第25話

 薄暗い森の中をトカゲのように歩く。慶介の結婚は話題に餓えた町に格好のエサを与えた。仲村さんとの仲がうわさになっていたことも、話を面白くするスパイスだ。町にいると、誰かしらにその話をされる。その度に僕は胸を刺されるような心地を味あわせられ、もう耐えられなくなってしまった。人がいないところに行きたい。僕の足は無意識に隠れ家へ向かっていた。

 そこは相変わらず、がらんとしていた。音はほとんどしない。だが、壁板の隙間からは、わずかながら光が差し込んでいる。心を落ち着かせるために、少しでも刺激を減らしたい。

 部屋の中を見渡すと押し入れの襖が目に入る。開けたら、ほこりっぽいが人がひとりくらいは入れそうなスペースがあった。僕はそこを綺麗にして、中へ入ってみる。襖を閉めると真っ暗い闇が生まれた。

 何も見えないからだろうか。心が徐々に鎮まっていく気がする。感覚が過敏になっている時は、あえて刺激を減らしていくのが良いのかもしれない。どのくらい経っただろうか。時間もわからなくなる。すると、頭は自然に考えることへ向かっていった。

 慶介はなんで結婚してしまったんだろうか。去年の夏に会った時は、そんな素振りはなかったハズだ。彼はお母さんが病気になったからと言っていたが、それにしては相手が見つかるのが早すぎる。ということは、夏休みの時点で既に結婚相手と知り合っていてもおかしくない。だとしたら、慶介はその時点で僕のことを裏切っていたんだろうか。いや、父さんの話だと相手は同級生らしい。相手が以前から慶介のことを気にしていたならば、急展開ということもあり得る。

 だったら、僕が受験にかまけて連絡をしなかったことがいけなかったんだろうか。きちんと連絡を取っていたら、もっと早く異常に気付けたかもしれない。少しくらい連絡を取れる時間はあった。お母さんが体調を崩した時も、僕が支えになってあげられたならば、こんなことにはならなかったかもしれない。

 そういえば、父さんは慶介のお母さんが体調を崩したことを知っていた。何で僕に教えてくれなかったんだろうか。初めて僕が慶介の家へ行った後、父さんは僕たちの関係を知っているようなことを言っていた。その後もはっきりと言葉にはしなかったが、僕たちが恋人であることを前提としているだろう態度だった。

 だったら、教えてくれても良かったんじゃないか。受験に影響するのを恐れた? それとも慶介が口止めしたんだろうか。わからない。

 そういえば、慶介が結婚したのを知った時、何であんなに大喜びしていたんだろう。そうだ。息子が恋人に捨てられたのに、怒るどころか喜ぶなんて。僕たちのことを認める素振りをしていたのも、所詮はフリだったということか。物わかりがいい大人を演じる偽善者。そう、偽善者だ。息子を悪の道に誘い込む相手がいなくなって、思わず本音が出たって訳か。

 ガタン。

 暗闇の中、急に大きな音がした。その後も音が続く。人だ。この場所は誰も知らないはずなのに。誰だかわからないのに、自分がいることを知らせるのは危険な気がする。僕は音を立てないよう、身体をこわばらせた。音の主はどうやら入口の戸を開けたらしい。足音が家の中に入ってくる。それに遅れて、もう一人の足音がした。二人組か。再び戸を閉める音がすると、一人の男が話はじめる。

「例のもの、用意してるんだろうな」

「はい」

 えっ? 「はい」と答えた男の声は、父さんのようだった。カバンを探るような音がしたあと、何かを手渡した。受け取った男は数を数えている。

「確かに。流石、高野さん。地元の名士はきちんと約束を守ってくれるね」

「当たり前だ。これで修一のことは黙っていてくれるんだろうな」

「もちろんだ。高野さん、政治の世界も狙ってるんだろ。まさか跡取り息子が昼間っから男を咥えこんでるだなんて、世間には知られたくないよな」

 なんで? 僕たちはこの町にいる時、周りから怪しまれないように注意していたハズだ。それなのに知っている人間がいるなんて。

「只でさえこの辺りの奴らはゴシップに飢えてる。普段はあんたのことを尊敬したふりをしている奴らも、こことぞばかりになぶりものにするだろうね」

「私はどうなってもいい。だが、息子は」

「いやぁ、高野さんは親の鏡だ。こうやって自分を犠牲にして、子どもの不始末をきちんとつけてるんだから」

「私はこれが不始末だなんて思ってない」

 父さんは声を絞り出すように言う。

「どうだか。まあ、修一くんも美那郷の神さんの呪いの犠牲者だって意味では『不始末じゃない』と言えないこともないか」

 美那郷の神様? 白蛇伝説のことを言っているんだろうか。それがどういう関係があると言うんだろう。

「娘を供物にするのを止めたら、まさか供物の印が男ばかりに出るようになっちまったんだもんな」

「そんなものは迷信だ」

「まあ、海外の大学を出たインテリさんはそう言うだろうね。でも、印が出た男はみんな余所者の男と結ばれて、相手が外に帰ったら、女同様不幸になってる」

 余所者が帰ったバージョンの話が知られていなかったのは、そういうことか。不幸になる話を今どき子どもには教えないだろう。

「あんたもシゲルのことは知ってるだろ。かわいそうに。今や町の中に居場所がなくて、山に籠っちまった。最初は余所者の男に襲われただけなのに」

「修一は違う」

「そう思いたい気持ちはわかるよ。現に相手の方は結婚しちまった。いつか治ると思うわな。でも息子さん、あの男に抱かれてる時は女の顔をしてたぜ」

「やめてくれ」父さんは悲痛な声をあげる。

「いやぁ、すまない。息子のそんな話、聞きたくないよな。にしても、元々若衆宿として使ってた小屋でするってのは、因果を感じるね」

 若衆宿? この場所はもともと何らかの目的で使われていた場所らしい。聞いたことがない単語だが、調べればわかるだろうか。

「まあ、高野さんはラッキーだ。この事を知ったのが、オレみたいな話のわかる奴だったんだから。これからも期待してますよ」

 バシバシと身体を叩くような音がしたあと、戸が開いて人が出ていく気配がする。男はふぅと息を吐く。

「さぁて。ちょっとしたら、オレも帰るか。せっかくの飯のタネだ。他のヤツに知られる訳にゃあ、いかないからな」

 僕は物音ひとつ立てないように息をひそめる。早く出ていけ。僕は男が動き出すのをじっと待つ。その時間は永遠のように思えた。

 何かを踏みにじる音がする。そして、再び戸が開いて、人が出ていく気配がした。やっと出ていったようだ。思わず息が漏れる。だが、すぐに出ていったら、男と出くわしてしまうかもしれない。

 それにしても、あの男は誰だろう。聞いた覚えがない声だった。この土地のことをよく知っているようだったので、地元の人間だろう。だったら、わかっても良さそうなものだが。とはいえ、僕も美那郷に住む全員のことをよく知っている訳じゃない。現に僕はシゲルさんに白蛇様の印が出ているなんて、知らなかった。父さんの仕事関係だろうか。その場合、僕が知らない可能性はある。

 にしても、今は何時だろうか。日が暮れてしまったら、森の中は真っ暗だ。帰れなくなってしまう。

 僕は音を立てないよう慎重に襖を開ける。わずかな隙間から部屋の中を見たが、人の気配はない。入口は開きっぱなしだ。来た時よりも暗くはなっているが、足元はかろうじて見える。僕は周りを伺いながら、押し入れから抜け出す。そして、音を極力立てないように入口へ向かった。玄関の土間には、タバコの吸いがらが落ちている。さっき、男が踏んでいたのはこれだろう。詰まんでみると完全に冷たくなっていた。気になることはあるが、あまりのんびりしている訳にもいかない。日没の時間は近付いている。僕は警戒しながら、山を降りた。

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