第4話 新生活


 翌日から、かえではレストランで働き始めた。

 引っ越し前に一週間、研修として顔を出していたそこは、家から二駅、時間にして30分という近場だった。


 商業施設の多いその場所は、楽園のある街とは違い、いつも人で賑わっていた。

 緊張気味だった楓だが、先輩や同僚たちも親切で、ここでなら何とかやっていけそうな感触を持っていた。


 考えてみたら私、すごく恵まれてないかな。

 ついこの前まで、初めての土地に不安いっぱいだった。

 でも楽園の人たちも、職場の人たちもみんな優しくて親切だ。

 神様なんて信じたこともなかったけど、本当にいるのかもしれないな。

 そんなことを思い、楓は今の生活に感謝するのだった。





「今日も疲れたな」


 仕事を終えた楓が店の裏口から出て、大きくため息をついた。

 仕事を始めて二週間。初めの頃を思えば、かなり業務にも慣れてきた。

 ただウエイトレスの業務は基本立ち仕事なので、足がきつかった。

 昨日家で気付いたのだが、かなりむくんでいた。


「帰ったらあったかいお湯につかって、ちょっとゆっくりしたいな」


 そんなことを思いながら駅に向かおうとした時、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。


「……祥太郎さん?」


「やっぱり楓ちゃんだ。今帰り?」


 声をかけて来たのは同じ楽園の住人、南方祥太郎みなみかた・しょうたろうだった。


 歓迎会で、乾杯の音頭を取ってくれた人。

 住人たちの中で、一番年の近い男の人。

 背が高くて、ちょっと格好いい人。

 それでいて気取ったところのない、優しい人。


 そんな祥太郎に、楓は少なからず好意を寄せていた。

 しかし同じマンションの住人、それだけの関係の人と、そうそう親しくなる機会なんてないと思っていた。


 その祥太郎と、帰宅途中に偶然会った。

 これってひょっとしたら、ラッキーな偶然じゃないのかな。

 そんなことを思いながら、楓が精一杯の笑顔を向けた。


「祥太郎さんも、今帰りなんですか?」


「僕はまあ……うん、そうなるかな。今日は外回りだったんだ。直帰しても構わないって言われてね」


「そうなんですね。じゃあ、本当に偶然なんですね」


「家までご一緒してもいいかな?」


「勿論です。と言うか、これで別々に帰ったら私、かなりひどい女じゃないですか?」


「ははっ、確かに」


 そう言うと、祥太郎は車道側に立って歩き出した。


「車、危ないからね」


 さりげない気配りに、楓の頬が赤く染まった。


「本当、優しいですね、祥太郎さんは」


「そんなことないって。楽園の人たちからも、いつも頼りないって笑われてるし」


「そうなんですか? 律子さんたち、祥太郎さんが話題に上がった時はいつも褒めてますよ」


「……想像しただけで、胃が痛くなるよ」


「ふふっ。心配するようなことはないと思いますよ。むしろいい噂ばかりです」


「この前の挨拶だって、後で親父に駄目出しされたし」


「そんなことないですよ。私、すごく嬉しかったんですから……え? 親父って、祥太郎さん、一人暮らしだって聞いてましたけど、ご家族も楽園に?」


「ああいや、親父ってのは、理事の東野ひがしのさんのことだよ。本当の親父とは、色々あって絶縁状態なんだ」


「……すいません、変なことを聞いてしまって」


「いやいや、気にしないで。昔のことだから」


「祥太郎さん、東野さんのことを親父って呼んでるんですね」


「うん。楽園に越してから、いつの間にかそう呼ぶようになってた。と言うか、うちの住人はみんな、東野さんのことをそう呼んでるよ」


 そう言えば歓迎会の時、みんな親父って言ってたな。でも東野さんに親父って、なんか似合うなと、楓は納得の表情を浮かべた。


「親父はすごい人なんだ。楽園に住んでる人たちは、みんな親父のことを慕ってる。年齢に関係なくね」


「そうなんですね」


「うん。言ってみれば親父ってのは、東野理事への敬意の現れなんだ。いつ、誰がそう言い始めたのか分からない。でもみんな、親父がいれば大丈夫、そう思ってる。僕も親父に出会えたからこそ、今こうして頑張れてるんだ」


「そうなんだ……ほんと、いい所に越してきたんですね、私」


「楽園はいい所だよ。楓ちゃんにとっても、あそこが本当の意味での家になること、僕も願ってる」


「はい、ありがとうございます」





 その日をきっかけに、祥太郎と共に過ごすことが多くなった。

 仕事帰りに待ち合わせて、一緒に食事をしたり、休日に映画を観に行ったり。

 祥太郎はいつも楓に気を配り、楓の話に笑顔で耳を傾けていた。時には職場の相談を聞くこともあったが、嫌な顔一つせず付き合い、楓が求めている言葉を投げかけてくれた。

 そんな祥太郎のことを意識するのに、時間はかからなかった。





 ある時、マンションの業務を振り分ける理事会があり、楓も参加した。

 楽園では全ての住人が、何かしらの業務を担当することになっている。

 ゴミ当番であったり、設備点検であったり。エントランスの掃除や、花壇の世話係などもあった。


 楓が担当することになったのは、月に一度の共用スペースの掃除だった。もう一人の担当は、祥太郎だった。


「若いもん二人、まあ気楽に仲良く、のんびりやってくれ」


 東野がそう言って笑った。


「二人共仕事もあることだし、これでいいと思うわ」


 妻の律子もそう言って、楓に向かって微笑んだ。


 こんな所でも皆が、自分に気を使ってくれている。業務は全員に振り分けられるものなのに、働いているという理由で、ある意味一番楽な仕事を任された。

 そう思うと少し、申し訳ない気持になった。

 そんな楓の様子を察したのか、祥太郎が優しく声をかけた。


「これも立派な仕事だよ。一緒に頑張ろうね」


「相方が祥太郎ってのが、少し不安だけどな」


「親父……そこで僕を落とすの、いい加減やめてくれないかな」


「はっはっは、まああれだ。来た頃に比べたら、祥太郎も少しはマシになったからな。期待してるよ」


「マシって……勘弁してくれよ、親父」


 東野と祥太郎のやり取りに、周りも笑った。





 掃除の日、二人は奇数階と偶数階に分かれて掃除にあたった。

 機材を使って廊下の清掃をしていると、その度に住人たちが顔を出してきた。


「楓ちゃん、大丈夫?」


「お、おはようございます、下川さん。すいません、少しだけうるさいですけど、すぐに終わらせますので」


「いいのいいの、そんなこと気にしないで。折角の休日だってのに、こんなことさせちゃって悪いわね」


「とんでもないです。スペースもそんなにないですし、こんな立派な機材までお借りしてますので。二時間もあれば終わると思います」


「楓ちゃんが掃除してくれるんだもの。私たち、今まで以上に綺麗に使わせてもらうわ。楓ちゃんに感謝しながらね」


「そんな……でも、ありがとうございます」


 ここは本当に温かい。

 本当に新しい家族が出来たみたいだ。

 そんなことを思いながら、楓は笑顔で作業するのだった。



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