年末を調整する少年

渚 孝人

第1話

気がつくと僕は、どこでもない公園の近くの道路に車を停めてアボカド味のホットドッグを食べていた。


モグモグ、むしゃむしゃ。


細かいお天気雨が空から降ってきて、フロントガラスをポツポツと湿らせて行く。近くの家の屋根に取り付けられたソーラーパネルは、微妙な天気のせいで働くべきか否か判断に迷っているように見える。車のハザードランプは、規則的な速度でカチカチと点滅を続けている。


でも僕はそんなことはお構いなしにホットドッグを食べ続ける。


モグモグ、むしゃむしゃ。


隣の公園では、コートを着た老人がゆっくりとした動作で散歩を続けている。まるでずっと前に落とした無くし物を探しているみたいに。クリーム色のミニチュアダックスフントを連れた身なりの良いおばさんが、その隣をせかせかとした足取りで通り過ぎていく。


でも僕はホットドッグを食べ続けている。


モグモグ、むしゃむしゃ。


その公園はどこにでもあるような公園だった。三角形をしていて、3つ並んだ鉄棒があって、子供が中に隠れて遊べる遊具がある。公園のほとんどを占める草地では、一羽のカラスが何かをついばんでいる。草地の脇の歩道には、等間隔に石造りのドーナツ型のベンチが並んでいる。その奥には、不思議な形をしたオブジェが建てられている。


僕はただホットドッグを食べ続ける。


モグモグ、むしゃむしゃ。


公園の僕の車が停車している側には一列に木が並んで植えられている。でも冬で葉が散ってしまっているせいで木の名前は分からない。いや、春になったとしても分からないかも知れない。正直なところ僕は植物の名前にあまり詳しくないのだ。

そういえば何でこんな所にいるんだっけ?そうだ、僕はチェーンのコーヒー店でコーヒー豆を挽いてもらって、そのついでにアボカド味のホットドッグを買ったのだ。でも大晦日で店内はすごく混んでいたから、別のところで食べることにしたのだ。


僕は車でしばらくの間彷徨っていた。どのくらい走っていたかはよく覚えていない。ついさっきの事だったはずなのに。5分くらいだったような気もするし、あるいは1時間くらい適当に走っていたような気もする。それは正しく出鱈目なドライブだった。そしてとにかく気づいたらこの公園に着いていたのだ。でも公園に車を停めるスペースはなかったし雨も降っていたから、仕方なく僕は車の中にいるのだ。


そんなことを考えながら僕はホットドッグを食べ続けた。


モグモグ、むしゃむしゃ。


食べ終わってからしばらくの間、僕はフロントガラスに音もなく降り続けるお天気雨を眺めていた。座席の横のカップホルダーからコーヒーを手に取り、時間をかけてチビチビと飲んだ。ホットドックのついでに買ったトールサイズの「本日のコーヒー」は少しぬるくなっていた。このクセのない味わいから判断するに、本日のコーヒーはブラジル産の豆かも知れないとか何となく考えてみた。でもテレビ番組みたいに正解が発表されることはなかった。世界の謎というのは基本的には解明されないものなのだ。今からあのコーヒー店に戻って聞けば分かることなのだろうけれど、ここからどうやったら戻れるのか皆目見当も付かなかった。


その時コンコンという音がしたので運転席の窓を見ると、少年が立って手招きのようなジェスチャーをしていた。どうやら窓を下ろして欲しいという事らしい。僕は一応警戒して少年を数秒ほど見つめた。でもどこにでも居るような普通の少年だった。年齢は10歳くらいで、野球のクラブチームの帽子を被っていた。顔立ちは端正で髪は綺麗な坊ちゃん刈りにカットされていた。サイズの大きすぎる紺色のコートを着ていたが、少年らしくズボンは半ズボンだった。


僕がボタンを押して運転席の窓を下ろすと、少年は

「こんちは。」と言った。

まだ声変わりしていないソプラノだった。

「こんちは。」と幾分警戒したまま僕も答えた。

「あの、暇だったら手伝って貰えませんか?」と少年は言った。

「なんの手伝い?」と尋ねると、少年は持っている黒い手提げ袋を持ち上げて見せた。


良く分からなかったけれど僕は取り合えずドアを開けて車の外に出た。相手は少年だしそんなに怖がることもないだろうと思ったから。近所の人が見たらむしろ自分の方が誘拐犯だと思われたかも知れない。でもその時の僕はそこまで頭が回っていなかった。昼ご飯を食べた後はいつも少し眠くなってしまうのだ。お天気雨はいつの間にか止んでいたみたいだった。公園の向こう側の空では、虹が少しだけ顔を覗かせていた。


少年と僕はドーナツ型の石で出来たベンチに腰を下ろした。少年は何も言わずに雨に濡れた公園の草地をじっと眺めていた。僕は彼を横目に見ながら、ぬるくなった本日のコーヒーをチビチビと飲んでいた。時折冷たい風が吹いて、僕は思わずぶるっと身震いした。でも少年はちっとも寒くなさそうだった。少年というものは、何故かは知らないがとにかく寒さに強いのだ。


本日のコーヒーが残り少なくなったころ、少年は急に

「よし。」と言って立ち上がり、腰に手を当てて僕を見下ろした。

「始めましょうか。」

「何を?」と僕はポカンとして馬鹿みたいに尋ねた。一体彼は何を始めるのだ?


少年はすたすたと草地の方へ歩き始めた。僕は取り合えずカップをベンチに置いて、彼の後ろについて歩いた。草地に立つと、少年は持っていた黒い手提げ袋から竹とんぼのようなものを10本ほど取り出した。薄い茶色で、T字型をしている普通の竹とんぼだ。そしてそのうちの半分を僕に手渡した。


「何これ?」と僕は少年に尋ねた。

「竹とんぼ。」と彼は答えた。それは見れば分かる。

彼は竹とんぼのうちの一つを、手で勢いよくビュン、と回転させた。


竹とんぼは少年の手から空中へ垂直に浮かび上がった。勢いよく回る羽根の残像が、ヘリコプターのプロペラのように綺麗に映し出されている。昔の人は良くこんな遊びを思いついたものだと今さらながらに思う。


そういえば竹とんぼを見るなんて久しぶりだなあと僕はポケットに手を突っ込んでぼんやりと考えていた。それこそこの少年ぐらいの時に遊んだのが最後かも知れない。2000年ごろだからもうかれこれ20年以上前の話だ。あの頃は昔ながらの遊びがまだギリギリ残っていた頃だった。竹馬、一輪車、それから缶ぽっくりなんてものもあった。そういえばみんなで校庭にコースを作って缶ぽっくりで競争をしていた。テレビとかインターネットのゲームが発達した今から考えると、何だか遠い昔の話みたいだった。


ん?と僕は思った。


何かがおかしい。よく見ると竹とんぼは空中で止まったまま回転を続けているのだ。こんな事はあり得ない。アイザック・ニュートンが17世紀に発見したように、地球上にいる限りはあらゆるものに万有引力の法則が働いているはずである。じゃあなんで竹とんぼは落ちてこないのだ?


僕はしばらくの間、特に意味のない自問自答を続けていた。でも結局上手い説明を見つけることが出来ずに、困って隣に立っている少年の方を見た。すると彼は空中の竹とんぼを見上げて満足げに、

「いい感じだね。」とつぶやいた。


「これ、どういうこと?」と僕は尋ねた。

「年末を調整してるんだって。」と少年は答えた。

「は?」

「って、おじさんが言ってた。」と言いながら、少年は数メートルほど移動してまた一つ竹とんぼを飛ばした。その竹とんぼも同じように、垂直に浮かび上がって2メートルほどの高さで回転を続けた。


少年に指示されるままに、僕も手渡された分の竹とんぼを飛ばした。上手く浮かび上がるか心配だったのだけれど、昔の感覚を覚えていたのかちゃんと真上に飛ばすことが出来た。全部で10本ほどの竹とんぼが、公園の草地の上で円形に浮かび上がった。近所の人がこの光景を見たら腰を抜かすだろうなと思ったけれど、幸か不幸か周りには誰の姿もなかった。


円になった竹とんぼを下から見上げながら、

「これ、何で浮かんだままなの?」と僕は少年に尋ねた。

「知らない。」と少年は答えた。知らないんだ。


それで僕たちはしばらくの間、竹とんぼが浮かんでいるのをじっと見上げていた。その様子はどことなく古代の儀式を彷彿とさせた。この後突然大雪が降ってきたりして、と僕は思った。でもそんな事は起こらなかった。ただ竹とんぼが回転を続けているだけだ。


「こうやって、みんなの煩悩を吸い込んでるんだって。」

と少年が竹とんぼを見上げながら言った。

「えっと・・・それは除夜の鐘みたいな感じ?」と僕は少年に尋ねた。

少年はうんと頷いた。

なるほど、年末ならではの儀式だったのか。

「でも、今日は日本中で除夜の鐘を打ち鳴らすはずなのに、何で竹とんぼまで飛ばす必要があるの?」

「良く分かんないんだけど、最近は煩悩が増えすぎちゃって間に合わなくなってるんだって。」と少年は竹とんぼを見上げながら答えた。

「ふーん。」


確かにそうかも知れない、と僕は思った。インターネットが登場してからというもの、現代人の煩悩は加速度的に増える一方だ。除夜の鐘だけじゃ打ち消せないレベルになっていてもおかしくはない。

よく見たら回転する竹とんぼの羽根の周りで、空気が吸い込まれて行くようにも見えた。ああやってこの辺りの煩悩が吸い込まれているのだろうか。何となくだけれど、周りの空間が浄化されて行くような雰囲気があった。僕は一つ大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。気持ち良く澄んだ冬の空気だ。


「で、おじさんって誰なの?」と僕は少年に聞いてみた。

「おじさんはおじさんだよ。」と少年は答えた。まあそうだ。おじさんはおじさんだ。

やがて浄化が終わったのか、少年に言われて僕は竹とんぼを回収した。そこでようやく彼が僕に声をかけた理由が分かった。大人じゃないと竹とんぼが回転している位置に手が届かないのだ。


少年は全ての竹とんぼを黒い手提げ袋に入れて、

「よし。」とつぶやいた。

この後どうするのだろうと僕が見つめていると、少年は

「あ!」と言って空中を指さした。


何ごとかと思って見上げると、そこには青空が広がっているだけだった。何だよと思ってまた少年の方を見ると、彼はもうそこには居なかった。

「くそっ」と僕はつぶやいた。

まんまとやられてしまったみたいだ。


でも、良くは分からないけれど何だか楽しかったなと思った。彼はきっと、また次の場所に煩悩を回収しに行ったのだろう。ベンチを見ると紙コップが置きっぱなしになっていたので、拾って公園のゴミ箱に捨てた。それから僕は綺麗に晴れた青空を見上げて、大きく伸びをした。こんなに気持ちの良い年末は久しぶりだった。きっと彼のおかげだなと思って、僕は思わずふっと笑った。


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