わたしたちの楽園
栗須帳(くりす・とばり)
第1話 引っ越し
今日からここが、私の家なんだ。
マンションを見上げながら彼女、
この春大学を卒業した彼女は、全国に展開しているホテルに就職した。
面接時、「転勤に抵抗はありますか?」そう尋ねられ、即座に「全く問題ありません!」と答えたのがよかったのかもしれない。
おかげで初めての勤務先は、地元から100キロ以上離れた都会のレストランになった。
親や友人は心配した。しかしこれは、楓にとって望んでいた展開だった。
夢にまで見た一人暮らし。
陰鬱な田舎、息苦しかった家との別離。
それは正に、人生の再スタートだった。
旅行鞄を持って正面玄関に立っていると、時間通りに引越センターのトラックが到着した。
楓は「よろしくお願いします。部屋は313号室です」そう言って、鍵を手にエレベーターへと向かった。
このマンションを選んだのには理由がある。
駅から徒歩3分という好立地なこと。
歓楽街から離れている、治安のいい住宅地であること。
家賃が安いこと。
そして決め手となったのは、見学に訪れた際の住人たちの反応だった。
すれ違う人が皆、笑顔で挨拶してくれた。
「ここはいい所よ。歓迎するわ」
「あなたみたいに若くて綺麗な人が住んでくれたら、私たちも嬉しいわ」
そう言ってくれた。
その言葉に、初めての都会で不安になっていた彼女の胸は熱くなった。
ここでなら、きっとやり直せる。
頑張れる。
楓はその場でこのマンション、「楽園」への入居を決めたのだった。
エレベーターを降りると、廊下に数人の女性が立っていた。
皆軽装で、首にタオルを巻いている人もいる。
エレベーターから出て来た楓に、皆の視線が集まった。
「あ、あの……」
注目されることに慣れていない楓が、顔を赤くして彼女たちの元へと進む。
「わ、私……今日からここでお世話になります、西條楓と言います。どうかその……よろしくお願いします!」
そう言って大袈裟に頭を下げると、周囲からクスクスと笑い声が聞こえた。
しかしそれは嘲笑ではなく、温かいものだと感じた。
「はじめまして、西條さん。こちらこそ、今日からよろしくね」
そう言って一歩前に進み出た女が、楓の手を握った。
「は、はい……あのその、今から荷物が入りますので、その……しばらくうるさくなると思います、すいません」
「うふふふっ、そんなに緊張しないで。あ、楓ちゃんって……呼んでもいいかしら?」
「は、はい、大丈夫です」
「私たちね、みんなこのマンションの住人なの。今日楓ちゃんが引っ越してくるって聞いてたから、みんなで待ってたのよ」
「待ってたって……それってどういうことですか?」
「勿論、引っ越しのお手伝いよ。私たち、これから同じマンションで生活する家族なんだから。当然でしょ?」
うんうんと、周囲の女たちも笑顔でうなずく。
「でもそんな……悪いです」
「もぉ~、楓ちゃん、ちゃんと聞いてた? 今日から私たちは家族なの。家族の間でそんな遠慮、いらないんだからね」
そう言って女が楓の頭を撫でた。
「もうすぐ男連中も合流するから。楓ちゃん、こき使っていいからね」
「でも今日は平日ですし、みなさんお仕事だって」
「うふふふっ、大丈夫よ。今日の為に、みんな休みを取ってるから」
「ええっ? そんな、私の為にですか?」
「だから安心して、しっかり働かせてやってね」
状況がつかめず目をパチパチさせていると、背後から男の声がした。
「無事に着いたみたいだね、西條さん」
年の頃50代後半、恰幅のいい壮年がそう言って会釈する。
「お父さん、西條さんのことは楓ちゃんでいいわよ。楓ちゃんもそれでいいって、言ってくれたから」
「そうなのかい? ははっ、いやいい、実に結構。もう打ち解けたみたいで何よりだ。楓ちゃん、楽園にようこそ。私はこのマンションの理事をさせてもらってる、
「は、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
「はははっ、元気なお嬢さんだね。随分緊張してるようだけど、まあ、そのうち慣れるだろう。じゃあ引っ越しの方、手伝わせてもらうよ」
そう言うと、男連中を従えて楓の部屋へと移動する。すれ違う男たちも皆、楓に笑顔を向けた。
困惑気味に楓が扉を開けると、引越センターの係員たちが荷物を運んでいく。
とは言え、2DKの部屋が埋まるほどの家具もない。ダンボールも30個ほどだ。マンションの住人が総出で手伝うほどのものではなかった。
30分も立たないうちに運び終えた係員たちが、「以上になります」と帽子を脱いで頭を下げた。
「あ、あの、ありがとうございました。それでその……これ、少ないですが」
そう言って祝儀袋を出そうとした楓を、東野が静かに制した。
「引っ越し屋さん。今日は何人で来てくれたのかな?」
「はい、3人ですが」
「3人ね、分かった。じゃあこれ、みんなで分けてくれ」
東野はそう言うと、財布から1万円札を3枚取り出し、係員に手渡した。
「裸で悪いけど、これで飲み物でも買ってくれ」
出された金額に係員は動揺したが、すぐに真顔になると、「どうも! ありがとうございました!」と声を張り上げて金を受け取った。
「あ、あの……東野さん」
「大切な家族を手伝ってくれたんだ。あれは私の気持ちだから、気にしないでいいからね。あと……折角用意してたのに止めてしまって、恥をかかせてしまったね、すまない」
そう言って頭を下げる東野に、楓は慌てて首を振った。
「そんなそんな、頭を上げてください。私の方こそ、こんなに気を配っていただいて……私は一人1000円の寸志しか入れてませんでした。都会の作法や常識も知らず、あのままだと恥をかくところでした。東野さん、どうか今のお金、私に出させてください」
「はっはっは、これぐらい別にいいんだよ。それに金額については、そんなに気にしなくていいさ。むしろ私の方が、渡し過ぎたぐらいだからね」
「お父さんは本当、そういう見栄だけは立派ですからね」
「おいおい酷いな。楓ちゃんの新生活が始まるんだ。関わった人、みんなに笑顔になってほしいじゃないか」
「分かってますよ、ふふっ。そういうことだから楓ちゃん、お金のことは気にしないで。あれは私たち、楽園からのご祝儀だと思って」
東野の妻、律子がそう言って笑顔を向けると、楓の視界が涙でぼやけてきた。
「どうしたの、楓ちゃん。何か気に障った?」
「いえ、いえ……そうじゃないんです、そうじゃなくて……私、私、嬉しくて……」
言葉が続かなかった。何を言っても上辺だけのものになりそうで怖かった。
こんなに温かい場所が、この世界にあっただなんて。
こんな素晴らしい場所で、私は新しい人生をスタート出来るんだ。
そう思うと嬉しくて。
楓は泣いた。
そんな楓に、住人たちは温かい視線を送るのだった。
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