自分の感受性くらい

 今日は雨が降っていた。情報を得る媒体がなにもないので、天気予報なんていうのも当然わかるはずもなく、てっきり今日も晴れなのかな、と思って学校に行った。ここは瀬戸内海式気候だから、降水量は非常に少ないので有名で、体感でも月に2回くらいしか雨は降らない。香川にため池が多かったり、小麦の栽培が盛んなのもそのせいであるというのも有名な話。


 雨は降っても降っていなくても僕は特に思うことはない。晴れならば、いつもどおりだと体と脳は判断して普段どおりの生活を送る。雨ならば、なんとなく特別感は抱くけれどそれで止まる。雨はもともと好きでも嫌いでもなかった。瀬戸内海付近にずっと住んでいたから、特別な感じがしてむしろ好きだったかもしれない。『言の葉の庭』(小説、映画)とか『Rain』(大江千里 詞曲)とか『drop pop candy』(曲)とか、これらは雨が作中で重要な役割を果たす。それらに触れることで「雨が好きになった。」というような反応を見ることがあるけれど、それもよくわからない。 


 僕が嫌いなのは湿度が高いことだ。文庫本のページがめくりにくくなったりとか、机の上の宿題のプリントに鉛筆を走らせても、いつもと同じように進まなかったりとか。まあ、なによりむしむしして暑いのが一番嫌なのだけれど。ただ、雨の日。寮の中庭にあるししおどしがたまに鳴るのを、聞くのは好きだ。雨音の中、本を読むのも勉強をするのも文章を書くのもぼーっとしているのも好きだ。体が濡れて喜ぶのは蛙くらいだから、結局、音しか好きじゃないのかもしれない。わからないや。


 

 感受性というのはなんだろうか。

 

 

 (前略)


 気難かしくなってきたのを

 友人のせいにはするな

 しなやかさを失ったのはどちらなのか


 (中略)


 自分の感受性くらい

 自分で守れ

 ばかものよ


 上の詩は、茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』という詩の一節だ。中学の教科書にも、高校の教科書にも入っていて、なにか縁を感じたので覚えていた。調べると出てくると思うので、ぜひ読んでみてほしい。僕が知らないだけで、本当に有名な詩なのかもしれない。全文を読んでみて、なんだかすっと入ってきたというか。納得を持ってよく入ってくる文章だ、というのが感想だ。


 さて、感受性というのはなんだろうか。手元の辞書には「外界からの刺激を深く感じ取り、心に受け止める能力。」とある。


 それが、生きていくうちで変わらないということはないだろう。それが悪いように動くのを上の詩では言い表しているという節もあるはずだ。それで、例に漏れず、僕の感受性も変わってきたはずだ。僕が小学生のころはもっと素直だったかな、とか幼稚園のときは純真無垢だったかな、とか。いや、実は割としっかり覚えていてね、僕は小学校のころから素直でも謙虚でもなかったそうなのだ。これは感受性ではなくて性格の話なのかもしれない。


 ただ、感受性と性格の話は切って切り離せないと思うのだ。少し脱線するが、「生物の定義」の話をしよう。高1で、生物基礎の授業を受けて2回目くらいのときに学んだ気がする。いくつかある。「細胞からなること。」「代謝を行うこと。」とかね。僕が挙げるのは、「外界の刺激に反応すること。」だ。まあ、生物の勉強をしたいわけじゃなくて、人間も生物に含まれる、という簡単な理論からの思いつきだ。そうだ、人間は外界からの刺激に反応する。そもそも、反応のためには「刺激が来た」というのを認知とまではいかなくても、察知くらいはしないといけないだろう。名前を呼ばれたと察知するから返事するし、肩を叩かれて、衝撃を察知するから振り向くのだ。


 「生きているとなんで自分がわかるのか」こういう問いがあったとする。それは、「五感を通じて脳がそう判断を下したから。」という答えくらいしか出せないだろう。「五感」のおかげで、自分は生きているとわかり、自分の世界を作り出せるのだ。過去や未来の人、アフリカの人のことなんて考えてもどうしようもないのだ。


 自分の性格は、遺伝子(内部)と外界からの刺激(外部)で決まるし、それでしか決まらないという言い方もできる。「感受性」は自分の性格を決めるし、自分の人生を決めるという言い方もできるだろう。


 同じことがあったとしても状況に応じて、それをどう捉えるか、自分がどう”感受するか”は異なる。よく分かると思うが、同じ1時間でもしていることによっては長いと思ったり短いと思ったりする。人と同じ料理を食べていても、仲のいい人と食べているか、喧嘩していやいや食べているのかでは味は違うだろう。していることは一緒だ。感受性によって、捉え方が変えられるのだ。


 どうだろう、魔法のように思えないか。言葉を変えると洗脳だが、思いようによっては、明らかな犯罪も正義なのだ。


 自分の性格が内部と外部で決まるというのは先ほど話した。外部が4割握っていると仮定すると、それをただの”思い込み”でどうにかできるという話だ。そんな大事なものを自分で破壊しているようではいけないだろう?というのが『自分の感受性くらい』というお話ではないのか。


 そんなことができるのなら、人間はみんな幸せで。「なにごともポジティブに行こう!」これは簡単にできることじゃないし、できたとしても実際に「いい方に」働くかは疑問である。


 だからこその、魔法。80余年の人生で少しくらい魔法を使えるようになりたいでしょう?



 最後に

 本編とは関係ないお話を少し。そもそも本編といっても、行ったり来たりして、自分の問題提起に追いついていないところがあるかもしれない。それは置いておいて、僕はこれを書きながら『無題』のことを思い出していた。僕の考えの引き出しというのは無限にあるわけではないから、似たようなことを何回か書いている気がする。そう、無題に。そもそもの話をすると、これと『無題』はなにが違うのだろうか。前作では自分のことはもちろん、日記的な部分が多いお話もあった。それをこちらでは、「自分とは」ということに着目して書いていこう、というのが出発点であった。ただ、そんなに上手に住み分けができているわけではなくて、こちらで自分とは関係のない、ただの日記だったり、本当になにを書いているのかわからない文章もあるだろう。自虐じゃなくてね。暇だから、というか理由なく起きていた午前二時にルーズリーフに書いた文章をそのまま、投稿したり。それは「投稿」という行為自体が一種の喜びであるから、というふうにも考えられるかもしれない。僕は書きたくて、しかもそれをひとりでもいいから読んでほしいという欲があるのだろう。この”ひとりでも”というのは別に誇張でもなんでもなくて、閲覧数が0の日が結構多くて、1つ付けば、僕は嬉しいと思う。なんだか、その人に対して手紙を書いているみたい。なんだか不公平な話だけどね。書きたいとさっき言った。そうだ、書きたいのだ。僕は随筆はすぐに書くことが頭に浮かんでいる、そしてキーボードのたたき心地がいい、これくらいの理由で書いている。小説はアイデアはあっても、書くとなるととても難しいという泣き言をオホーツク海に。今日、本屋さんにいって又吉さんのエッセイ集を読んでみてびっくりした。僕も自分の文章を随筆とか、エッセイとか名乗っているけれど、本を出すような人のエッセイって、こんなに満足感があるものなんだ、と。僕は住野さんの本を買うお金しか持っていってなかったからそれは買えなかったけどね。一編だけ読んですごく満足した。僕も上手な文章を書きたいのはもちろんだ。「上手」とはなんだろう。さあね。それぞれの人の感受性次第だ。本屋大賞で、一位以外の作品に票が入っていなかったら、そんなのおかしいでしょ。そういうことだ。人の好みだ。捨て台詞のように、人間って不思議。ああ、あれか。僕は今携帯がなくて、Twitterという、日常を呟けるアプリがないからここでそれを果たしているのかもしれない。それも立派な(?)理由だ。人間って、不思議。雨は強まってきた。今は午前1時11分。なんだかいいことがありそう。もういいや、眠くなるか、気が済むまで書こう。僕の、”句読点”についてのお話。みなさん(ひとりだけだとしても)は、僕の文章を読んで、句読点についてなにか感じたことはあるだろうか。やっぱり多いかな。僕は気分次第で打っているとしか言えないけどね。だいたい、句点なんて日本語だと文節に分けられるところ全部に打っても読めるんだからいいじゃないか。そうなっていないのが『よるのばけもの』に出てくる、矢野さつきさんだ。読んだ人は知ってるでしょ。僕の地元の図書館には、住野よるさんの作品が全作あって、嬉しい気持ちになった。まあ、文節に分けられるところすべてに打ってたら、僕の現代文の先生に怒られてしまう。いつも、字が薄いって、怒られる人だ。思い出した、句点を打つと、その前の言葉が強調されるらしい。まあ、驚くことじゃないよね。まあ、みなさんがどう思おうとも今まで通りの句読点の仕方で僕はやっていくしかないのだけれどね。推薦入試のための小論文を書く練習をしていて、800字って長いなって思っていたけれど、あっというまだ。楽しいからかな。そうだとしたら、僕の感受性がうまく働いてくれたということなんだ。ありがとね。ここでは一言一句に気を遣っているわけじゃないというか、そんなのしてたら、いや、やっぱしなきゃいけないかな。まあとにかくできる限りは気をつけるけどね。どっちにしても僕の現代文の先生にこの文章を見られたら「なってない!」って言われるだろうし、友達に見られたらそれは単純に恥ずかしいな。今さらか。流石にみんな飽きたでしょ笑。どっちでも、僕は嬉しい気がする、不思議な感受性だ。かこーん。そうだ、擬音も擬態も、僕は違和感がないというか、できる限りひらがなを使う。理由は単純で好きだから。気持ち良い音だ、ししおどし。では横になろうかな。明日、日光よりも、たまにはししおどしで起こしてほしいな。うん、では。


 叶えたい夢になんて名前をつけようか、

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