彼を好きな人

 帰宅後には兄の手料理が並べられた食卓を囲んで、家族で小さな誕生日パーティーが開かれた。ケーキは父が毎年同じところで買ってきた馴染みのある味で、これまでの誕生日を思い出す。

 母は必ず、私に小さなぬいぐるみを贈ってくれる。幼い頃に兄が持っていたぬいぐるみを欲しがって大泣きしたことがあってから、私のためだけに作ってくれた世界でたったひとつのぬいぐるみが毎年贈られるようになった。受け取るたびに、その話が出るので少し恥ずかしくなる。

 それから今日だけ母と一緒に寝られるのだ。私はそのことを毎年楽しみにしていた。

 お風呂から上がって、和室に敷かれた布団に潜り込む。普段はベッドを使っているから、い草の匂いが新鮮だ。母には、今日あったことをたくさん話したい。


「お嬢様、奥様がいらっしゃいますよ」

「分かった」


 ふすまの向こうで、女中から声がかかる。それに返事をしてパッと起き上がり、布団をならしていると、ふすまが開いて、母が入ってきた。


「お母さま!」

「アイラ、あまり興奮すると眠れなくなるわよ」

「でも夜は短いのよ。話したいことも相談したいこともあるの」

「はいはい、聞いてあげるから落ち着きなさい」


 並べられた布団にもう一度潜り込んで、母と並んで横になる。

 母は良妻賢母を体現したような人で、家の中の一切を取り仕切って、父の仕事を陰ながら支えている。料理も裁縫もそれを仕事にできるほどの腕がある。料理の腕は兄が受け継いだけれど、私はどうにも家事の類いは苦手だった。

 常に隣に優秀な彼がいると、ある意味平凡な自分に安心さえしてしまう。過度に期待されることなく、人並みの生活が送れれば、現状は及第点だと思うことにしている。


「今日は、スイ君と出掛けたんでしょう?」

「うん、今年のプレゼントもすごかったわ」

「アイラのこと、よく見てるのね。似合いすぎて、私たちよりアイラのことを分かってると思ったもの」

「スイみたいな人のことを非の打ち所がないって言うのよね」

「アイラがいるからこそよ」

「えぇ?変なこと言わないでよ。でも、そうだったらいいな」


 母の前だと自分の感情を素直に吐露できる。いつだって、母は私の強い味方だった。私を撫でるその手は暖かい。


「あのね、お母さま」

「なーに」

「中ノ宮家のお嬢様が、スイのこと、気に入って、結婚を申し込んでるって、言われたの」

「誰に言われたの?」

「本人に」


 伝えた声は震えていなかっただろうか。ここしばらく胸の内にわだかまって居座っていた気持ちが急速に膨らんで、爆発しそうだった。

 堪えきれなくて布団をはいで、体を起こす。自分でも驚くくらい饒舌に言葉を紡ぐ。


「今日は、すごく楽しかったのよ。手を繋いで、街中を歩いて、いろんなお店に行ったの。お昼はスイが仕事の昼休みによく食べに行くレストランに行って、ナポリタンとクリームソーダを頼んだの。とてもおいしかった。お店の人が汚れないようにって紙エプロンをつけてくれたのよ。私、感動しちゃった。その後も、スイが私のために、好きそうなお店を選んでくれていて、最後に行ったお店で、素敵なブローチを見つけて、スイの瞳の色の綺麗なブローチで、私、思わず手に取ってしまって、スイが、……僕の色だって、私……わたし、……悲しくなんてないのよ。だって、スイのお家は魔力も強くて、私が婚約したのだって、たまたま近くにいたからで、だから、だからずっと、スイが好きだって言わなかったっ……!」


 零れ落ちた感情は嗚咽と涙で溢れ出す。母はただ静かに私を見て、私の声を聞いていた。


「帰りに、スイに今日が一番好きだって、僕から離れていかないでって、そう言われたの。わたし、意味が分からない振りをしたけど、舞い上がりそうだった。だけど、だけどっ……私が離れたくなくても、スイはきっと離れていってしまうわ。それがとても苦しいの。こんな気持ち、わたし、スイに恋なんか、しなきゃ、よかったっ……ッう゛~……」

「アイラ」

「おか、さまっ……!」


 それまで静かに聞いていた母が私を抱き寄せて背中をさすってくれる。ぴりぴりとした自分の魔力が輪郭からぼやけていく。母の持つ魔力が心地よかった。


「私ね、この家も、自分のことも、好き。自分を卑下したいわけじゃないの。だけど、変えられないものもある」

「……そうね」

「お母さま」

「んー?」

「もし、ね、婚約が破棄されたら、おじいちゃんとおばあちゃんのいるとこで、しばらく生活してもいい?学校も、休みたい」

「もちろんよ。可愛い娘のお願いなら、お父さんもお兄ちゃんもうなづいてくれるわ」

「ありがとう」

「でも、あまり心配しなくても大丈夫よ。スイ君は優しい子だもの」

「……うん」


 彼の優しさが、鋭利な刃とならないことを祈るしかなかった。

 次第に涙も引っ込んで、うとうとと眠気が襲ってくる。

 まだまだ話したいことはあったけれど、意識はもう半分くらい夢の中で、ぬるいお湯に浸かっているような、そんな感覚を感じながら、眠りに落ちた。


 翌日が休日でよかった。泣いたせいで顔がむくんでいるのを誰にも見られなくて済む。なるべくすっきりさせたくて、いつもより念入りに顔のマッサージをしながら鏡とにらめっこする。


「16歳かあ」


 16歳になれば、友人たちの中にも結婚する人が出てくる。結婚すれば、学校を辞めることになる。友人と過ごせる楽しい時間はあと僅かだ。


「頼子ちゃんは年が明けたら結婚するって言ってたな」


 18歳以上の男性と婚約していれば、16歳を迎えてすぐに祝言をあげる家もある。この国において結婚は、強固な契約だった。

 スイはお給金をもらっていると言っていた。同じ16歳なのに、こうも違うものか。その強い魔力と家柄が彼の地位を確固たるものにしているのを実感する。

 私にできることは、せいぜい、彼に「頑張れ」と言うことくらいだ。


「しょうもないなあ」


 マッサージを終えて、自分の無力さに呆れてしまう。勉強はまあまあ、運動もそこそこ、顔は、まあ、人並み。何かこれといった目立つ武器もない。魔力の扱いも平均くらいだ。


「……スイに、会いたいな」


 昨日会ったばかりだというのにもう会いたい。昨日の夜は散々苦しいと言ったけれど、恋とは非常に厄介だ。

 スイは貴族の務めを果たすために軍部に入るための学校に通っている。学校とは言っても、見習いの形で仕事をこなしており、昨日は与えられた数少ない休暇を取って、会いに来てくれたのだ。会いたいと我儘を言って会えるほど、彼は暇ではない。


「外で待つくらいなら、いいかな」


 ぽつり、小さな勇気が湧いた。夕方ごろに家の外で待っていたら、もしかしたら帰ってくるスイに会えるかもしれない。

 今まで彼にもらった洋服を身につけて迎えたら、彼は喜んでくれるだろうか。


「いいえ、浮かれすぎね」


 普段はあまりこんな気持ちになることはないのに、よほど昨日のことが存外嬉しかったのだと気づく。

 結局、いつも通りの着物に袖を通していつも通りの休日を過ごした。

 外がオレンジ色に変わり、濃い紫がじわじわとオレンジを染めていく頃、私は自宅の門前に立っていた。今はまだ明かりを灯さなくても物の形が分かる。10分ほど待っていたら、先に父と兄が帰ってきた。


「珍しいな、お出迎えか?」

「おかえりなさい。そんなとこ」

「さては、スイだな」

「兄さまには関係ないでしょ」

「冷たい妹だな~。父さん、俺らは前座ですよ」

「じゃあ悲しいが先に入ろう。母さんに出迎えてもらうとするか。アイラ、車には気をつけるんだよ」

「はい」

「また夕飯でな」


 外は闇を写し取ったようにあっという間に暗くなり、視界を狭めてきた。諦めて家に入ろうと向きを変えたとき、遠くから二つの光が差し込んできた。


「帰ってきた」


 家が隣でも、榊家も我が家も歴史があるから敷地が広くて入り口がそこそこ遠い。彼の姿を認めてから声をかけようと思って、私はその場に留まった。

 車が止まり、ライトが消えて、後部座席から人が降りた。暗くてはっきりとは見えなかったけれど、それは確かに会いたいと思っていた彼だ。


「ス、」


 名前を呼びかけて、止まる。

 高揚した心が一気に冷えるのが分かった。その場から一歩も動けないし、一言も発せない。

 固まる私を置いて、二つの影はそのまま屋敷の中へと消えていった。


「……は、っ……」


 再び静寂が訪れた時、自分が呼吸を忘れていたことに気づく。側の壁に手をついて、しゃがみこむ。

 見間違えるはずがない。

 遠くからでも分かる華やかな出で立ちと声は、確かに彼女だ。

 まさか、そんな。

 心臓が不自然なほど早く脈を打つ。


「お嬢様、お夕飯の支度ができたのでお呼びに……お嬢様!?どうなさいました?」

「しっ。大丈夫よ、ずっと立っていて疲れただけなの。もう戻るわ」

「そうでしたか。まぁ、体が冷たい!早く中に入って暖まりましょう」

「ありがとう」


 一度深呼吸をして、ゆっくり立ち上がる。深く息を吸いながら、これからのことを回らない頭で思考する。早いうちに荷物をまとめておいたほうがいいかもしれない。それよりも明日のことを考えるべきか。

 ぐらぐらと足元が揺れている。

 いけないと分かっていても、止められない。


「お嬢様、大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫よ。少し離れてくれる?」

「え、えぇ。旦那様を呼んできます!」


 一人になって、暴走してしまいそうな力を必死に抑え込む。

 こんな風に魔力を暴発させてしまうのは、子どもみたいで恥ずかしかった。学校に入る前、一度だけ大泣きをして、庭の木を燃やしてしまったことを思い出す。あれは、どうして暴発したのだったか。悲しかった、ということだけは覚えている。


「大丈夫……大丈夫、まだ決まったわけじゃないわ、大丈夫よ、しっかりして、わたし」

「アイラ!」


 兄の声がした。そう言えば、あの時も兄が真っ先に駆け寄ってくれた気がする。


「熱いな……病院に電話してくれ!」

「はい!」

「父さん、もしかしたら火事になるかもしれない」

「ああ。アイラ、聞こえるか」

「お父さま、止まらないの、どうしようっ……!」

「大丈夫だ。集中して、ここに力を集めるんだ。ソウも手伝ってくれ」

「分かった」


 半泣きで、父にすがる。父に言われたとおりに、不安定ながらも何とか力を集めた。掌が燃えるように熱くなった。


「少しずつ発火させるんだ。無理ならそのまま放出しなさい。父さんたちが受け止める」

「だめっ……こわい!」


 このまま火を放って、怪我をさせたらどうしよう。そんな不安から上手く魔力をコントロールできない。


「アイラ、大丈夫だよ。俺たちは仕事でも力を扱っているんだから、怪我なんて絶対しない。信じて」

「にい、さま」

「いいかい、3、2、1で一気に出しなさい。風で上に逃がすからね」


 二人の言葉にコクリとうなづいて、目を閉じる。


「いくよ……さん、に、いち!」


 炎が、上がる音がした。

 それは目を閉じていても分かるほど周囲を明るく照らした。

 だけど、もし失敗していたら。怖くて目が開けられない。


「アイラ、よく頑張ったな」

「ほら、言っただろ。怪我なんてしないって」

「あ……」


 優しい声に、安堵の涙が零れ落ちる。


「旦那様、お医者さまがすぐこちらに来るそうです」

「来てくれるのか。ソウ、アイラを部屋へ」


 力を目一杯出したせいで体に力が入らない。兄が私を抱きかかえて運んでくれた。

 部屋では、母が待っていた。


「兄さま、ありがとう。大好きよ」

「俺も大好き」


 ベッドに下ろしてもらって、私がそう言うと、兄はニッと笑って頭を撫でてくれた。


「妹を可愛がるのはいいけれど、貴方もそろそろ身を固めなさい?」

「おっ、と?それには応えられないなー、母さん、後はよろしく!」

「ソウ!」


 母と兄のお馴染みのやり取りにくすくす笑う。二人とも、場を和ませようとしてくれたのが嬉しかった。

 兄が部屋を出てすぐにドアがノックされる。


「奥様、お医者様がいらっしゃいました」

「お通ししてちょうだい」


 診療外の時間に駆けつけてくれた医者は、私が幼い頃からお世話になっている井村先生だった。


「こんばんは。アイラさんが魔力暴走したって聞いてすっ飛んできたよ」

「お騒がせしました……」

「見たところ、落ち着いているようだね」

「お父さまと、兄さまが助けてくれました」

「あの二人なら適切な対応を取ってくれたんだろう。じゃ、念のため診察するね。起きられるかい」


 上半身を起こして、先生に状態を確認してもらう。発熱はしていたけれど、それ以外に問題はないということだった。


「ここ数年は魔力暴走自体が珍しくてね。まあ何と言うか、自然の流れなんだろうけど、文明が発達するにつれて、魔力なんてものは必要ないものになってきたせいか、生まれた時からもともとの魔力量が少なくなってきているようなんだ」

「そうなんですか」


 初耳だった。でも、思い返せば、友人たちも近所の子も、魔力のコントロールを上手くやっていた。出せる量が少ないから、失敗することも少ないのかもしれない。


「いやあ、しかし、珍しいこともあるもんだね。子どもの時以来かな」

「ああ、あったわね、そんなこと」

「木が真っ黒焦げになっててびっくりした記憶があるよ」

「そうそう。何だったかしら、アイラが大泣きしたのよね」

「ソウくんも半泣きで、二人とも可愛かったなあ」

「たしか、スイ君と離れたくない~、って泣いたんだったかしらね」

「そうだそうだ、そうだった」

「も、もう恥ずかしいので、言わなくていいです」

「あっはっは、これは失礼。じゃあ、私はこれで。解熱剤を出すから飲んで寝なさい。明日には元気になっているよ」

「ありがとうございました、先生」

「ありがとうございました」


 本当なら、きっと魔力暴走の原因を聞くのだろうけれど、先生は聞かなかった。家族も触れずに、ただ寄り添ってくれた。今はそれが嬉しかった。

 着替えを済ませて、簡単な夕食を用意してもらい、薬を飲んで横になる。


「明日は休んでもいいからね」

「うん、おやすみなさい」


 明かりが消えて、部屋の中に僅かに月光が差し込む。部屋には私の息づかいだけが聞こえていた。

 上手く寝付けなくて、頭の中でいろいろなことを考えていると、ふと、巷で話題になった恋の歌が脳内に流れた。その歌は新人の女性歌手がデビュー曲で歌っていて、ラジオでもしょっちゅう流れていた。曲調は明るいのに、歌詞は悲しい、受け手によって意見が分かれる歌だった。

 その曲がどこか、今の自分のようで口角があがる。歌詞を思い出しながら、メロディーを頭の中で流しているうちに、気づけば眠りに入っていた。




***




 日付を越えるにはまだ早い時間に、アイラの部屋に入る一人の人物がいた。

 隣家で炎があがったのは、瞬く間に近所に知れわたり、それは榊家でも同じだった。

 本当は、すぐにでも駆けつけたかったが、生憎と来客もあり、こんな時間になってしまったのだ。

 いつも落ち着いていて、朗らかな少女が魔力を暴走させたのはどうしてなのか。問いかけても誰も答えを教えてはくれなかった。


「アイラ」


 呟くように声をかける。当然返事は返ってこないが、ここにいると実感できるだけで安心した。

 彼女の手入れの行き届いた髪に触れる。

 彼女は自分の容姿を地味だと言うが、彼女の持つ暖かな日だまりのような空気が大好きだ。透き通るような藍の瞳も、幼さの残る面立ちも、すべてが魅力的に見える。

 生まれたときから隣にいる半身のような存在を失うなど考えられない。だから、強請ったのだ。そばに居てほしいと。


「この世の誰よりも君が好きだよ」


 どうしたらこの想いが誤解なく、余すところなく全て伝えられるのだろうか。

 彼女は変なところで深読みをするところがある。真っ直ぐに言葉をぶつけても、そのまま受け取ってくれないこともある。それが、今回の魔力暴走の一端を担っていたのだとしたら、これ以上ないくらいの不甲斐なさだ。


「今度は起きているときにちゃんと言うから。おやすみ、アイラ」


 本当は目が覚めるまで側にいたいが、そうも言っていられない。

 そっと立ち上がり、ふと目に留まった机の上に置かれた、買ったばかりのブローチに再度まじないをかけて、部屋を出た。


「夜分にお邪魔しました」

「スイ君も疲れているところ、ありがとう」

「いえ、こちらこそ連絡せず、押しかけてすみません」

「いいのよ。隣同士なんだから、気軽にいらっしゃい。あの子も喜ぶわ」

「はい。失礼します」


 挨拶をして、桐生家を出る。玄関の門を出たところで、不機嫌な声に呼び止められた。


「おい」

「ソウくん」

「みんな優しいからお前に何も言わないけどな、今回の一番の原因はお前だからな」

「僕が?」

「今日はアイラが門のとこに立って、お前を待ってたんだ。その後すぐにあんなことが起きた。スイ、お前、何したんだよ」

「アイラが僕を待ってたんですか?気づかなかった。……じゃあ……」


 車から降りるところは確実に見られていただろう。


「心当たりあるって顔だな」

「……誤解を招いてしまったみたいです」

「早めに弁解しろよ」

「教えてくれてありがとう、ソウくん」

「可愛い妹のためだからな。妹が泣くだろうから殴るのはやめておく」

「はは、同意します」

「おま、……はぁ、じゃあな」


 アイラの兄であるソウくんが手を振りながら背を向けた。それに返しながら、自宅へと戻る。

 明日にでも誤解だと伝えたいが、明日からしばらく泊まりこみの演習が始まってしまう。


「久しぶりに、書いてみようかな」


 引き出しに便箋は残っていただろうか。寝る前に書き上げて、朝一で届けに行こう。普段は気恥ずかしくて言えないことも、文字でなら伝えられるような気がした。


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