第8話
気が付いたら、すっかり明るくなっていた。どうやら考えごとをしているうちに眠ってしまったようだ。
昨日、久しぶりに川遊びだなんてしたものだから、自分が思うよりも疲れていたのかもしれない。
それにしても、懐かしい夢を見たもんだ。あの後、陸の一家がいなくなったことは、うわさ好きの人たちにとって格好のご馳走になった。何も知りもしない奴らが、あること、ないことを好き勝手に言っていた。
だが、僕が何か言ったところで不要な燃料を投下するだけだ。僕は詩織にだけ、最後の夜に陸と会ったこと、「よろしく」と言われたことを伝えた。
「陸くんにとって、修一くんは特別な人だったんだね」彼女はそれだけ言った。
みんながうわさ話に飽きた後、陸なんてここには最初からいなかったかのように、誰もあいつのことを話さなくなった。僕にとっても今や昔話だ。
さて、もう起きるか。僕は身体をベッドから起こすと、顔を洗う。身体を動かして頭がハッキリとなってくるにつれて、自分が昨日、立花にしたことを後悔する気持ちが募っていく。一度、謝った方がいいかもしれない。
時計を見たら、八時になっていた。僕は身だしなみを整えて、階段を降りる。立花の部屋は静まりかえっていた。扉を開けようとしたけれども、カギが掛かっている。
「立花さん」
声をかけたが、返事はない。もう家を出たのかもしれない。僕は諦めて、母屋に向かった。玄関で母さんが水打ちをしている。
「母さん、おはよう」
「おはよう、修一。今日はちゃんと起きたのね。あなた、この前も言ったけど、夏休みだからってゆっくりし過ぎよ」
「そうだね、明日から気をつける。ところで、立花さんは? 部屋にいなかったみたいだけど」
「立花さん? もうお仕事に行かれたわ」
「そっか」
「仲良くなったのは良いことだけど、立花さんはお仕事でいらっしゃっているのよ。あまり迷惑を掛けないようになさいね」
そうだ。いつもどこかへ案内することが多かったので、あまり意識していなかったが、立花は仕事で来ていたのだった。
「ところで、修一。朝ごはん食べるんでしょ」
「はーい」
立花に会ったところで、昨日のことをどう弁明するのか考えていた訳じゃない。ここで暮らしている以上は、いつかは帰ってくる。そこまで焦る必要はないか。僕は母さんについて、茶の間に向かった。
英語の問題集が最後まで終わったので、僕は椅子に座ったまま身体を伸ばした。外では虫の音がする。時計を見るともう午後七時といったところだ。
そろそろ母さんが夕食に呼びに来るだろう。僕は勉強道具をしまって、階段を降りる。立花の部屋は真っ暗だ。まだ仕事なのだろう。
母屋の方へ行ったら、玄関に車が停まっていた。父さんは帰ってきたようだ。僕が玄関に入ると母さんがいた。
「あら、修一。ご飯の用意ができたから、ちょうど呼びにいこうと思ってたの。助かったわ」
「父さんは帰ってきた?」
「ええ」
「立花さんは?」
「まだ帰って来てないわ。夕方、立花さんから『今日の分はいらない』ってお電話を頂いたから、今晩は遅いんじゃないかしら」
「ふぅん」
立花は美那郷に来てからは、毎日ここで食事をしていた。もしかしたら、僕のことを避けるためかもしれない。だが、荷物がここにある以上、いつかは帰ってくるだろう。
僕は茶の間に向かう。既に父さんと遵二が座っていた。僕も腰を降ろすと、母さんも入ってきた。みんなで「いただきます」の挨拶をして、食事をはじめる。
あまり会話がない食事は久しぶりだ。立花が来てからは、父さんがいつも彼に話し掛けていたんだな。黙々と食事をしていたら、父さんが母さんに言った。
「母さん。立花くんだが、今日から町にあるウチの事務所に泊まることになった。だから、明日から食事の準備はいらないぞ」
えっ? なんだって。母さんも驚いて、父さんに聞く。
「あら、そうなの。それにしても急な話ね。もしかして、何かお気に障るようなことがあったのかしら」
ドクン、と僕の心臓が鼓動する。昨日のことが原因なのだろうか。それにしても、話が決まるのが早過ぎる。
まさか、立花は昨日の話を父さんにしてしまったんじゃないか。だとしたら、父さんが僕と立花を早急に離した方が良いと判断したということだ。まずいかもしれない。僕は何事もないかのように食事をしながら、聞き耳を立てた。
「いや、そんなことはない。大丈夫だ。元々、前から立花くんには言われてはいたんだよ。今日、やっと事務所の方の整理が終わってね。それで入ってもらったという訳だ」
「それにしても、急じゃありませんか」
「そうだな。私も『明日でいいんじゃないか』と言ったんだが。立花くんから『仕事が立て込んでいるので、できる限り早く、役場の近くに移動したい』と言われてね」
仕事を言い訳にしたということは、とりあえず昨日のことを父さんには話さないことにしたようだ。まずは一安心といったところか。
「もう、勝手にお決めになって」母さんはため息をつく。
「いやぁ、済まない。彼も待たせてしまっていたからね」
「こちらに置いてあるお荷物はどうされるんですか」
「荷物はそのうち取りに来るって言ってたよ。すぐに使う物はこちらに置いてないらしい」
「そうですか。まるで前から出ることを決めてたみたい」
「まあ、彼も他人の家に住むのは気を使うんだろう。それに『自分がいることで、修一の勉強の妨げになるのも悪い』と言っていてね」
「あなたが気楽に修一に案内をさせるから、立花さんに心配させてしまったんじゃないですか」
「そうだな、すまん」
「私じゃなくて、立花さんに謝ってください」
「ああ、わかった。あと、これを預かった。彼もお前には改めて挨拶するつもりだとは言っていたよ」
父さんはカバンからカギを取り出して、母さんに渡す。立花の部屋のカギだ。
「わかりました。荷物を取りにいらっしゃる時は、ご連絡下さるようにお伝えくださいね」
「伝えておく」
父さんの言葉に母さんは一応気が済んだのだろう。ぶつぶつ言いながらも食事を再開した。
立花はここを出ることを前から父さんに相談はしていたようだ。だが、急いで引っ越したのは、やっぱり昨日のことがあったからだろう。どうせ帰って来るだろうと思っていたが、甘かったようだ。
これで立花と話をするのが難しくなった。自分の親の事務所とはいえ、いつ帰って来るのかわからない立花を外で待つ訳にはいかない。事務所は町の中心にあるから、誰にも見つからずこっそり行くのも難しい。
だったら、立花の仕事が休みの土日に行くか。だが、それも出掛けられてしまったら、どうしようもない。
あまり彼を刺激せずに、和解する方法はないだろうか。学校の勉強より手強い。だが、週末までは時間がある。じっくり考えるとしよう。
小鳥のさえずる声がする。日差しもまだそれほど強くはない。立ち並ぶ店もまだシャッターが降りていて、道を歩く人はまばらだ。
事務所とはいっても、元々は爺さんが住んでた家だ。実際には一般的な住宅と変わらない。町中の便利な場所にあるので、何かイベントごとがある時は使うが、普段は物置として使っているような建物だ。
多分、立花が寝ているのは二階だろう。中に明かりはついていない。試しにドアに手をかけたが、びくともしなかった。さて、どうするか。家の前で考えていたら、近くに住むおじさんが道の向こうから犬を連れて歩いてきた。
「修一くん、おはよう」
「おじさん、おはようございます」
「こんな早い時間に、こんなところにいるなんて珍しいね。どうしたんだい」
「以前、家に泊まって頂いていた立花さんがこちらにいると伺って来たんですが」
「ああ、あの都会から来た人だね。私が散歩へ出掛ける時に、車でどこかに行ったのを見たよ」
やっぱり立花は極力ここにはいないようにするつもりらしい。
「助手席には仲村さん家の愛ちゃんが座ってたよ。若い人はうらやましいね」
仲村さん? 川遊びに詩織が連れてきた看護士さんか。彼女が立花に夢中なのは誰が見てもわかる。立花がお願いすれば、何でも言うことを聞くだろう。
「そうなんですか。彼女、よくここに来ているんですか」
「いや、ここで見るのは今日が初めてだね。けど、年頃の男と女だ。きっとどこかで逢い引きしてるんだろうよ」
この様子だと立花が帰って来るまでには、実際に何かあろうが、なかろうがこの町では既成事実になっているに違いない。立花としては予防線を張ったといったところか。
「で、あの色男に何か用事があったのかい」
「いや、ちょっとした言付けがあって。たいしたことじゃないんです」
「そうか。おじさんが伝えておこうか」
「ご親切にありがとうございます。でも、大丈夫です」
「そうかね」
「ええ、お散歩中に引き留めてすみません。じゃあ」
おじさんは何か言いたそうだったが、僕がお辞儀をすると自身の家の方に帰って行った。
さて、どうしようか。事務所の扉に持ってきた手紙の入った封筒を挟むか。だが、それだと別の人間に中身を見られる危険性がある。それは絶対に避けたい。
僕は事務所の郵便受けを開けた。中にはチラシに混じって、立花宛の郵便物がいくつか入っていた。ということは、立花はここを使っている。僕は封筒をその中に紛れ込ませた。これで見てくれることを祈るしかなさそうだ。
さて、今日はこれ以上、やれることはない。僕は自転車にまたがり、家に帰ることにした。
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