第弍話 触る、触れる

「義行、松葉杖って脇でもたれたらだめみたいね、ネットで調べたの」

 

 真子のギプスが後数日で取れる日の夜の食卓での会話が始まった。

 

「えっ、どうして」

 

 二人で〝いただきます〟と、声を揃えた後、義行は汁椀と箸を口に近づけてふーふーと味噌汁に息をかけていた。

 

「ネットで調べたんだけど、脇の下は、専門用語では腋窩えきかっていうみたいなんだけど、神経とか血管が沢山通っていて、松葉杖にもたれるとそれが圧迫されてしまうらしいの」

「ほう、だから真子は両手が変な感じするっていってたのか」

「恐らくそうだったみたい、でも、それを気づいた時は嬉しかったなぁ、人は直立二足が大切なのよ」

「やけに嬉しそうだな、怪我の功名か、怪我して直ぐは辛そうだったのに、喉元過ぎて、また転ばないでよ、心配したんだから」

「そうだね、気をつけなきゃね」

「お願いします、来週辺りだっけ、ギプス取れるの」

「そう来週かな、診察に行かなきゃ、それまでにまた怪我しちゃうと、振り出しにもどちゃうわね、気をつけます」

 

 真子は移動手段を松葉杖を使った歩行で、日常を過ごすことが当たり前のようになっていた。

 

 それから数日後、二人は有給休暇を取った。勿論、真子が診察を受けるためだった。

 

「何だか不思議、今日で松葉杖使わなくっていいのかしら、でも、元に戻るのか、やっぱり不思議」

「へぇ、なんか微妙って感じ」

 

 クリニックへ向かう車内では、真子はもう松葉杖を使わなくてすむことに現実味を感じきれないでいた。

 

「病院終わったらさ、昨日もいったけと、快気祝いに美味しいランチに行こうや」

 

 義行は真子の態度が不安を抱えているのか、それとも、他に何か違和感があるのか理解し難い状況になんとか明るい陽射しを当てようとしたが、効いてない気がしただけだった。

 

 外の空気はなにも変わらない、しかしながら、沈黙は流れ続けた。

 

 二人はクリニックに到着し、受付を済ませて待合室のソファーに腰掛けた。義行は真子の緊張感が高まることに気がつき、静かにしていることにした。

 

「ねぇねぇ、ギプスって電気ノコギリで切るんでしょ」

「えっ、怖いの、注射とかへっちゃらじゃん真子は」

「まぁそうだけど、初めての経験は不安なものよ」

 

 義行は真子が話しかけたことに対して、何日かぶりのことのように感じていた。

 

 石膏にも拘らず、円の刃の回転は金切音を吠え始めた。真子のギプスカットが始まった。

 

「怖いっ」

 

 真子のギプスは膝下近くから回転刃に侵略されていった。五センチくらい下方へ進んでいくと、喰いしばっていた上下の奥歯が離れ、声を出していた。

 

「もう先生、大工さんだった、びっくりよ」

「あはは、聞こえてきたよ、処置室から、歩いてごらんよ」

 

 真子はギプスカットが終わり、処置室前の控えのソファーで義行と気兼ねして小さくはしゃいでいた。

 

「そうね、でもさ、とても違和感、とても軽いの右足」

 

 真子は先ず、足首と足趾を動かした。

 

「動かすのは少し硬い感じ、うわっ、何この感覚、ジワーって痺れる感じ、待って待って、おかしい、おかしい」

 

 足の裏を床につけるとおかしな感覚を覚え、両手で膝の裏から太ももを抱えて足の裏を裏に浮かせてしまった。

 

「はっ、そうなんだ、久し振りに足の裏にダイレクトに体重がかかるからな、脹ら脛もホッソクなってるし」

「ほんとだ、脹ら脛ブヨブヨしてる、もう一度、足点けてみるね、ジワジワくる、うう」

 

 真子は不安を抱きながら、その奇異な感覚が徐々に弱まっていくことを意識していた。

 

「うん、慣れてきた、慣れてきた、おお」

 

 足の裏を床につける感覚が蘇ってきたと思った真子は、立ち上がろうと上体を前へ屈めたが、足の裏へ体重がかかるに連れ、再び痺れのような感覚が強まったのだった。

 

「少しづつでいいさ、焦るな」

 

 義行は自分自身には感じることができないことと捉えているが、擬かしさを抑えて声をかけた。

 

「そうね、うん、そうね」

 

 立ち上がることに、右足の痛みは感じないものの、それ以上に真子がこれまで経験したことがない不可思議な事態と二、三分間闘っていた。

 

「ふう、だいぶ慣れた、でもまだ歩くのは怖いわ」

「松葉杖使ったら」

 

 右側の顳顬こめかみからほほおとがいへひとすじ冷や汗を垂らした真子は冷静さを取り戻しつつ、松葉杖を手にし歩き始めた。

 

「あはは、変な感じだし、力をしっかり出せない感じ、あっ、直立、直立」

 

 真子は二つの松葉杖を使い、右足とそれとで身体を支える時も腰を入れるように伸びを意識して歩いた。

 

「うんうん、大丈夫大丈夫、でも直ぐに杖を手放すのは不安だわ」

 

 真子の不安はほぼなくなり、顔の右側のひとすじの汗は乾ききっていて、ほんのり跡だけが見え隠れしていた。

 

「大丈夫ですか、ギプスカットされた方々はそんな感じなんですよ、どうしても筋力が低下してしまいますから、松葉杖一本だけ使ってみたらどうでしょう」

 

 手の空いた看護師が真子へ声をかけてくれて、真子は一本の松葉杖でも歩けることを確認できた。

 

「はい、良い感じですね、リハビリです、もう少し松葉杖を使ってて良いと思います、使わなくても大丈夫になったら返して頂ければ構いませんので」

 

 看護師は真子の歩く姿を確認すると、そういって笑顔を見せ、早歩きで処置室へ戻っていった。

 

 そして真子と義行の二人は、一本だけ松葉杖を借りてクリニックを後にした。

 

「お疲れさん、痛みがなくなってて良かったな」

「そうね、ありがと、ねぇえ、公園行かない、もう少し歩く練習したいな、土を踏んでみたいし、それと芝生も」

 

 クリニックの駐車場から出た車内で、義行には予測できないことを真子が懇願してきた。

 

「うん、分かった、無理は禁物な」

 

 義行はそこまでやる必要はないと思っていたが、本人にしか分からない状況だろうとも思い、それを承諾した。

 

「予測できなかったなぁ、サンダルにしとけば良かったなぁ」

「えっ、なんで」

「あのね、公園でも裸足で歩いてみたいの、直接、足の裏へ刺激を与えたいなって思って」

「ほうほう、約一ヶ月か、右足を浮かせてたのは、そうな、裸足が良いかもな、いいじゃん、家に帰れば洗えばいいさ」

 

 程なくして二人は自宅近くの公園に着いた。駐車場に車を停めると、そこから真子は両足とも裸足となり、一本だけ松葉杖を使って歩いた。

 

「結構アスファルトってボコボコね」

「大丈夫、痛くはないか」

「うん、大丈夫、でも、左足より右足は鋭い感じがする、筋肉も使ってなかったから血液循環も悪くなってて、右足は眠ってた感じなんだろうね、怪我してみないとできない経験ね、あは、楽しい」

 

 真子はクリニックの床との違いを感じ取り、自分自身で実感できていることを嬉しく思っていた。

 

「真子、無理は禁物だぞー」

 

 加熱式タバコを車の傍でふかしている義行はゆっくり公園へ向かう真子に声をかけた。

 

 公園内へ入った真子は、最初に土だけの地面に辿り着いた。屋内の床やアスファルトよりは柔らかいことが分かった。芝生では短い草の葉先がチクチクし、背丈が長くなると柔らかく沈み込み、ふんわりとした感触を感じ取れた。

 そうやって、その場の状況を感じ取れることが、不安感を減らしていった。

 

「義行、私の左手支えてくれる、右足はまだ力が入りにくいけど、支えがあれば歩けるかも」

 

 義行は真子の左側へ付きいた。真子が嬉しそうに、楽しんでいるように見えるのが嬉しい限りであった。

 

 すると、真子の歩く速度はかなり遅くなった。

 

「やっぱり、力を出すのは直ぐに戻らないのね、職場では松葉杖必要ね」

「そっか、真子、偉い偉い」

「へへ、そうおう、確かにギプスを取ったらこんな状態になるなんて予想してなかったけど、右足の感覚は戻ったと思うし、後は歩けば力も元に戻るね、怖かったけど、分かって良かった」

 

 二人は、久し振りに満面の笑みを浮かべていた。

 

 人の皮膚には、有毛部と無毛部が存在する。体毛が生えない部分が掌と足の裏で、ここの二箇所が無毛部で、それ以外は有毛部ということになる。

 その違いは、先ず、無毛部は触った物体の質感に意識が向く。

 例えば、掌の場合、日常生活の中では物体を握り、若しくは、指で掴み、それを操作する。これは、その物体の硬さや肌触り等の質感を感じとり、力加減をコントロールしている。その操作には学習し記憶して育んだスキルが発揮される。

 一方、足の裏は地面の硬さや質感を受け取り、歩くことをコントロールする要素となる。

 例えば、普段、歩きなれた自宅周辺の歩道でも、雨が降り水溜りができていれば、滑らないように慎重になり、歩くスピードが遅くなる。若しくは、大股で避けたりする。これは特に見ること、すなわち、視覚情報と寄り添ってコントロールする。

 であるから、掌と足の裏の無毛部は触った物体へ意識が向くというわけだ。

 

 では、有毛部はというと、物体が触れた身体部位へ意識が向く。

 例えば、満員電車に乗った時に乗客同士は一般的にお互いが触れ合わないように肩や腕を身体の中心へ丸め固めるよう振る舞うと予想できる。言い換えると、そんな場で仁王立ちする人はいないといっても過言ではない。

 また、強風に向かって歩む場合も、身体を丸くしたりする。

 人の皮膚の有毛部と無毛部は基本的に分化した機能を発揮している。しかしながら、協合することも少なくはない。

 極端な例えになるが、台風のような暴風域になると、その風向きへ、特に、顔の前に手を広げ掌を向けることがあるであろう。

 身体を丸め固め、掌を向けて暴風に飛ばされた物体から前以て顔を保護するようにしているのだ。

 

 

 真子が自宅の中で松葉杖を使わなくてもよくなった数日後、義行と直立で見つめ合うことが、余裕を持って、できるようになっていた。

 

 

 人は直立を獲得して、それが日常となった時に、お互いが見つめ合うと、性的特徴が伺い易くなった。乳房や性器が身体の前面に位置し視界へ入り易くなったのだ。

 このことにより、愛し合う者同士で互いの魅力を感じ愛情を持つことが強化されるといえよう。

 

 

 真子と義行はそれ以来再び、これまで通り愛し合う行為を躊躇なくできることになった。

 そして、二人は一年後、子を儲けることとなり、幸せを育んでいくことになっていくのだ。

 

 続 次回、第参話 音

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無、意識 H.K @st3329

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