34.詩織の話
それから数日後、テッペイがアルバイトに行っている昼間に、ピンポンとチャイムが鳴った。
インターホンのカメラを見てみると、そこにはなぜか詩織の姿がある。
テッペイはいないし、無視してしまおうかとも思ったが、結局ルリカは玄関の扉を開けた。
「あ、ルリカさん、こんにちは。私、伊佐木詩織と申します」
「知ってます。テッペイならバイトでいませんよ」
ついトゲトゲしい言葉が出てきてしまった。詩織の顔が少し沈むのがわかる。
「知っています。私、ルリカさんにお話があって来たんです」
「私に?」
詩織の今日の服装に可愛らしさはなく、かっちりとしたスーツだ。真面目な話をしに来たのだろう。
ルリカは仕方なく詩織をリビングに通した。
「あの、入れてくださってありがとうございます」
「いえ。お茶でいいです?」
「あ、お構いなく……」
そう言われても構わないわけにいかないので、お茶を入れて詩織の前に出した。
すると途端に詩織は、頭を大きく打ち下ろすようなお辞儀を見せる。
「本当に、申し訳ありません!!」
「え? し、詩織さん?!」
「ルリカさんと鉄平には、ご迷惑をお掛けしてしまい……っ」
「ちょっと、顔をあげてください! テッペイから大体の事情は聞いてますから……っ」
正直、テッペイを巻き込むのはやめてほしいが、詩織に同情すべき点はいくつもある。不運が重なってしまったのだろう。
なんとか詩織の顔を上げさせると、ルリカは疑問を口にした。
「あの、こんなことを聞くのはなんですが、旦那さんの保険金とかは……どうされたんですか?」
詩織はルリカの問いに嫌な顔もせず、包み隠さず教えてくれた。
どうやら、保険はちゃんと下りたらしい。しかし、心理的瑕疵物件……つまり事故物件にしてしまったため、その賠償として大家に結構な額を支払わされたようだ。
さらに、自殺した夫の家族に、死んだのはお前のせいだと責められ続けた。疲れ果ててしまった詩織は、そちらにも慰謝料として残り全額を払ってしまったと教えてくれた。
「ちょ、弁護士さんに相談しなかったんですか?!」
「どうすればいいか、わからなくて……」
混乱していたのもあるのだろうが、しっかりしているように見えて頼りない子である。
「今からでも、相談してみたらどうですか? 詩織さんには受け取る権利があるんだから、いくらかは戻ってくると思いますけど……」
「いいんです。もうあっちの家族と関わりたくなくて……」
人が一人亡くなっているのだから、ルリカにはわからない色々なことがあったのだろう。詩織の顔を見ていると、それについてはもう触れない方がいい気がした。
「……もう一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ。なんでも答えるつもりで来ていますから」
力のない笑みを向けてくる詩織に、ルリカはずっと気になっていることを切り出す。
「どうしてテッペイと別れて、その人と結婚したんですか?」
ルリカに聞かれると思っていたのか、詩織はこくんとうなずき、迷うことなく教えてくれた。
テッペイと別れたのは、妊娠がきっかけだったらしい。
お腹の子の父親は、間違いなくテッペイだと詩織は言い切った。当時はテッペイだけで、他の誰とも関係を持っていなかったのだからと。
詩織曰く、避妊が完璧でなかったこともあったらしい。なのでテッペイが父親だと詩織は主張したが、テッペイはのらりくりと逃げてばかりで相手をしてくれなかった。
このまま逃げられたらどうすればいいのか……と思った矢先に流産してしまったらしい。
この辺はテッペイとの話と食い違う気もしたが、お互いに自分の都合のいいように解釈している部分はあるだろう。
どちらが真実にしろ、ルリカが見定められることではないので、そのまま話を聞いた。
流産した時に、詩織は思ったそうだ。テッペイは、もし自分が父親だと断定できていたとしても、責任を取ってくれるかどうかはわからない、と。
「私は結婚願望がありましたし、子どもも欲しかった。テッペイとの未来にはそれが見えなくて……それで別れを決意したんです。その後で結婚相談所に通って、知り合った夫とすぐに結婚して……今に至るんですけどね」
同じ轍は踏むまいと、テッペイとは違った真面目過ぎる人を選んだがゆえに、夫は仕事を辞めることもできなかった。そしてノイローゼになって自殺してしまったのだと詩織は言った。
「今、詩織さんはテッペイのことをどう思ってますか?」
「感謝しています。鉄平と付き合っていた時は、本当に楽しくて、たくさん思い出をもらいました。今も助けてくれていて有難いと思ってます。でももう、恋愛感情は一切ありません」
まっすぐ向けられた瞳に、嘘はないことが感じ取れる。
テッペイはこんなにいい人を手放してしまって、本当にバカな男だ。
「色々教えてくれて、ありがとう詩織さん」
「いえ、先日はルリカさんに申し訳ないことをしてしまったと……鉄平が同棲してた事実を、部屋に上がってから聞いたので」
そう言いながら、詩織はゴソゴソとバッグから封筒を取り出した。
「これ、迷惑料です。少ないですし、来月分の家賃にも全然足りていないんですが……」
「いえいえいえいえいえ、いらないです! 実家に帰る引っ越し代や処分費で入り用だと思いますから、自分のために使ってください!」
「……でも」
「お話も聞けたし、わざわざ来てくれて嬉しかったです。その誠実さだけで、私は十分なお心遣いをいただけましたから」
ルリカがニッコリ微笑むと、詩織は「ありがとうございます」と封筒を引っ込めてくれた。
帰ろうとする詩織を玄関まで送ると、彼女は最後に申し訳なさそうにルリカを見て、言葉を放つ。
「ルリカさん……鉄平は、結婚願望のない男です。だから……もし、ルリカさんが幸せな結婚生活を望んだり、子どもを望んだりするなら……」
そこまで言って、詩織はハッと息を飲むように言葉を沈めた。
「すみません、余計なお世話でした」
詩織はそそくさと逃げるようにして、かつて夫と住んだはずの家を後にする。
ルリカはそんな詩織の後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。
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