第3話 涙
その日、遅くまで歓迎会は続いた。
「10時って……あそこに5時間以上いたんだ。ふふっ」
いい感じに酔いがまわっている楓が、そう言って笑った。
「ふうっ……」
他人との関わりが苦手な楓にとって、今日の歓迎会はかなりきついものだった。
全員が初対面。
いつもの自分なら、途中で逃げ出していたかもしれない。
しかし思った以上に、ストレスを感じていなかった。それが自分でも不思議だった。
あるのは心地いい疲労感。
それは住人たちが、自分のことを好意的に見てくれていたからだと思った。
手にはクマのぬいぐるみが持たれている。
それをじっと見つめ、また笑った。
このぬいぐるみは北見ちづるの娘、千春からもらったものだった。
そろそろこの子、寝る時間だから。そう言って千春を連れてきたちづる。千春は目をこすりながらあくびをしていた。
「ごめんね千春ちゃん、こんな時間まで付き合わせちゃって」
そう言って千春の前に膝をつくと、もう一度あくびをした千春が、ぬいぐるみを差し出した。
「お姉ちゃんにあげる」
「私にくれるの? このクマさんを?」
「うん!」
「でもいいの? このクマさん、千春ちゃんのお友達じゃないの?」
「いいの。これはプレゼントだから」
楓は笑顔で受け取ると、千春を抱き締めた。
「ありがとう、千春ちゃん。大事にするからね」
「うん!」
「それと、クマさんに会いたくなったら、いつでも遊びに来てね。歓迎するから」
「うん!」
嬉しそうに笑顔を向ける千春に、楓の胸は温かくなったのだった。
「クーマさん、クーマさん、ふふっ」
ぬいぐるみの両手を振って、楓が笑う。
そしてそっと抱きしめ、キスをした。
「優しい子だな、千春ちゃん……そうだ、何かお返しをしないとね」
ぬいぐるみをテーブルの上に置くと、風呂場に向かう。
「今日は疲れたし……シャワーだけにしよ」
上機嫌な様子でそう言って服を脱ぎ、もう一度笑った。
初出勤は翌々日だったので、次の日はゆっくり眠ることが出来た。
時計を見ると、11時を少しまわっていた。
「……久しぶりに爆睡、しちゃったな」
顔を洗い髪を整えると、朝食を買いに出ることにした。
マンションから徒歩1分の所にコンビニがあるのは、見学の時に確認していた。
「あ……」
エレベーターで1階に着くと、何人かの女たちが集会場に集まっていた。
「おはようございます」
理事の妻、
「おはよう、楓ちゃん。どう? よく眠れたかしら」
「あ、はい、お陰様でぐっすりと」
「それはよかったわね、うふふっ」
「それでその、みなさんは何を」
「ああこれ? 昨日の後片付けよ」
その言葉に、楓は全身の血が逆流する様な感覚を覚えた。
「あ、あの、その……」
「え? どうかしたの?」
「す、すいませんでした!」
声を張り上げ、律子に深々と頭を下げる。
「わ、私の為にみなさんがしてくれたのに……後片付けのこと、頭から完全に消えてました! 本当なら私、真っ先にお手伝いしなくちゃいけないのに、こんな時間まで呑気に寝ちゃってて……それに今だって、自分のことだけ考えて、朝ご飯を買いに行こうだなんて」
エントランスに楓の声が響き渡る。その声に、何事かと女たちが集まる。
「どうしたの、律子さん」
「いえね、後片付けしてるって言ったら、楓ちゃんが突然」
「みなさん、本当にすいませんでした!」
顔を真っ赤にして、声を張り上げる。膝が震えていた。
そんな楓の肩にそっと手を置くと、律子が穏やかな口調て言った。
「楓ちゃんって本当、素直でいい子ね。それによく気の付く子で。楓ちゃん、顔を上げて」
「あの、その……遅すぎますけど、今からでもお手伝いを」
「大丈夫よ。ちょうど今、終わったところだから」
「そんな……私、なんてことを」
「いいから。楓ちゃん、顔を上げて」
律子の言葉に恐る恐る頭を上げると、笑みを浮かべる女たちの顔があった。
「本当、いい子が来てくれたわね」
「こんな律義な子、そうそういないわよ」
皆笑顔でそう言い、うなずきあっていた。
楓の涙をハンカチで優しく拭い、律子が続ける。
「これはみんなの気持ちなの。楓ちゃんがここに来てくれた、そのことが本当に嬉しかったから。その主役に後片付けだなんて、言う訳がないじゃない。でもその気持ち、とっても嬉しいわ」
律子の言葉に、また楓の目から涙が溢れてきた。
「そうよ楓ちゃん。楓ちゃんが気に病むことなんて、何にもないんだから。これは私たちの気持ちで、後片付けだって、私たちがしたくてやってるの。でも、楓ちゃんの気持ちは嬉しいわ、ありがとう」
「そんな……私、ひどいことをしたのに……」
「うふふふふっ、気にしないでって言ってるのにね。でもそうねぇ、楓ちゃんの気が済まないのだったら、一つお願いしちゃおうかしら」
「は、はい、何でも言ってください!」
「じゃあ、もういい時間だし、私の家で一緒にお昼、食べてくれないかな」
「え……」
「あ、それいいわね。律子さん、私もお邪魔していいかしら」
「勿論よ。折角だし、みんな来てくれないかしら」
「いいんですか? やったー、お昼もみんなと一緒だー」
「楓ちゃん、それでいいかしら」
「でも、そんな……後片付けもしてない私が、お昼ご飯まで」
「それでいいのよ。私たち家族でしょ?」
「そうよ楓ちゃん。折角だし、おばさんの家で女子会といこうよ」
千春と手を繋いでいるちづるも、そう言って笑った。
みんなが笑顔を向けて来る。
さっきまで、心が絶望で潰れそうになっていた。
その筈なのに。
また楓の胸の中は、温かい何かで満たされていた。
何度も何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と口にしながら、楓はうなずくのだった。
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