第壱話 歩

「あぁあ、あんな杖の使い方だと、怪我してる足に余計、負担がかかるのに」

「なんで、右足を怪我してるんだから、右手で杖持って、杖で体重支えてるじゃん」

 

 毎週月曜日の二一時から始まるドラマを見る習慣を持つ夫婦の会話が始まった。

 ドラマの登場人物の一人が右足を怪我して肘までカフがあるロフストランド杖を突いて歩いているシーンだった。

 

「右足でさぁ、体重を支える時に、杖にまで体重をかけると右腕の力が相当必要だよ、それとさぁ、身体だって右側に傾いて前屈みになって、あれじゃ相当身体への負担も大きいよ」

 

 夫の義行よしゆきの言葉は熱が高まっていった。

 

「だからよ、左手で杖を使えばいいんだ、右足と左手の杖で身体を支えれば身体を真っ直ぐにできるだろ、負担が和らぐさ、でも、あの杖よりは松葉杖の方がいいんじゃね」

「なるほどね」

 

 妻の真子まこは納得した表情を見せた。

 

 それから幾重の朝を迎えたある日、真子は職場で足をくじき転倒してしまった。

 幸い、骨折や挫傷等を負わなかったが、右足首を捻挫してしまった。

 詳細にいうと、右足関節前距腓靱帯損傷である。外踝そとくるぶしとその下の足首の骨を結ぶ靱帯を痛めたのだった。

 右足の裏が左足の内踝うちくるぶしの方向を向いて体重がかかってきたため、右前へ転倒してしまった。

 

「痛い、こんな痛いの初めて」

 

 不意に転倒してしまった真子は状況を把握しきれずにいて、自分自身だけの時を数秒間止めてしまい、我に返るとひとことそういった。

 

「真子さん、大丈夫ですか、どこが痛いの」

 

 傍にいた同僚も、その真子のひとことでは状況が把握できないでいた。

 

「私も分からない、でも痛い」

 

 その同僚は思わず左手を握り締めた。

 

「あっ、足、右の足が痛い、どうしよう」

「落ち着きましょう、真子さん、足のどこが痛いの」

 

 更に力を込めて真子の左手を握った。

 

「あっ、あっ、右の足の甲かしら、そう、そうみたい、千切れてない」

 

 漸く真子は怪我の状況を把握することができた。

 恐らく同僚に左手を強く握られて、負傷部位を特定する旨、いわれたからだ。

 

 突然のできごとは、普段通りの行いと比べて、フィードバックやアフォーダンスで制御できないことが多く、大脳皮質では前運動野や補足運動野がはたらき、適切な反応を見出せないことが多い。

 すなはち、失敗することが多くてその後の教訓を作り出す素になるものを築くひとつの要因へと成りえる。

 

 

「骨には異常ありませんが、ギプス固定が必要です、後、痛みが数日続くでしょうから痛み止めのお薬出しますね、松葉杖を貸し出ししますね」

 

 真子を診た整形外科クリニックの医師は、真子に淡々とそう告げた。

 

 真子は初めて松葉杖を使って歩くことになった。二本の松葉杖を手渡された時、ドラマを見ながら、杖の使い方を義行と会話したことを思い出した。

 

「お怪我した足にはなるべく体重をかけないようにして下さい、松葉杖を前に出して支えて左足を前に出して下さい、最初は上手くいかないと思いますが、慣れてくるので、転倒しないようにお気をつけ下さい」

 

 真子の頭の中では、義行との会話の記憶想起と整形外科クリニックの受付の女性の言葉が入り混じっていた。透さず義行が迎えにきてくれた。

 

「真子、大丈夫か、遅くなってごめんな」

「うん、まだ痛いんだけど、だいぶ落ち着いてきたよ」

「えっ、骨折なの」

「ううん、捻挫だよ、今はね捻挫でもギプス巻くんだって、痛々しいね、それに重いし」

「そっか、じゃあ、車まではおんぶするよ」

 

 義行は真子を気遣った。

 

「ありがとう、甘えるね、でも家に着いたら松葉杖の練習しなきゃね」

 

 真子は沈んでいた気持ちが、義行の心遣いで幾分は軽くなるも、罰が悪い気持ちを全て脱ぎ去ることはできないでいた。

 二人は自家用車にのり、義行が運転してクリニックの駐車場から出ると、真子は眠りに着いてしまった。

 

「真子、抱っこしたげるよ」

 

 自宅の駐車場に着くと、義行は真子を優しく起こし、お姫様抱っこで玄関まで連れていき、中に入るとそのまま寝室へ向かった。

 

「痛み止めの影響、副反応かしら、まだ眠いわ」

 

 義行は真子に笑顔を向けてベッドに下ろした。

 

 真子が松葉杖を使い始めて一週間が経った。

 

「ねぇ義行、最近ね、腕が怠いっていうか、違和感があるのよね、左右とも」

「松葉杖のせいじゃないの、腕に力入れすぎてるかもよ」

「そんなつもりはないんだけど、逆に脇でもたれてて力は使わずに済んでるけどね」

「そうだよな、松葉杖なんだから、そうする方が楽だと思う、俺も」

「うん、もう少し様子見てみる」

 

 数日後、真子はふと職場の窓から外を眺めていた。松葉杖を傍に置き、両手を縁に突いて背筋を伸ばし、遠くに視線を向けた。

 すると、真子の両肩は少しだけ力が抜け、腰と殿部に張りを覚えた。真子は暫くその感覚を味わっていた。

 

「お疲れさま真子さん、体調、落ち着いてきました、今日は表情が弛んでる感じですね」

 

 真子が転倒した時に駆けつけてくれた同僚が微笑みかけてきた。

 

「あっ、ほんとだ、久し振りに楽な感じ」

 

 真子は味わっていた感覚を心地良いことだと気がついた。

 

「やっぱ大変ですよね、真子さん松葉で歩いてると、顎を突き出して屁っ放り腰になってて、怪我した足、重そうで、あっ、すみません」

「え、やっ、いいの、そうなんだ私そんな姿勢で歩いてたんだ、歩く前から疲れてそうに見えるね」

 

 真子はそういうと、松葉杖を手にして歩き始めた。

 

「ほんとだ、変に力が入ってる、こうすれば良いのかしら」

 

 真子は左足から身体全体をぴんと伸ばし、脇で松葉杖にもたれかかることを止め、胸を開いた。

 

「この方が楽、かな」

「真子さん、良い感じ」

 

 頭や肩周りに滞っていた血液が流れ始めて軽くなり、左足がしっかり地面を踏みしめて殿部が引き締まった。

 そうなると、胸を張ることが楽にできた。更には、周辺を見渡し易くなっていた。

 また、松葉杖はこれまでよりも身体の外側の地面に突くことになっていた。

 

「うん、そうそう、姿勢良くしないと、なんだ」

 

 軽快に歩き出した真子は、半笑いのように口角が持ち上がり、それが同僚にも伝播して、二人の笑顔を側から見ていると滑稽な雰囲気を醸し出した。二人だけしか知覚できない小さな世界が広がった。

 

 真子の喜びは止まらず、歩くペースが速くなっていった。

 先ずは、松葉杖を前に出し、その二本で身体を支え、右足の爪先を地面に着くか着かないかくらいで宙に浮かせて左足を出す。

 ペースが速くなるに連れ、松葉杖を前方に出す軌道が外側へ弧を描くようになった。

 すると、その加速で右の松葉杖が脇から前へ抜けそうになった。だが、真子は反射的に脇を締めた。転倒しなかった。

 

「あっ、危ない」

「へへ、危なかった、でも分かった、もう大丈夫」

 バランスを整えると、真子は後ろを振り向いて苦笑いした。

 

「分かったの、あのね、人って直立二足歩行っていうでしょ、松葉杖を使って歩く時もそうじゃなきゃだめなのよ」

 

 真子は同僚にテンポ良く近づいて、ドヤ顔を見せた。

 

 人が歩き始める時の第一歩は、右足、左足ではない。

 例えば、一歩目を右足から出す時は、直立二足の立位から左足へ体重、重心を移動させ、その時同時に、下肢関節が伸展し足底面での支持基底に重心が移動する。

 その抗重力活動が骨盤上位身体の伸展活動を安定させる。

 その安定が右足の運動性を高め前方へ移動させ易くする。

 その後は慣性でシークエンスを作り出す。視点を上部に替えてみると、右足を前方に出すわけだから、体幹は右に捻れる。この捻れが加速を生み出す。

 このように上半身と下半身が相殺する動きが左右および上下の重心移動を安定させ、人はある程度の安定した直立二足歩行を実現している。

 言い換えると、人が歩くことは、身体を安定させ、それを崩し、再び安定させるといった相反する運動の繰り返しで成立する。

 真子は無意識的に、松葉杖を使用した歩行の中で、それを身体の動きから感知できたのだ。無意識的に。

 

 続 次回、第二話 触る、触れる

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