6.秋波

 僕が初めてこの熟語を見たとき、とても美しいと思ったよ。そして、どんな意味を持っているんだろう、とね。ぱっとイメージするのは、雄大な自然を表す熟語なのかなあということくらいだろうか。僕がこの漢字を初めて見たのは、現代文の試験中であったからそんなに悠長とはしていられなかったけれど。しかも、そのときに漢字は20問くらい出されたと思うのだが、ろくにわかるものがなかった。特に四字熟語が難しかったかな。そんな中で、「シュウハ」と片仮名の部分を答える問題だったが、わからない漢字のうちのひとつとしか思っていなかった。復習して、この単語の意味を調べた。旺文社様の国語辞典からそのまま引用させてもらおう。「①美人の涼しい目元。②女性の色っぽい目つき。」慣用表現の「秋波を送る。」では、女性が色目を使うということを意味するらしい。まさか、「秋の波」で女性の目元を表すとはね、夢にも思わなかったさ。当時の僕は。今の僕はすっかり覚えてしまった。というのも、その現代文の先生はなんとかの一つ覚えみたいに同じ問題ばっかり出すものだから、この漢字も試験で3回くらい書いた記憶がある。それだけ重要なことってことだろうね。漢字は書ける方だと自負していた節もあったが、その願いは打ち砕かれてしまった。漢検の2級の予想問題とかはできた気もするけど、大学入試の二次試験とかはもっと難しい問題を問うてくる。緊張の中で漢字はすべて合わせないといけないのだから、なかなかこくというものだ。大学入試の憂鬱についてはいくらでも書けそうな気もするので、このあたりのとどめておこうか。


 この出来事、と呼ぶのは仰々しいが、からはいろいろなことが書ける。勘違いとか思い込みとか、ものごとの二面性について、とかね。 ここではどうだろう、思い込みについて書くことにしようか。この随筆のキャッチコピーで「筆者が自分、人間の不思議を問う。」と銘打っている以上、少しはそれっぽいことも考えたいな。僕は根っからの哲学者とかそういうわけではないので、常になにかものごとを考えているわけではない。こうやって、文章を書くときをもちろん考えているが、それは非常に刺激となる。頭で思考がまとまりきらなかったり、浮かんでいることを言葉にできなかったり、いろいろな乗り越えないといけないことはある。論文を書くときなど、日本語はややこしすぎるのでラテン語とか英語で考えるようにしているという人にも出会ったことがある。バイリンガルの人とかに聞くと、〇〇語で話しているときはなぜか怒りにくい、とか、そういうのを聞いておもしろいなと思ったこともある。


 思い込みというのは、そんなに僕にとっては望ましくはないものだと思っているが、思い込みなしでは生きていけないというのは事実だと思うのだ。そもそも、思い込みと推測というものはどのように違うのだろうか。推測というのは根拠が必要なものだろう。ただ、火のないところから煙は立たぬというように、まったくなにもないところから思い込みも生まれないと思うのだ。推測というのは思い込みとは紙一重のようだ。自分が考えている以上、「客観的」にはどうしてもなれないというのは僕が幾度か書いていることである。推測というのは客観的だという意見もあるかもしれないが、個人が述べている以上、客観的ということはありえない。政府とか協会が述べたとしても、それらは個人の集まりに過ぎないので、やはり客観的ではないのだ。つまり、客観的というのは存在しないものである。人々が、ものごとに説得力を持たせるために作り出した幻想や欲望である。なんら、おとぎ話とは変わりがない。


 少し話がずれてしまった。ようするに、客観的というものは存在しないのだから「思い込み」も「推測」も主観的という意味では一緒である。僕が違いとして述べたいのは、そこに正負の感情が入っているかということだ。人が思い込みをするときには、これから先は良くなるだろうという「いい思い込み」と、どんどん悪くなっているだろうという「悪い思い込み」がある。推測では、主観が言っていることなので完全になくすということは不可能だが、その正負の感情を入れない努力を欠かしてはならない。その努力を欠かしたときに、「思い込み」は生まれると思うのだ。ただ、そもそも思い込みが悪いことだとは思わない。人は、思い込みを持たないようにしようと思ったとしても、それを実行するのは不可能なのである。極端な例だが、海で漂流しているときなど、いい思い込みをしないと生きていけないだろう? そう、推測とは逆の話だが、「いい思い込みをしよう」と努力することで、実際にものごとが好転する可能性があるということをまず、認めなければいけないと思う。


 「心配事の9割は起こらない。」という本を見たことがある。読んだことはない。杞憂ということだろう、おそらく。それも、思い込みについての話である。上記の題名を言い換えると、「心配事の9割は思い込みである。だから、起こらない。」人間は、自らのことを客観的に見ることはできない。自分を足が遅いとか頭がいいとか思ったとしても、それらは主観の塊である。全員の主観が集まり、ものごとをそれに照らし合わせて「客観らしい」ことは判断できると思う。ただ、それは客観というものの真似事に過ぎず、主観の集まりでしかないと思うのだ。

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