5.草稿

 特にすることもないので、久しぶりに長々と書いていきたいと思う。最近気づいたこととしては、僕の文体が以前、随筆を書いていたときと比べて大きく変わっているということだ。何なら、主語も変わっていることがある。前は「僕」しか使っていなかったが、さっき読み返してみると「私」という語を見つけた。全体的に堅い文章になっているのかもしれない。思い当たる節はひとつ、僕が自分の文章に論理性を求め始めたということくらいだろうか。その理由もわからないけれどね。「情けは人の為ならず」ということわざがある。意味を誤解している人が多いというのはよく聞く。本来の意味は、「人のためにしたことは巡り巡って自分のところに帰ってくる」というものだ。ただ、こんなにも利己主義を根拠にして人を助けたいだろうか。この意味でこの言葉を人の前で言いたい、ということはあまりないような気がする。僕はそこまで善人ではないと思うけれども、学校とか寮にごみがあったりすると拾うことが”多い”。あんまり触りたくないものとかが落ちているときは無視をすることが多いけどね。これは、自分の手を汚したくないからに他ならない。自分にとって害にならない程度のことだったら、少しくらいは善いことをしようと僕が思っているのだろう。これは利己主義だ。結局は自分のためだ。僕は、「思ったことができなかった自分」というのをなかなか許せないこともある。どうしようもできないことはおいておいて、少し勇気があれば、実力があればというところでできなかったことがあるとなかなか深く考え込んでしまうものだ。それを避けるために、先生にこまめに挨拶をするとか、小さなゴミを拾うとか、自分のためにしているというわけだ。


 小説家というものは誰のために存在しているのだろうか。小説家というのはどうして存在していられるのだろうか。ここで、読者の存在というのは避けては通れない道だろう。読者がいるから、小説家は生きていける。その意味では、小説家は読者のために身を削って、一文一文、一単語一単語を綴っていると考えることもできるのではないだろうか。ここで先程の考えを踏まえてみると、僕は基本的には自分のためにならないことはしたくはないし、そんなにする方だとも思っていない。要するに、文章を書くことが僕の救いとなっているというふうに考えるほかはない。


 人間というものは、非常に身勝手な生きものだ、と僕が断言するのは少し違うような気がするけれども、僕は、自分が身勝手だというのはわかる気がする。僕は、完結に言うと、自分がしたいことがしたいのだ。そうでない人はいるのか、というのは甚だ疑問だが、僕が見る中で、「この人は他人のために自らを削る部分が多い」と感じることはある。ただ、何回か書いているように、それがその人のためであるという可能性もあるわけで、難しい話だ。僕は自分のしたいことがしたいし、したいという思いが強いときには、あまり周りを見ないようにしているので、それでなにか不利益を被ったという人には謝りたい。


 最後にまとめることにする。人というものは、自分がしたいことがしたいのだ。ただ、その「したいこと」が人によって違いすぎる。その中には、「他人のために身を捧げる」ことが含まれている場合もあり、そういうときは、外から見たら利他的な人にしか見えなくても実際は利己的な人であるのだ。無理に、人のために生きよとは言えない。とある校長先生が、「人と助け合うことはもっとも興奮するビジネスだ。」みたいなことを言っていた気がする。心から言っているのか、教育だから言っているのかよくわからないけれどね。僕が言いたいのは、自分のために生きよということだ。理論と実践は違うのはもちろんのことだが、理想から始めねば、どうにもならないだろう?

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