第2話 歓迎会
住人総出で迎えた引っ越しだったが、あっと言う間に荷物の搬入が終わってしまった。
段ボールの中を整理しようにも、若い女性の私物、男たちには触ることも出来ない。
結局数名の女性陣を残しての撤収となった。
「何だかその……すいません、お休みまでとってもらったのに」
「気にしないでいいのよ。それにあの人たちには、別の仕事を任せてるから」
「別の仕事……ですか?」
「ええ。こうしてみんながお休みを取れるなんて、中々ないからね。設備の点検とか、保留にしてたことをさせてるの」
「そうなんですね、よかった」
「あとは、今日のメインイベントの準備ね」
「メインイベント?」
「うふふふっ、すぐに分かるわよ」
部屋の整理がひと段落すると、律子たち女性陣も帰っていった。
新しい部屋に一人残された楓は、床に大の字に寝そべって天井を見つめた。
「すごい所に来ちゃったな……でも、ふふっ……ちょっと楽しい」
これから始まる新生活を思うと、自然と笑みがこぼれた。
ここでなら、きっと大丈夫だ。みんな温かい人ばっかりだし、過去の自分を知ってる人もいない。今日からここで、私は新しい人生を始めるんだ。
自らを「リセット症候群」と自認している楓。
過去の記憶で、特に消し去りたいことがある訳ではない。それでもこうして心機一転、やり直せる機会があれば飛びつく性分だった。
不安は期待へと変わり、部屋を見回しながら、これから始まるであろう新しい生活に思いを寄せるのだった。
その時インターホンがなった。
慌てて起き上がった楓が玄関を開けると、そこには女児と手を繋いだ30代の女が立っていた。
「どうかされましたか?」
「楓ちゃん、部屋は落ち着いたかしら」
「は、はい、その……皆さんのおかげで」
「私は北見ちづる。ここの8階に住んでるの」
「北見さんですね、よろしくお願いします」
「それと、この子は千春。私の娘よ」
ちづるがそう言って千春の頭を撫でる。2歳か3歳とおぼしき千春は、頭を撫でられて嬉しそうに笑った。
「それでね、楓ちゃん。急で悪いんだけど、これから1階まで来れるかな」
「今からですか? はい、別に用事はないですけど」
「よかった。じゃあ一緒に行きましょ」
「は、はい」
ちづるの言葉に慌てて靴を履くと、玄関を出て鍵をかけようとした。
「楓ちゃん、鍵、かける人なんだね」
「え? ま、まあ、やっぱり不用心だと思いますし」
「ふふっ、そうなんだ。うんうん、そういう用心は大切だよね。でもここは大丈夫だから」
「そうなん……ですか?」
「ええ。うちはオートロックだし、管理人さんも常駐してる。基本、関係者以外が入って来ることはないから」
「そうなんですね。それは安心です」
「ここにいるのは私たち住人だけ。だから安心してね」
そう言って笑ったちづるに、楓も笑顔で応えた。
「あの……ここは」
「うちのマンションの集会場。何かあればみんなここに集まるの。さ、入って」
「は、はい」
ちづるに促されて中に入ると、突然クラッカーの音が鳴り響いた。
「え? え?」
「西條楓さん、ようこそ楽園へ!」
そこには、マンションの住人たちが集まっていた。
テーブルには料理が所狭しと並べられている。そして正面には「歓迎・西條楓さん ようこそ楽園へ」と書かれた横断幕が掲げられていた。
予想外の光景に呆然としていると、皆が楓の周りに集まってきた。
「楓ちゃん、これからよろしくね」
「歓迎するわ」
「何か困ったことがあったら、いつでも言ってきてね」
「うまい店、いっぱい知ってるからね。また今度教えるよ」
口々に歓迎の思いを告げる住人たち。その一人一人と握手を交わしながら、楓は困惑気味に笑顔を作った。
「こらこらみんな、楓ちゃんを歓迎したいのは分かるんだけど、ちょっとは加減しないと駄目じゃないか。見てみなさい。楓ちゃん、びっくりしちゃってるだろ」
そう言って理事の東野が割って入る。
「すまないね、楓ちゃん。みんな、楓ちゃんが来てくれたのが嬉しいんだ。大袈裟な表現になってしまってるけど、許してやってほしい」
「いえ、その……そういうことではなくて、あの……これは一体」
「勿論、楓ちゃんの歓迎会よ」
「ええっ? 私の為に?」
「当然じゃない。家族が一人増えたんだもの、私たちみんな、嬉しくて仕方ないんだから」
「でもその……私、みなさんに何もお返し出来ないのに」
「はっはっは、そんなこと、気にしなくていいんだよ。最初にも言ったけど、今日から私たちは家族なんだ。家族の間で他人行儀な気遣い、必要ないよ」
「ささ、楓ちゃん。まずは座って座って」
促されて横断幕の真下、上座に座る。
理事の東野夫妻が両側に座ると、一人の若い男がグラスを手に立ち上がり、咳払いをした。
「ええっと、それでは……主役の楓さんも来たことですし、乾杯をしたいと思います。音頭は不肖私、
祥太郎の言葉に、住人たちがグラスを手に立ち上がる。
楓が慌てて立ち上がると、ちづるがグラスを持ってやってきた。
「楓ちゃんは何がいい? お酒は飲めるのかな」
「は、はい。ビールでしたら」
「やたっ! 飲み仲間ゲット!」
「ちづるちゃん、手加減してあげるんだよ。楓ちゃんも、無理に付き合わなくてもいいからね」
「はい、ありがとうございます」
「この子、底なしの飲兵衛さんだから。気をつけてね」
「ちょっとー、ひどいじゃないですかーおばさーん」
ちづるが口をとがらせ、律子の腕を揺する。
「いやいや本当、これは冗談抜きだから。楓ちゃん、ちづるには気をつけるんだよ。何かあったらいつでも、私に言ってきていいからね」
「おじさんまでー、ひーどーいー」
ちづるの言葉に、住人たちがどっと笑った。
「ええ、では改めまして……今日からこの楽園に、家族が一人増えました。西條楓さん、僕たちはあなたを心から歓迎します。これからどうか、よろしくお願いします。
ではみなさん、新しい家族、西條楓さんを歓迎して乾杯したいと思います。
――一人はみんなの為に! みんなは一人の為に!」
「一人はみんなの為に! みんなは一人の為に!」
祥太郎の発声に、皆が声を合わせて続く。
その雰囲気に圧倒され、楓が思わず後ずさる。見ると集会場の入口に、皆が唱和した言葉が貼られていた。
「楽園のスローガンなんだ」
東野がそう囁き、微笑んだ。
「そうなん……ですね。いい言葉ですね」
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
楓は困惑気味に笑顔を作り、東野に向けた。
「そして何よりこの楽園の、益々の発展を祈念して……乾杯!」
「かんぱーい!」
全員がグラスを
「ようこそ、楓ちゃん!」
「よろしくね、楓ちゃん!」
集会場を割れんばかりの拍手が包む。皆笑顔で楓に声をかける。
楓は顔を真っ赤にしながら、「ありがとうございます」「これからよろしくお願いします」と答えるのだった。
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