雪の降る日に筋肉を見せる夫
空からしんしんと雪が舞い降りてきた。
そういえば、テッペイに初めてあった日も、こんな雪の日だったっけ。
ルリカは白い息を吐きながら、ふふと笑みをこぼした。
あのときと同じ、駅の改札を出たところで。あのときのように、ルリカはテッペイを待つ。
そうだ、あの日もテッペイが遅刻して、走ってやってきて……そして……
そこまで回想すると、ルリカの手をチョンと引っ張る者がいた。
視線を下ろすと、三歳になったばかりの息子が、鼻を赤くさせてルリカを見上げている。
「かっか、ちゃぶい」
亮平は舌足らずの言葉で、ルリカにそう訴えてきた。
「寒いよね、もうちょっと待ってね。ほら、かっかのマフラー巻いてあげる」
息子に自分のマフラーを巻いてあげると、亮平はイヒヒッと笑った。紛れもなく彼の息子であるその笑顔を見ると、かわいい反面、将来が少し心配になる。
それにしても、テッペイはまだだろうか。周りを見回すも、それらしき姿は見当たらない。
「とっと、なにか用事でもできたのかな。迎えにきてくれるって言ってたのにね」
「ねー」
用事で隣町に行っていたが、三時の電車で戻ると連絡はしてある。ルリカ一人だけなら待つのだが、小さい子ども連れではそうはいかない。
携帯に電話をかけてみるも、呼び出し音が響くだけだ。GPSでテッペイの位置を確認してみるが、携帯は家から動いていなかった。
今日はバレーのコーチの仕事は午前中だけで、もう終わっているはずである。
携帯を忘れて出かけたか、あるいは家で寝ていて気付いていないだけか。
「亮ちゃん、とっと来てないけど、バスに乗って帰ろうか」
「かえうー!」
これ以上待っていたら、テッペイが来るより先に亮平の機嫌が崩壊して大変なことになるだろう。そうなる前に、ルリカは帰ることに決めた。
バスで家に帰る旨をメッセージで送り、亮平と手を繋いで家に向かうバスに乗り込む。電車の中ではなんとか亮平の機嫌を保つことができたが、バスはどうだろうか。
「うあーい、ばしゅー!」
「騒がないよ。ちゃんと座ろうね」
「いっちばんうしろ、すわうー!」
亮平はバタバタと足音を立てて後ろの座席に飛び乗る。ルリカはすみませんと周りに頭を下げながら、亮平の隣に座った。
発車しますという声の後に、かくんと体が揺れて景色は動き始める。
「ばしゅ、ばしゅぅうううう!!」
「亮ちゃん、もうちょっと静かに、だよ」
「ばしゅーーーー!!」
こういう時にきつく言うと機嫌を悪くして泣き叫び、余計にうるさくなるのだ。新米かっかのルリカには、まだ対処がうまくできないでいる。
独身の頃は、わがまま放題の子どもを怒らずにいた親を見ると、ちゃんと叱ることもできないのかと思っていたものだが。叱りたくとも叱れない母親の気持ちが、自分に子ができることでルリカはようやくわかった。
さらに昨今は、きつく叱ったら叱ったで文句を言われてしまうのだから、たまったものではない。
なにをやっても文句を言われる中での子育ては、相当なストレスである。
相変わらず、ばしゅばしゅと大きな声で叫んでいる亮平を、前の席の人がジロリと睨んで舌打ちをしてきた。
あまり叱りたくはないが、『一応は注意をした』という実績を得たいがために、ルリカは口を開く。
「こら、亮平。大きな声出しちゃ、迷惑だよ」
「……っ」
ピタッと声が止むと同時に、みるみる亮平の顔が歪む。
これでも優しく言ったつもりだったが、しまったと思った時にはもうすでに遅かった。
「うっっぎゃあああああああああ!! ばしゅ、ばしゅう!! ぶぃやぁぁあああああああ」
バス中に響き渡る亮平の泣き声。この馬鹿でかい声は、紛れもなくテッペイの血を引いている。
「す、すみません、すみません! し、静かに! ほら、お菓子あるから、食べよう?」
「いだないーーーー!! おがじいだないーーーー!! かっかのばかあああああああ」
やっぱり睨まれても注意するんじゃなかったと毎回後悔するのだが、周りの目が気になってつい言ってしまうのだ。
しかしどうして子どもはこんなにもすぐ、機嫌がひっくり返ってしまうのだろうか。泣きそうなため息を吐きそうになりながらも、ルリカは亮平に手を差し延べる。
「ほら、亮ちゃん、抱っこしてあげるから……」
「いやらーー!! だっこいやーーーー!! かっかぎらいいぃぃいいい!!」
顔を涙と鼻水でぐずぐずにしながら、差し伸べた手を全力で拒否される。泣きそうな気分は一転し、ルリカはイライラが募り始めた。
こうなるのが嫌だから、迎えにきてほしかった。テッペイなら亮平をあやすのも上手だし、誰かに睨まれたところで、気にも止めないだろう。
それはそれでどうかとも思うが、テッペイがそばにいれば危害は加えられないだろうし、安心感がある。
そばにいてくれるだけで、よかったのに。
「なにしてんのよ、テッペイのバカッ」
心から漏れ出た文句をボソッと声に出した瞬間、大泣きしていたはずの亮平が後ろのガラスにべったりとへばりついた。
「とっと!」
「え?」
息子の声に目を広げながら後ろを振り向く。
バスのガラスの向こうに、誰かが全力でバスを追っている。まだまだ遠くて、ちゃんと顔は確認できない。
「とっと! とっとよー!」
「え? 本当に? あれとっと?」
「うん! とっとー! ぼくここよー!」
なぜか確信を持って手を振っている息子。バスが信号で止まると、その人影はぐんぐん近づいてきた。今度はルリカもガラスにへばりつく。
「ほんとだ、とっとだ!」
必死になって走っているテッペイ。バスに追いつく気なのだろうか。すでに発車してから結構な距離を走っているが。
「亮ちゃん、次で降りて、とっとと歩いて帰ろうか」
「や! ばしゅにいりゅ! とっと走うのみりゅ!」
子どもはなんと残酷な生き物だろうか。どうやらここから父親が必死で走っているのを見るのが楽しいらしい。
亮はきゃあきゃあと嬉しそうで、まぁいっかとルリカは合流することを諦めた。
駅から家までは五キロくらいのものだし、テッペイなら余裕で走れるだろう。
信号が青になるとまた遠くなり、停車すると近づいてくる。亮平と一緒にそれを楽しんでいたが、ふとあることにルリカは気付いた。
「あれ? とっと、最初は上着を着てたよね?」
最初見た時は、薄手のパーカーを着ていたはずのテッペイ。なのに今、Tシャツ一枚で走っている。
そしてまた遠くになり、今度近づいた時には。
「とっと、はだか〜」
きゃっきゃと拍手しながら喜ぶ亮平。
ゆらゆらと落ちる雪が、テッペイの肌に当たって消えていく。
Tシャツはどこに消えた?!
「ば、ばか!! 服を着なさい、服を!!」
バスの中から必死に服を着ろのジェスチャーをする。しかし、またも信号は変わってテッペイは遠くなってしまった。
「とっと、おもしろいねぇ〜」
「う、うーーん、そうだね……」
ほわほわとやわらかな空気を吐いている息子の姿を見ると、脱力してしまう。
テッペイの脱ぎたがり気質は、三十歳になった今でも変わらず健在だ。
「あ、次降りるよ。ボタン押して」
「ぼたんおしゅー!」
ピンポンとボタンを押して、また二人して後ろの道路を見る。
そして信号で止まった瞬間、近づいてきたテッペイの姿を見て、ルリカは目を疑った。
「っちょ、なんでズボンまで脱いでんの!!」
やってきたテッペイは、服を着るどころかズボンまでも脱ぎ捨てていた!
上半身は裸、下半身はインナースパッツのみ。
インナースパッツなど、ほぼほぼ下着のようなものではないか。通報されたら一発アウトである。
「ひぃぃいいいいい、ばかぁぁあああああ」
「きゃははは、とっと、はだかぁ!」
ウケてきゃっきゃと大喜びしている亮平。
そして窓の外には、雪の降る冬にインナースパッツ一枚で必死にくらいついてくるテッペイ。
バスの上から見るテッペイは、最後の気力を振り絞るかのように必死に走っている。
バレーで鍛えた、盛り上がった両肩の筋肉。
見事な大胸筋に、綺麗に割れた腹筋。
インナースパッツだから、走る動きに合わせて動く太ももの筋肉もよくわかる。
ふくらはぎなんか、クッと上を向いて上がり、その下の足首に向けてキュッと筋肉が凝縮している。
走っているだけだというのに、なぜだか手の動きまでエロセクシー。
ルリカはニヤニヤとしそうになる口元を、思わず手で隠した。
それにしても、このテッペイの真剣な顔はどうだろうか。
イケメンは、ズルい。
何度も、何度でも、テッペイに惚れてしまうではないか。
たとえ──インナースパッツ一枚で走っていたとしても。
プシューっと音がして、バスの扉が開いた。
亮平はバスをぴょんぴょんと跳ね降り、ルリカもそれを追いかける。
バスが出ていくと、テッペイが息を切らしながら目の前に駆け寄ってきた。
「とっとーー!!」
「亮平ー!! ひーーー、しんど!」
亮平がテッペイに飛びつき、ゼーゼーと息を上げながらもテッペイは亮平を抱き上げる。どうやらいつも走っているよりも、相当ペースが速かったらしい。
しかし、しんどいと言いながらも、顔は嬉しそうに笑っていた。
「どうだ、追いついただろー!」
「うんー、しゅごいねー!」
「ってかテッペイ、どこから追いかけてたの?」
「うん? 駅に着いたら、お前らがバスに乗り込んでんのみっけて、そっから」
どうやら、もう少し待っていれば合流できていたようだ。決断が早すぎたか。
しかしテッペイはそれを怒るでもなく、いつものように笑っている。
「そっか、ごめんね……ってか、なんで裸なの!?」
「暑かったから」
「どうして下まで脱いじゃうわけ!?」
「バスん中で、理香がズボンも脱げって指示したんじゃん」
「してなーーーーーーい!! 着ろって言ったのよ、服を!!」
「ま、どっちでもいいんじゃね」
「よくないわー!! 脱いだ服はどうしたの!!」
「その辺に投げ捨ててやったぜ!」
「バカタレーーーー???!!」
大声を出すと、ご近所さんの視線が刺さった。
はっとしたルリカは慌ててこほんと小さな咳払いをし、気を取り直す。
「もう、どっと疲れちゃった。とりあえず、家に帰ろう?」
「そうだな……ぶへっくしょ!!」
「とっと、ちゃぶい?」
「いや、そんなには──」
テッペイがすべての言葉を発する前に、亮平は自分の手の中にあったマフラーを、父親の首に掛けてた。こういう優しさは、自分に似たのだとルリカは思っている。
「とっと、あっちゃかい?」
「……へへ、理香のにおい!」
「これ、かっかの
「ありがとなー、亮平!」
「きゃーっ」
グリグリとほっぺとほっぺを擦り撫でられて、亮平はご機嫌だ。
しかし、インナースパッツにマフラーという出立ちはいががだろうか。
「どうだ、理香! 俺のこと、惚れ直しただろ!」
「今の自分の格好、見てから言ってくれる?!」
「おお、すごいだろ! この大腿四頭筋とか、ようやくここまでになったんだぜ!」
「そういうことじゃないーー!!」
「んだよー、俺の筋肉好きなくせによー」
「ば、ばかっ」
思わず顔が熱を持って目を逸らす。
亮平が、「とっとのきんにくしゅごーい」とテッペイの気分を天然で上げていた。
素直じゃないのは自分でもわかっている……と、ルリカは夫をチラリと見る。
真剣に走るテッペイを見た時、本当はルリカは……。
「なんだよ、ルリカ?」
視線に気づいたのか、テッペイに昔の愛称で呼ばれてしまった。
ドキンと胸が鳴って、ますます目をそらしてしまう。
「ったく、素直じゃねーなー!」
ガバリ。
硬い上腕筋がルリカの首に巻きつけられ、そのままグイと抱き寄せられる。
そしてルリカの唇を、有無も言わせずチュッと奪っていった。
「ちょ、な、ばか!!」
「へっへっへー」
「とっとー、ぼくも、ぼくもちゅー!」
「よっしゃ、いくらでもチューしてやる!」
「ちょっともう、やめなさいよ……」
息子の顔中にキスしているテッペイ。
将来が不安になりながらも、顔は微笑まずにはいられない。
「まったく、もう」
そんなテッペイにまた惚れてしまっただなんて、絶対に言ってやんない。
そう思う、ルリカなのであった。
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