に西ノ宮さんが行ったのならば、その逆もあり得る。想像したくないのに、あの二人が並んで歩く姿はお似合い以外の言葉が当てはまらない。
ジャリ。
後ろで砂利を踏む音がした。
「……西ノ宮さん」
「ご挨拶が遅くなってごめんなさいね」
「いえ、私も伺えなくて、すみません」
彼女の華やかな雰囲気に合わせて誂えられたパーティードレスは、主催らしくどこにいても目立っていた。今日一番会いたくなくて、二人きりになりたくなかった人物だ。
「今日、スイ様がこちらに来るのよ」
「スイが?」
知らなかった。そのことにショックを受けている自分がいる。感情が表に出たのを、彼女は見逃さなかった。
「貴女には知らされてなかったのね。当然と言えば当然かしら」
「まだ、私とスイの婚約は続いています」
「あら、怖いわ。先のことなんて誰にも分かりはしないわよ」
遠くで楽しそうな笑い声がする。これ以上二人きりで居ても、いいことなどない。
「挨拶も済みましたから私はこれで失礼します」
「スイ様に会わなくてもよろしいの?」
「西ノ宮さんは……今日何をするつもりなんですか」
「いやだわ、何も、するつもりなんてないわよ?」
私をまっすぐ見据える彼女からは真意が汲み取れない。ただそこにあるのは、純粋な悪意だけだ。
「余計なことを聞きました。少し前に体調を崩してしまったので、まだ万全ではないのです。ですから、退出させていただきます」
「お待ちになって」
さわさわと木が揺れた。
「何でしょうか」
「婚約を破棄する理由には、何があるかお分かりかしら」
「それは当人たちにしか分からないことではないでしょうか」
「そうね。でも例えば、家の没落や凋落、どちらかの不貞、それから、重大な欠陥がある……とか。あとはそうね、主上の命令。あら、そんなに怖い顔なさらないで」
「……そんなに、彼が欲しいのですか」
「貴女はいらないの?」
「彼は物じゃありません」
そう返せば、理解できないといった顔をする。
彼女は、幼子のように欲しいものをただ欲しいと言っているだけなのだと、それが受け入れられて当然なのだと思っているようだった。良家の子女らしい、可愛い我儘だとでも言うのだろうか。
「でも、家と家の結びつきが大切なのはご存知よね?貴女の家と私の家と、どちらの繋がりを周りは望むかしら」
「そんなこと、私が一番分かっています。だけど、私から手放すことは……できません。私もスイのことを、好いています」
「聞いていないわ、そんなこと。興味ないもの」
また、彼女の顔から表情が消える。先日よりももっと冷たくて、温度のない顔だ。思わず、一歩後ずさった。けれど、距離をとることは許さないとばかりに、間髪いれずに一歩詰められる。
「桐生さんが手放せないなら、私が協力してあげるわ。そうね、こういうのはどう?私とスイ様の婚約話を聞きつけた貴女は、嫉妬に狂って私に危害を加えようとした。私は必死に抵抗して、貴女に消えない傷をつけてしまった。でもそれは正当防衛で、非難は全て貴女に向かうの。貴女も、貴女の家も、貴族ではいられなくなるわね。家格が釣り合わなければ婚約は破棄される。傷物になった貴女には価値など存在しなくなるわ。どう?いいシナリオじゃない?」
「本気で、言っているの?」
敬語など忘れてしまうくらいに、彼女の描いた物語に言葉を失う。
彼女が、怖い。
ざわざわと木が揺れる。
私の持つ火の魔力は、彼女の魔力と相性が悪い。ここで仮に魔力を出しても、逆風で自分に返ってくる。
心臓が痛いほど脈打っていた。きっと彼女は手加減などしない。どうすべきか必死に頭を回転させる。しかし、恐怖と混乱で、最善を導けない。
「うふふ、可愛い顔が台無しよ?……まあ、その顔もすぐに見られなくして差し上げるわ」
突風が巻き起こる。その風は迷うことなく真っ直ぐ私のところへ向かってきた。
咄嗟に地面から上へ炎を上げて、脇へ避ける。
「痛っ……!」
避けきれなかった風が私の左腕を掠めていく。鋭利な刃物で切られたように、ざっくりと二の腕から血が流れ出る。
「残念。顔には当たらなかったのね」
彼女は既に魔力を手のひらに集めている。次にまたあの突風を起こされたら、避けられる自信がない。左腕がじんじんと痛みを訴えてくる。押さえた右手が生温い液体に染まっていた。
「早く防衛しないと次はないわよ?貴女の地位か、命か、早くお選びになって?」
最も、選べるのならね、と西ノ宮さんの口角が上がる。私が防衛のために攻撃すれば、彼女はきっと避けずに受ける。そうしてあのシナリオを完成させるつもりなのだ。
つまるところ、私は完全に手詰まりだった。
「10秒差し上げるわね。よく、お考えなさいな」
歌うように秒数を数え上げる彼女を前に、私は悔しさで一杯だった。
私の魔力は攻撃に向いていない。どちらかと言えば後方支援が得意なのだ。圧倒的な力と対峙して、自分の弱さを実感してしまう。
無意識に、胸元につけたブローチを握りしめる。
「スイ、ごめんね」
醜聞が世の中に広まるくらいなら、自ら彼を手放すくらいなら、逃げずに向き合った方がいい。結果、瑕疵がついたとしても、納得しようがある。
ブローチに込められた魔力を取り出して、自分の魔力と練り合わせる。自分とは正反対の力を扱うのは難しいけれど、その魔力は私に寄り添ってくれるようだった。
「……やっつ、ここのつ、とお。そう、桐生さんは地位を選ぶのね」
「いいえ。私は、私の誇りのために戦います。貴女にスイは、渡せない」
きっぱりと言い切れば、これまで穏やかだった西ノ宮さんの顔が憎悪に歪む。蓄えられていた彼女の魔力が、先ほどよりも大きく、早く放たれた。
ガラスが割れたような音が庭園に響く。
少しの間のあと、冷たい霧のように、きらきらと太陽に照らされた氷の破片が宙を舞っていた。
「どうして……」
私が負けることを確信していたであろう彼女から零れた、小さなつぶやき。
肩で呼吸をしながら、立ちあがって、彼女を見据える。
「なにを……したのよ……。答えなさい!」
「アイラ!」
彼女が叫ぶのと同時に、会場の方から私の名前を呼ぶ声がした。
氷が光に照らされて反射する中、会いたいと思っていた人物が駆けよってくるのが見えた。
「スイ、あのね」
「無事か?!血が出てるじゃないか!急いで病院に、」
「好きよ」
「え……」
翡翠色の柔らかな瞳が驚いている。怪我なんて、正直どうでもよかった。彼に会ったら、言いたいことがあったのだ。
「スイが好き。誰にも渡したくない。スイが、信じてって言ってくれたこと、嬉しかったの。わたし、小さい頃から、スイが好きよ」
「……死なないよね?」
「なに、変なこと言ってるの……だいじょうぶ、だいじょうぶ……よ」
「アイラ!」
心残りがなくなった私はそこで意識を手放した。
***
「どういうことなの……」
二人のやり取りなど視界に入っていないほど呆然としていた西ノ宮家の令嬢は、そう独りごちる。その疑問に答えたのは、他ならぬ自分が手に入れたいと思っていた人物だった。
「君には失望したよ。もっと物わかりのいい人だと思っていたのに」
意識のない少女を抱きかかえて、簡易的な治癒を施したその男は立ちあがって令嬢に告げる。
「彼女が火の魔力を扱うことを知っていたようだけど、他のことは知らなかったようだね」
「ほか、って……。まさか、複数持ちだとでも言うのですか」
「半分当たりで半分はずれ。君も聞いたことがあるだろう?増幅能力のこと」
「そんなっ……信じられないわ」
「信じなくてもいいさ。アイラを戦場になど送りたくないからね」
少女を優しい瞳で一瞥し、そのまま庭園を突っ切ってこの場を後にしようとする男を令嬢は必死に引き止める。自分がしでかしたことも、彼から意識を向けられなくなることも怖くなって半ば悲鳴に近い声をあげる。既に騒ぎを聞きつけた数人の招待客が集まってきていた。
「まって、お待ちくださいスイ様!」
「君に下の名前で呼ばれるほど関係が深いとは言えないんだけど」
「納得がいきませんわ!公に認められていない能力なんてないのと同じ。それなのに、その女と婚約を続けるというのですか!」
「アイラに利益なんか求めていないよ、最初から。これ以上力を持ったって意味がないしね。もういい?」
「だって、そんなの……」
「君は自分の価値と、僕の望みを繋げていたようだけど、端から間違っていただけだ。家の権力を振りかざすのは感心しないな。このことは正式に抗議させてもらうからね」
男はそう言うと、二度と振り返らずに歩いて行った。
残された少女はどうしようもなくなって、その場に泣き崩れる。主催の息女の様子に招待客は心配そうに様子を伺っていた。
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