第86話 豹変
「八神くんは彼女…欲しくないの?」
「え…それは…」
「私…私…」
背中に置かれた手も、その声も震えているのが分かる
俺は振り返り、七瀬さんの方に目をやると、少し俯き加減なんだけど、その目は真っ直ぐこちらを見ていて、更に言葉を重ねる
「…私は…彼氏、欲しい…」
「う、うん…」
「私は…」
七瀬さんは今にも泣き出しそうな、そんなせつない目をしていて、俺はこれ以上、その先の言葉を彼女に言わせるのは違うと思った
でも、告白するつもりではあったけど、今日、今ここでするつもりなんてなかったし、今までしたこともないから、なんて言えばいいか分からない。
もうそれなら、思ってることをそのまま伝えよう
「俺がグズグズしてたから、辛い想いさせちゃったんだよね。ごめん」
「八神くん…」
潤んだ瞳で俺を見つめる彼女は、儚くて壊れてしまいそうに感じて、俺は宝物にそっと触れるように彼女の手を取り、
「七瀬さんのことが…好きです」
「うぅ…ぐす…」
みんなからは高嶺の花だと思われてるのに、俺だって最初はそう思ってたのに、中身は普通の女の子で、こんなに可愛くて
「泣かせちゃってごめんね。あの…いつも一緒にいてくれてありがとう。よかったら、これからも俺と…ずっといてくれると嬉しい…です…」
「八神くん…!」
七瀬さんは繋いでいた手を自身の方に引くと、俺の体を抱き寄せ、ギュッと抱き締めた
「ぅえ!?…ちょ、ちょっと…」
「うぅ…好き…大好きなの…」
「七瀬さん…」
「ずっと…ずっと待ってた…」
「うん…ごめん…」
「もう…バカ…」
俺は「よかった」と思う反面、いや、それ以上に動揺していた
「ごめん…でもとりあえず…」
そう。とりあえず、これは色々とまずい。
お互い水着で、俺なんかは上半身裸で、七瀬さんも上はビキニのブラだけで、うん、本当にこれはまずい
俺がやんわりと引き離そうとすると、
「やだ…」
「いや、でもこれは…」
「やだ!」
「わ、分かった!分かったから、ちょっと落ち着こうか」
「落ち着いてるもん!」
「ほら、俺は上は何も着てないし、七瀬さんも…上…それだけだし…」
「いいの!」
よくないって!!
めちゃくちゃ柔らかいし、色々と当たってるんだよ!
「いや、本当にまずいから…せめて普通に服着てる時にしてよ…」
「む~…」
「お願いします…」
「じゃあ、八神くんからギュってして…」
「え…」
「え、じゃない」
明らかにちょっと拗ねてるけど、それよりも圧が凄い。いきなりどうしたんだ…
ていうか、めちゃくちゃ甘えられてる気がするんだけど…
「じゃ、じゃあ…一回だけだよ?」
「うん…」
おそるおそる背中に手を回し、軽く抱き締めたんだけど、「足りない」と怒られる
「いや!本当に今は無理なんだって!」
「…じゃあ、今じゃないならいいんだ…」
「え…」
「今の言葉、私…ちゃんと覚えてるから…」
「ふふ…」と笑う彼女は、なんだか目も虚ろな気がするし、急に豹変したみたいでちょっと怖いと思う俺だった
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
その後はなんとか普通に海で遊んだり、一緒にごはんも食べ、楽しく過ごした。
もちろんお昼は二人でシェアして、七瀬さんは食べさせてくれたりして、俺は一人心の中で「これ…関節キスなんじゃ…」なんて思ってたけど、彼女は終始ご機嫌だったので、「楽しそうだし、まあいいか」と、この場の空気に流されていた
でも帰る時間を考えて、少し早いけど3時過ぎには帰り支度を始めた
「もうちょっと遊びたかったけど、仕方ないね。また今度どっか行こう」
「うん!」
こうやって無邪気な笑顔を向けてくれる彼女は本当に可愛い。
こんな可愛い女の子が俺の彼女だなんて…
「じゃ、七瀬さん、帰ろっか」
「………」
「ん?どうしたの?」
「……名前…」
「名前?」
「…今日もずっと「七瀬さん」呼びだった」
「うん」
「もう私、彼女なのに…」
「っ…!」
プイっと顔を背け、分かりやすく拗ねてますアピールとか…む、胸が痛くなる…!
「あ、あの…」
「うん…」
「あ、彩香…さん…」
「「さん」呼びなの…?」
少し悲しそうに俺の顔を覗き込んでくるけど、これ以上俺にどうしろと…
あとは「彩香ちゃん」か呼び捨てだよな…
ああ!もう、分かったよ!
「…彩香…帰るよ」
「はぅ…」
「ほら、行くよ?」
「は、はい…」
顔が熱い…
気恥ずかしいのは間違いないけど、でも、なんだか彼氏になったっていう実感が湧いてくる気がして、少し嬉しくなる
バス停まで手を繋いで歩いて行くけど、隣で嬉しそうにくっついて、「えへへ」とデレる彼女が可愛すぎてマジで困る
そういえば、
「ねえ」
「どうしたの?」
「その…彩香は俺のことなんて呼ぶの?」
「え…」
「まさか自分だけ名前で呼ばせる気?」
今日はなんだかずっとやられっ放しだった気がしたから、俺は「ちょっと仕返ししてやろう」くらいの、軽い気持ちで聞いただけだったんだけど、
「…は、
「くっ…!」
てっきり同じように呼び捨てだと思ってたのに、こんなことになるなんて…
しかも照れくさそうに、チラチラこっち見てくるのがクソ可愛い
(なんだ…なんなんだ…変わり過ぎだろ…)
今日一日ですっかりバカップルみたいになっちゃった気がするけど、俺の気のせいだろうか。でも、それはそれでもういい。
うん。もうそういうことにしとく
だって、隣の彼女は幸せそうで、俺も幸せだからそれでいいんだ
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