少しの決意

 僕たちが、なにか行動を起こすとき、それは進歩だろうか諦めだろうか。人生というのは僕たちの好きなように解釈することができる。人に「諦めた」って指差されても、自分が進歩だと思ったらそうなのだし、逆に人からはよくやったとか褒められても、自分が、妥協して逃げた、と思ってしまったらそれは幸せなものではない。先ほど、自分が進歩だと思ったら云々ということを言ったが、事実僕たちは多くのことを諦めて生きている。その中には、本当にどうしようもないこともあるかもしれないし、一定期間を「死ぬ気で」努力したら叶ったことかもしれない。それができないから、「諦め」ということになる。今まで、数えきれないことから逃げてきて、いろいろと罪深いことをしてきた自覚もあるけれど、そろそろ少しの決意を固めたいと思って筆を執っている。


 今日は、9月17日。夏休みが明けて学校が始まってから3週間と少し経った。そして、今年度が始まってからはもう少しで半年を迎えようとしている。日々、入試が迫ってきているのを実感している。必然的に、入試のこと、さらに将来のことを考える機会が増えた。入試のことを考えると言ったって、結局は自分の学力が上がれば済む話だから、だいたいは「もっと勉強をがんばろう。」ということで結末を迎える。ただ、将来のことについてはそんなに上手くは行かない。最終的には大学の4年間で決めることになるのだろうが、今のうちにも少しは考えておかないとね、入る学部とかも変わってくるから。そうやって夜に布団に入ってから眠れない夜を過ごすことが増えてきた。高校生が考えることなんてだいたいは現実味を欠いていて、だいたいは自分のしたいことばっかり考えているんだろうけれど、今はそういうのでいいんじゃないかな。


 自分の目の前に、相反する選択肢があるとする。そして、自分がどちらを選びたいか、心の中では薄々気づいているのだ。ただ、それは後ろ髪を引かれるような選択肢で、後ろめたさが残るものなのかもしれないのだ。しかし、その選択肢は安全である。普通に考えて、こちらの選択肢を選ぶのに迷うことなどないように思える。このような状況に限らずとも、僕たちはなにか選択して行動をするとき、自分の選択をどうにかして正当化しようとするのだ。そうしないと、罪悪感にかられてやっていけないから。この「正当化」の一種として、「普通に考えると」とか「客観的に見て」とかいうような言葉を使いたがる。しかし、こんなものではだめだ。人間は、自分のことを客観的に見ることなどできないのだ。あくまで、「主観的に物事を見る」といったどうやっても外れない層を通した「客観的」であって、データなどの根拠の類とは程遠い。さらにいうと、僕たちは他人のことでも「客観的に見ること」はできない。理由は前文の通りだ。だから、こういう「客観的に」とかいう言葉はおまじないでしかないのだ。ただ、そういうのが非常に重要だと思う。自分が悩ましい選択の前に立たされたとき、どんな選択をしたとしても、その度に自分に魔法をかけていかなきゃいけないんだ。難しいときはさ、それはね、ずっと後悔と生きていかなきゃね。

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