第5話 フェア


「真夏のカレーフェア?」


 かえでの言葉を祥太郎しょうたろうが繰り返す。


「うん、そう。うちのレストランが仕掛ける、この夏最大のイベント。暑い夏、カレーを食べて元気になろう、って企画で」


 祥太郎に連れられて入ったラーメン屋で、そう言った楓が大きなため息をついた。





 楽園に越して4か月。

 最初の内は戸惑ったご近所付き合いにも慣れ、祥太郎が言っていたように、楓にとって楽園は、居心地のいい場所になっていた。

 外出していても、行動範囲が似ているからか、住人たちと出くわすことも多かった。その都度誘われて街を案内してもらう、そういうこともよくあった。


 特に祥太郎とは親密な関係になっていき、こうして個人的に会い、職場の愚痴や相談事を持ちかけることが多くなっていた。

 楓の言葉に耳を傾ける祥太郎の笑顔は、ここに来て一番の収穫とも言えた。





「それで? そのフェアに、何か不安でもあるのかな」


「企画だけなら問題ないんだけど、このフェアの成績をね、各店舗が競い合ってるらしいの。それが本社に行く訳だから、その……分かるでしょ? 店長からのプレッシャーが半端なくて」


「なるほどね。クリスマスケーキや恵方巻みたいに、ノルマを課せられたってことか」


「そうなの。オープンしたばかりのうちにとっては、初めてのことだし。店長も張り切っちゃって」


「僕に協力出来ること、あるかな。勿論その期間、なるべく店に行くようにするけど。カレー、好きだし」


「ありがとう、祥太郎さん。じゃあ、1枚買ってもらってもいいかな」


 そう言って、楓がチケットを2枚出した。


「1枚1000円、ドリンクとミニサラダ付き。チケットのお客様には、食後にアイスクリームのサービスもあるんだ」


「勿論いいよ。と言うか、どうして2枚?」


「1枚は私からのプレゼント。わざわざ来てくれるんだし、お礼の意味も込めてね」


「いいよそんなの。2枚分払うから」


「それじゃあ、最初から2枚買わせてるみたいじゃない。1枚でいいよ。その代わり、ちゃんと2回来てよね」


「ありがとう。じゃあこれ、1000円」


「これであと28枚だ」


「と言うことは楓ちゃん、30枚がノルマなの?」


「うん、そう。社員は全員、30枚分買取なんだ」


「一人3万円分かぁ。結構きついね」


「でも今2枚売れた訳だし、この調子ならきっと大丈夫だよ。もしも30枚さばけたら、追加で購入してもいいそうだし。どうせやるんなら、店で一番の売り上げをあげたいって思ってるんだ」


「ははっ。楓ちゃんは本当、パワフルだね。でもそういうの、いいと思うよ。僕も応援するから、頑張ってね」


「頑張るよ、私」





 その日の夜、そろそろ寝ようと思った頃にインターホンがなった。

 こんな時間に誰だろう、そう思い応対した楓は、来訪者の声に慌てて玄関を開けた。


東野ひがしのさん。どうされたんですか、こんな時間に」


「夜遅くに済まないね。ひょっとして、もう休んでたかな」


「ああいえ、大丈夫です。それでその、どういったご用件で」


「いやね、さっき祥太郎から聞いたんだけど、楓ちゃん、お店の営業頑張ってるそうじゃないか。それでね、楓ちゃんがよければなんだけど、私にも協力させてもらえないかと思ってね」


「チケットのことですか? いえそんな、悪いです」


「いやいや、楓ちゃんが一人で頑張ろうとしてることは、祥太郎からも強く言われてるんだ。だからひょっとしたら、この申し出は失礼に当たるかもしれない、そんな風にも思ってる。妻からも、くれぐれも失礼のないようにって、釘を刺されてるんだ。気に障ったならすまない」


「そんなことは……と言うか東野さん、頭を上げてください」


「どうも私は、デリカシーに欠ける行動が多いようでね。楓ちゃんの決意を分かってるのに、ついお節介したくなってしまうんだ」


「実はその……祥太郎さんには威勢のいいこと言いましたけど、どうやってチケットをさばけばいいのか分からなくて、正直困ってました。ここに来てまだ4か月、職場とマンション以外に知り合いもいませんので」


「だったら是非、協力させてもらえないかな。それに楓ちゃんは今、ここ以外に知り合いがいないと言ったが、それで十分じゃないか。ここには楓ちゃんを応援したいと思ってる、たくさんの仲間がいる。困ってる時はお互い様なんだ。頼ってくれていいんだよ」


「東野さん……」


「それで? 何枚買えばいいのかな」


「いえそんな、1枚でも助かりますので」


「じゃあひとまず100枚、買わせてもらうよ」


 そう言うと、財布から万札を10枚取り出した。


「ひゃ、100枚ですか?」


「ああ、100枚ね。どうせだから、みんなにも食べさせてやりたいんだ。楓ちゃんのお店のカレーをね」


「でもその……そんな大金、受け取れません」


「遠慮しなくていいんだよ。さっきも言ったけど、これは私の気持ちなんだ。結果を出そうとしている、頑張り屋さんの楓ちゃんへのね」


 そう言って札束を渡し、そっと手を重ねる。


「楓ちゃん。頑張るのは素晴らしいことだ。それはとても美しい。でもね、覚えておいてほしい。困った時、君の周りにはたくさんの仲間がいる。いつでも頼ってくれていいんだよ」


 東野の手を握り返し、楓は肩を震わせた。


「チケットは後からでいいから。とりあえず明日、100枚売れましたって、胸を張って言えばいい。足りなければまた言っておいで。この程度だったら、いつでも協力するからね」


 楓は声にならない声で、何度も何度も礼を言うのだった。





 カレーフェアは大盛況の内に終わった。

 楓の店は、全国でトップの成績を修めたのだった。



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