亜米利加の邪馬台国

仙藤大猩

第一章 亜米利加 1

 壊れたスマートフォンからデータを取り出したいという女がやって来た。

 かなり前から壊れているらしい。

 けれど、発売されるのは三カ月も先なのだという。


「仰っている意味がよく分からないのですが」


 作業机の耐熱絶縁マットに一ミリほどの小さなネジをピンセットで整列させながら、増渕孝治ますぶちたかはるは女に聞き質した。


 建付けの悪いガラス窓から漏れ聞こえていたミンミンゼミの鳴き声が、じぃじぃと聞くだけで暑さが増幅するアブラゼミのそれに変わっている。もう昼頃なのだろう。

大東京の一角を成す此処――秋葉原にもセミはいる。とは言っても、此処は観光客が殺到しているあの秋葉原ではない。そこから少し離れただ。


 いま秋葉原と呼ばれている一帯は、住所が千代田区外神田。秋葉原の〈あ〉の字もない。そもそもは〈神田青果市場〉だった場所だ。第二次世界大戦のあと、そこにラジオや電子部品を扱う店が集まって電気街となり、たまたま近くにあった駅〈秋葉原〉の名前で呼ばれるようになったのである。


 一方、こちら本当の秋葉原は、JR山手線と首都高速一号線に挟まれた蔵前橋通りから南の一ブロック。わずか百メートル四方の小さな区画ではあるけれど、江戸時代に火伏せの神様〈秋葉大権現〉を祀っていた避難所〈秋葉の原〉であり、秋葉原駅の名の由来でもある場所だ。戦後の旧東京市三十五区の再編で台東区が出来た時に、秋葉原という住所が与えられた由緒正しき秋葉原である。


 近代的なビルが建ち並ぶマルチメディアの街とは対照的に、本当の秋葉原は古い住宅と町工場が混在する区域だ。住民は六十人ほどで人通りは殆ど無い。夏にはJR線沿いに整備された小さな公園の植栽に、行き場をなくした都会のセミたちが住民の数を超えるほど群がっていた。


 流れる時間からこぼれ落ちそうな、そんな雰囲気に魅かれて増渕は住み着いた。築半世紀を超えたこのボロアパートの一室に〈秋葉原データ修復サービス〉の看板を掲げて、もう六年になる。


 増渕はぼさぼさの頭に装着していたLEDライトを消して、分解中のハードディスクを作業机の脇に山積みにしているノートパソコンの上に置いた。メガネに取り付けていた倍率三倍の光学双眼拡大鏡を跳ね上げて振り返ると、玄関脇の台所を取っ払って造った来客用スペースに、気が強そうな綺麗な眉の女が座っていた。


「言った通りよ」


 女は突き放すようにそう言って、スキニーパンツを纏わせた細く長い足を組み直した。真っ赤なブラウスの大きく開いた胸元に汗が一筋流れている。


「エアコンつけましょうか」


 女の返事を待たずに、作業机に散乱していた機器の中からリモコンを探し出した。足元に設置してある二台のコンピュータの電源を落とし、モニターを消して、びくびくしながらエアコンのスイッチを入れる。低い唸りを上げて埃の臭いが舞った。


 吹き出し口の前で冷風を確認するふりをしてブレーカーが落ちないか様子をみる。電気契約を最小アンペアにしているのだ。まあ、そんな懐事情だから、自ずと夏の間は深夜から午前中のまだ暑くなる前に仕事をするようになっていた。


 増渕は女の正面に座って、取り繕うつもりで敢えて生真面目な口調で訊いた。


「三カ月後に発売ということは、試作品ということでしょうか」

「そんなのはどうでもいいの」


 質問をばっさりと切り捨てて、女が訊き返してくる。


「今度発売されるスマホって、壊れてからどのくらいデータはもつの?」


 これだけの美人だと高飛車な物言いも様になる、と感心した。女の態度に対抗して少しだけ意地悪を言ってみた。


「試作品でしたら、メーカーに持って行かれたほうが良いのではありませんか」


 普通の修理やデータの救済なら、試作品でなくともまずはメーカーや大手の業者に問い合わせるだろう。こんな怪しげな零細業者をわざわざ探して来ることはない。此処は大っぴらに出来ない訳ありの客が来る場所なのだ。


 思い起こせば、最初の客は誰もが知る大企業の社長夫人だった。

 浮気に気付いた夫人が、旦那に「スマホを見せなさい」と詰め寄ると、慌てた旦那がテーブルの角に叩きつけて壊してしまった。離婚調停の証拠が欲しいから、何とかしてデータを取り出して欲しい、とお忍びでやって来たのだ。


 そのスマートフォンには経済界のドンと呼ばれている老社長が、幼稚園児の恰好をして中年女性にご飯を食べさせてもらっている画像や、その中年女性と頻繁に連絡していた記録が入っていた。全てのデータを抜き出し、USBメモリにコピーして夫人に渡した。


 二週間ほど前の女子高生の依頼は壮絶だった。

 怯えた様子で駆け込んで来た彼女は、震える手でスマートフォンを差し出した。元彼を睡眠薬で眠らせているから、目を覚ます前に自分の恥ずかしい画像を完全に消去して欲しいという。


 データの抜き取りを始めると、彼女だけではなく大勢の高校生と思われる若い女性が凌辱されている光景が次々と現れた。こんな所に来るよりも警察に相談したほうがよかったかも知れない、そう思って相当迷った末に全て消して、画像を二度と保存できないように細工をしておいた。この時ばかりは万が一のためにやっているUSBメモリへのコピーも取らなかった。作業が終わるのを待っていた彼女は、ずっと此処で泣いていたのだ。 


 さて、この高飛車な美女はどんな理由で此処に来たのだろうか。

 女が「実は……」と、神妙な顔に変わるのを待った。けれど、その性根の悪い期待は女の言葉で打ち砕かれた。


「あんただから来たのよ、増渕くん」


 初対面の女の口から突然自分の名前が出て、どきりと硬直した。


「同い年だから〈くん〉でいいわよね」


 女が名刺を手渡してきた。真っ赤なミラーコートの台紙に、大きな黒い文字で肩書と名前だけが書かれている。


「フリージャーナリスト、刀根とねマリ……さん。なぜ僕の名前を?」 

「マスブチタカハル。京都大学物理工学科卒、三十歳独身。新型石英ガラスメモリの開発で将来を嘱望されていたけど……、続けようか」

「もういいです」


 刀根が満足そうな笑みを浮かべて、肩にかかっている手入れが行き届いていそうなさらさらの黒髪をかき上げた。


「なんで僕を?」

「あんたに訊いているの。今度発売されるスマホのデータはどのくらいもつの?」


 質問には答えず、強引に話を進めていく刀根のペエスに乗せられていく。


「では、そのスマホを見せてください」

「持って来ていない。まずはデータを引き出せるのかどうかを知りたいのよ」

「そうですか。では電源は入りますか」 

「壊れているって言ってるじゃない」

「破損の状況は?」

「かなり前からぼろぼろよ」


 手掛かりの全く無い答えに、増渕は状態を推し量るしかなかった。


 スマートフォンに搭載されている記憶装置には、通電していなくても記憶を保持する不揮発性記憶素子を利用した半導体メモリが使われている。数センチ角の小さな基盤に数百万から数十億もの微細なセルが敷き詰められていて、そのひとつひとつに電子を蓄積するフローティングゲートという場所がある。

 電子が入ると〈0〉、入らなければ〈1〉としてデジタルデータを記録していくのだ。書き込む時には電圧でフローティングゲートの中に電子を押し込むのだけれど、その時にセルの入口となる絶縁体の酸化膜に極々小さな傷が付いてしまう。そこから少しずつ電子が漏れ出して、無通電の状態が長期間続くと記録が失われてしまう。つまり半導体メモリのデータには寿命がある。およそ十年だ。

 日本で初めてスマートフォンが発売されたのが二〇〇八年。ということは、買った直後に壊れたのだとしても、今年でちょうど十年か。


「ぎりぎり、データを取り出せるかも知れませんよ」


 増渕は作業机の下から段ボール箱を引き出した。そこに古いスマートフォンを詰め込んでいる。依頼者たちがデータを取り出したあとに置いていったものだ。

 多くの人にとってスマートフォンそのものは入れ物に過ぎない。大切なのはその中のデータだ。だからこそ、内蔵させる記憶装置の信頼度を上げる研究が行われている。増渕もその研究に没頭したひとりだった。


 古いスマートフォンを一つ取り出して手早く分解し、基盤を取り出して、隅に張り付けられている一センチ角の黒く薄い板をピンセットで指しながら、刀根に説明を試みた。


「これが半導体メモリです。これが破損していると……」


 刀根はその言葉もすぐに遮って、いらいらと声を荒げた。 


「違うのよ! 今度発売されるスマホだって言ってるでしょ」


 基盤を持っていた手元に、刀根がスマートフォンのカタログを突き付けてきた。

 三カ月先の――〈十月一日発売予定〉の文字の下にラインナップが並んでいて、そのひとつに大きく赤丸が付けられている。キャッチコピーは、〈超長期間記憶! 新型石英ガラスメモリ搭載!〉だった。


「増渕くん。私は、あんたが作ったメモリの寿命を訊いているの」


 その言葉に殴られたような衝撃を受けた。

 あれが……、あれが遂に商品化されるのか。

 刀根が「聞いているの?」と詰め寄って来たけれど上の空だった。心の底に封じ込めた筈の過去が溢れ出してきたからだ。 


 ――そもそもは八年前のことだ。


 三条通り沿いの行きつけの喫茶店から仮装行列が見えていたから、十月も終わろうとしている頃だった。

 春の葵祭と夏の祇園祭に並ぶ京都三大祭のひとつ、秋の時代祭では京都の歴史を再現する大行列が最大の見どころだ。烏羽色の三斎羽織を纏った明治維新の勤王隊から始まって、金蒔絵の駕籠を取り巻く徳川城使上洛列、豊臣秀吉の豪華絢爛な牛車による参朝と、時間を逆行しながら、およそ千二百年前の桓武天皇の時代までタイムトリップする演出だ。


 楠木正成の一行が店の前に差し掛かった時、増渕は「ベンチャーを立ち上げよう」と、坂本雄一さかもとゆういちに切り出した。


 坂本は京都大学で材料工学を専攻する同期だ。研究に没頭することで人間関係の煩わしさを避けている増渕とは違って、坂本は誰とでも会話を成立させられるコミュニケーション能力に長けた、身綺麗な好青年だった。

 坂本とならうまくやれると思った。

 専攻科に入ってすぐに増渕は画期的な発明をしていた。その発明は長期間のデータ保存が可能な石英ガラスメモリが、従来の半導体メモリと比べて唯一ともいえる難点を解決する可能性を秘めていた。


 石英ガラスメモリとは極小極薄のガラス板を何層も重ねたものだ。そのガラス板にウイルスほどの小さな幅の超短パルスレーザーを使い、微細な凸凹としてデジタルデータを刻んでいく。言うならばデジタル版のロゼッタストーンである。熱や水に強く電気も通さない石英ガラスに刻み込まれた情報は、マグマにでも放り込まない限り失われることはない。

 その反面、物理的に刻み込むという仕組みのためにデータの書き換えが難しい。公文書や映画などの大容量のデジタルアーカイブには適しているけれど、頻繁にデータの修正や上書きを繰り返すパソコンやスマートフォンには適さない、と考えられていた。


 増渕の発明は刻み込んだデータを何度も書き換えることが出来る、石英ガラスの精製方法だった。実用化に成功すれば欲しがる企業は少なくない。そう思って起業を決断した。唯一の気掛かりは会社の運営だった。営業先とのコミュニケーションが必要なのだ。そこで身近で最も適任だと思われる坂本に白羽の矢を立てた。


 坂本は増渕の提案を快諾し、二人は東京の亀戸にあった小さなガラス工房を買い取って会社を興した。


 意見が食い違い始めたのは一カ月ほど経ってからだった。


 坂本はメモリ容量を落として小型化するべきだと言い張った。それが売り込み先の要望でもあったようだ。増渕は坂本の提案を受け入れられなかった。永久的にデータが残せる記録メディアには大容量が必須だと考えていたのだ。


 お互いに違う目的を持ち始めて一年、ようやく実用化の目途が立った頃には、意見の対立は決定的になっていて、坂本はこれまでの研究記録を持って姿を消した。

 営業活動は全て坂本に任せていたから相手先とアポを取るのも大変で、会えても大抵は「君じゃ話にならない。坂本はどうした」と、不満をぶつけられ続けた。


 風船が萎むように気力を失い、自堕落になっていく自分を正当化する言い訳を探した。どれだけ才能に恵まれていても、ちょっとした風向き次第で芽が出ないままの人もいる。否、芽が出ない人のほうが圧倒的多数なのだ。


 〈いい風〉が吹かなかっただけだ、と自分に思い込ませた。


 増渕は起業した時の莫大な借金を背負ってこのボロアパートに流れ着いた。坂本が大手メーカーに入ったのを知ったのは、それから随分経ってからのことだ。


 まさかこの依頼は、新製品で坂本に対処が出来ないトラブルが起こっているのか。 


「坂本に頼まれて来たんですか」


 増渕はパンフレットからようやく顔を上げて、刀根の眼を見据えた。


「協力しませんよ。そのくらいの意地は張ります」

「坂本? 聞いたことあるわね」


 刀根はトートバッグから〈取材メモ〉と書き殴られた真っ赤な手帳を出した。自己主張の強い汚い字だった。美人だからといって奇麗な字を書くわけではないのだな、と妙な感慨にふけりながら刀根の様子を窺う。


 刀根はぺらぺらと頁を捲って目当ての記述を見付けたのか、独り言のように「ああ、お飾りのほうね」と呟き、取材メモを閉じた。


「彼は、今そのメーカーの開発部にいるわ。必要なら呼ぶけど」


 増渕はぶるぶると首を振った。

 坂本の関係者ではないのか。ではライバル会社か。生き馬の目を抜く業界だ、模造品の改良や不具合の修正をさせられるのかも知れない。いろいろと思案していると、何が面白かったのか、刀根はふっと小さく噴き出した。


「あんた可愛いわ」


 口調は相変わらず高飛車だった。 


「で、本当は何年もつの?」


 もしもライバル会社からの依頼なら、坂本に復讐するいいチャンスなのかも知れない。これまで考えもしなかった思いが込み上げてきた。増渕は石英ガラスメモリに寿命が無いことを説明して、「ただ」と勿体ぶって言った。


「ただ、データの書き換えが出来るように素材に手を加えたので、実際の耐久性は分かりません。あくまで計算上の数値ですが、摂氏二百度の環境下でも十億年くらいは……」

「じゅうぶんよ!」


 刀根が大きな声が出したので、驚いて話すのを止めた。


「じゃあ、データは取り出せるのね」


 刀根が人差し指をピンと伸ばして、顔の前に突き出してきた。細くしなやかな指だ。爪には赤と金で花模様のネイルアートが施されている。


「一千万円でどう?」


 やはりライバル会社だ、と確信した。

 日本の携帯電話は一機種あたり数百億円もの開発費がかけられた時代もあった。それがスマートフォンになって随分下がったと聞いたことがある。液晶モニターなど必要な部品を組み合わせて、グーグル社が無償で提供しているOS〈アンドロイド〉をインストールするだけなのだ。だからこそ、モニターや内蔵カメラ、記憶装置が他機種との差別化のカギとなっている。一千万円程度の出費なら企業競争の中では大した額ではないのだろう。


「あんたの借金、三分の一は返せるでしょ。いい話だと思わない?」


 そんなことまで調べているのか、これは人の弱みを突いて交渉を円滑に進めようとしているのか、それとも唯単に気の赴くままストレートに話しているだけなのか。前者なら手強い商談相手、後者なら駆け引きを知らない甘ちゃんなのだろう。取り敢えず様子をみるつもりで言った。


「でも、うまい話には裏があるって言いますよね」


 刀根はまるで動じなかった。こちらの伸びるに任せて放ったらかしていた顎髭を掴んで、「この仕事、受けなさい」と命じた。


 反射的に「はい」と答えてしまった。


 手強い商談相手でも甘ちゃんでもなさそうだ。刀根が訪ねて来てから三十分も経っていないのに、すでに主従の関係が出来上がってしまった。他人より優位に立つ能力に秀でた人はいる。きっと刀根はその部類なのだ。根っからの女王様なのかも知れないが……


「いい子ね」と、口だけに笑みを浮かべた刀根からメモと航空券を渡された。 


「明日十一時、此処に来なさい」


 明日? あまりに突然ではないか。しかも航空券の行先は沖縄だった。


「レンタカーも借りておいたから」


 返事も聞かずに刀根は立ち上がり、「その髭は汚らしいから剃って来なさい」と振り返りもせずに出て行った。 


 刀根の蹂躙から二、三分経っただろうか、放心状態が解けて我に返った。

 エアコンを消して午前中にやっていた作業を再開する。

 浅草橋の筋者が、「近々ガサ入れがあるらしい」と持ち込んできた仕事だった。五台のパソコンから、台湾とのシラスウナギの密貿易に関する記録だけを完全に消去して欲しいという。それなりに面倒な作業だ。


 この依頼ではハードディスクの交換が出来ない。製造番号を調べられると即座にばれる。何を隠蔽したのか追及されることになるだろう。かと言って、普通に消去するだけでは必ずデータの痕跡が残っている。保磁力というやつだ。専門の捜査官の手に掛かるとあっという間に復元されてしまう。そもそも記録装置とはデータを消さないように保存しておくものなのだ。ではどうするか。


 増渕は五台のパソコンのデータを別のコンピュータにコピーして、部屋の奥に丸めて置いてある布団の、さらにその奥の段ボール箱からビデオデッキほどの機械を取り出した。自作した消去装置だ。


 ハードディスクは超微細な金属片の磁力の向きでデータを記録していて、近頃では保磁力も高められている。この装置でその保磁力を超える強力な磁気をハードディスクに照射して、金属片の磁力の向きを滅茶苦茶に破壊するのだ。そのあと、特殊な方法で再フォーマットして、コピーしていたデータから必要なものだけを戻していく。 


 作業が終わる頃には日が替わっていた。真っ暗の部屋で、増渕が頭に付けているLEDライトと二台のモニターを光源にして、作業机の周りだけが浮き立っている。


 依頼通りに仕事を済ませたパソコンを紙袋に入れ、増渕は二枚の張り紙を作った。外に出て一枚目の張り紙を二〇二号室――自分の部屋の看板の下に貼る。 


〈丸岡興行様、急用で外出します。ご依頼の品は隣の二〇三号室に預けてあります〉


 廊下の蛍光灯がちかちかと明滅していた。


 増渕が住むこのボロアパートは二階建ての六部屋。元々は隣にあった青果用梱包材工場の社員寮だった。社員と工場は平成元年の神田青果市場の移転に伴って大田区に移動したのに、社長がとんだ物好きで、築五十年を超えるこのアパートを残して、秋葉原に流れ着いた風変わりな技術者たちを安く住まわせている。

 月に一度、社長か奥さんが家賃を受け取りに来る時には、家賃以上の米や酒、野菜などを差し入れてくれる。若い技術者たちを応援してくれているのだろう。

 増渕もそんな社長の御眼鏡に適ったひとりだった。


 今でこそ人間関係が煩わしいと思っている増渕も、子どもの頃には人一倍に人に興味があった。言動がころころと変わる友人たちを面白がって観測する日々を続けた。皆どうしてコミュニケーションが取れるのか、何か特別な法則があるのだろうか。

 そのうちに法則を見付けられないまま、友達の輪から外れてしまったのだ。


 そんな増渕がメモリに傾倒していった切欠は小学三年の時だった。家族でエアコンを買うために秋葉原の電気街に来て、部品屋の店頭に並ぶ小さなトランジスタに魅了された。それは物理の法則に従って組み合わせると、様々な機能を発揮した。

 友達と遊ぶよりも、ラジオやステレオの組み立てに夢中になった。

 やがてそれが高性能なコンピュータに変わり、物理学を学ぶにつれて、この世界が〈量子〉と呼ばれる得体の知れないもので出来ていることを知った。それは極小の粒であり波動でもある。観測するまではそこにあるのかどうかもあやふやだという。訳が分からなかったけれど、人類は量子のひとつ〈電子〉を駆使して情報や指令を記憶させるという半導体記憶素子を生み出したのだ。


 訳の分からないものにも法則はある。増渕は極小の世界にのめり込んでいった。

 

 六年前、亀戸の工場を抵当に取られ住む場所も失って、子どもの頃に足繁く通った秋葉原の電気街にやって来た。この街なら一からやり直せると思ったのかも知れない。それなのに、増渕の原点だった街は大きく様変わりしていた。ゲームやアニメ、アイドルたちが街を埋め尽くし、観光客が溢れていた。途方に暮れて徘徊しているうちに、住所表記に〈秋葉原〉と書かれたこの一角に流れ着いた。

 別世界になっていた電気街と違って、混沌とした古い町並みに心が和んだ。ぼんやりとこのボロアパートを見ていたら、社長が声を掛けてきた。話しているうちに、こちらの境遇を知った社長が「此処に住んでいるのは君のような技術者ばかりだよ」と、入居を勧めてくれたのだ。


 住み始めた時は〈いい風〉が吹かなかった哀れな同類の吹き溜まりだと思っていた。でもそれは間違いだった。様々な事情で第一線では活躍できず、内心思うところはある筈なのに、皆そんなことは噯にも出さず〈今〉を楽しんでいたのだ。どんな境遇でも常に一歩先を目指そうという、技術者なりの情熱が無くなっていないことが心地よかった。いずれ自分も前向きになれるかも知れない、そう思わせてくれた。


 右隣の二〇一号室に住む大賀おおがはロボット工学の優秀な研究者だった。大学院時代に開発した画期的な姿勢制御システムを教授に奪われ、研究室から放逐されたのだけれど、此処に来てからは、それを上回る技術を駆使したメイドロボットを嬉々として作っている。一緒に飲むと試作品を御披露目しながら、どうすれば人を驚かせられるのか研究成果を力説して、それを実現してしまう情熱に毎度感心させられている。


 左隣の二〇三号室はゼンゾウさんの部屋だ。ゼンゾウさんは此処の一番の古株である。誰も本名を知らない。年齢も不詳で、大賀は四十歳くらいだと見ている。でも本当は六十歳近いのではないだろうか。これまで何をやっていたのかも、アメリカ国防省のシステムに侵入した有名なブラックハットハッカーだとか、逆にサイバー攻撃への迎撃システムを開発した救世主だとか定かではない。

 分かっているのはインターネットセキュリティへの造詣が深いということだけ。何らかの理由があって此処に身を隠しているのだろう。


 ゼンゾウさんは住民たちの中で最も部屋にいる。昼間でも深夜でも、いつ訪ねてもパソコンを操作して何かをプログラミングしているようなので、依頼人が受け取りにくるような言付けを頼むには適任者なのだ。

 但し、ゼンゾウさんとのコミュニケーションにはちょっとした慣れが必要だ。とにかく短い言葉しか話さない。しかもその言葉に幾つかの意味を含んでいる時がある。 

 会話とは相手が何を言おうとしているのか推測しながら行うけれど、ゼンゾウさんとの会話はそこに神経を集中させなければならない。人との付き合いが苦手というわけではない、と思う。恐らく物凄く頭の回転が速いのだ。これまでの言付けも問題なく熟してもらっているし、時には増渕よりも依頼主に詳しくなっていることもある。ただ、変わった人なのである。


 二〇三号室のドアの前で、「ゼンゾウさん、増渕です」と声を掛けた。


「わかった」


 これは増渕を認識してドアを開けても良いという許可と、言付けがあることを理解したという二つの意味を兼ねているのだろう。

 ドアを開けると、タワー型のコンピュータが壁沿いにずらりと並んでいる以外には何もない部屋の中央で、ゼンゾウさんが布団に包まって相変わらずパソコンを操作していた。

 髪は伸び放題で上半身裸のステテコ姿。ぱっと見はアマゾンのインディオが猛烈な勢いでパソコンのキーボードを叩いているような光景だ。

 手を止めてこちらを見上げたゼンゾウさんの顔は、やはり六十歳くらいに見えた。


「これです。パソコンが五台入っています」紙袋を少し上げてみせた。

「オウケイ」 


 ゼンゾウさんの視線を追ってドアの脇を見る。店屋物の丼鉢や寿司桶が綺麗に洗って並べられている。寿司桶の隣に紙袋を置いた。


「来るのは?」

「ヤクザです」そう答えたあとに、パソコンを取りに来る日のことを尋ねられたのかも知れないと思って、「一両日中には来ると思います」と付け加えた。

「怖いね」

「そうでもないですよ、昔気質の義理と人情に通じる連中です。お願いします」

「どこ?」


 これはどっちを訊いているのだろう。ヤクザの事務所か、それともこれから出掛けようとしている場所か。少し迷って一か八か出掛ける場所を言った。


「沖縄に行ってきます」

「いいね」

「お土産を買って来ますよ」

「いつ?」


 腕時計を見ると午前三時を過ぎていた。出発時間と帰って来る時のことを一度に答えた。


「羽田六時発なのでこれから出ます。まだいつ戻れるのか分かりません」

「大丈夫」

「ありがとうございます」ドアを閉めて、そこに二枚目の張り紙を貼り付けた。


〈丸岡興行様、ご依頼の品はこの部屋の住人が持っております。何か問題がありましたらこの部屋の住人が対処いたします〉


 自分の部屋に戻り、急いでノートパソコンと工具箱をバッグに詰め込んで駅へ向かった。ぱらぱらと雨が降ってきた。

 夜明け直前の梅雨空が先走りの太陽光を受けて秋葉原の街を薄紫色に染めている。深夜には存在感を放っていた街灯の明かりが、おぼろげな風景に溶け始めていた。


 刀根の言葉を思い出して、コンビニエンスストアの前で足を止める。

 ガラスに顔を映してみると、そこには見苦しく無精髭を延ばした臆病そうな男がいた。坂本に復讐だって? ざらざらと頬を撫でながら問い掛けた。何のために? それで何が変わる? 

 ……臆病そうな男は何も答えなかった。

 自分を睨め付けるのを止めて店に入り、使い捨ての髭剃りを買った。


 輪郭の曖昧な街が過去との境目を有耶無耶にしている気がして、振り切るように駅まで走った。この時刻、ヨドバシカメラ前の横断歩道には誰もいない。赤信号を無視して突っ切り、秋葉原駅の中央改札口を抜けてトイレに駆け込んだ。


 手荒く無精髭を剃り落す。勢いで顎を傷つけて幾筋かの血が流れた。構わずに朝一番の京浜東北線に乗った。


 羽田空港へ着くまでにこの仕事に対する姿勢、つまり坂本への復讐を腹に決めた。依頼されたスマホのメモリを坂本の会社を超えるようなレベルにまで改良しよう。

 六時一〇分発の全日空に乗る頃には気持ちも固まり、座席に着いてすぐに眠りに落ちた。


 坂本が土下座に来る夢を見て、目を覚ますともう乗客が飛行機を降り始めていた。


 


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