第6話
玄関で母さんに見送られて、僕は玄関を出た。中学校に向かう道は田んぼの真ん中にあるため、木陰がない。水路の流れは涼やかだが、額からじわり汗が落ちた。
今年一番の暑さだ。母さんからもらったペットボトルを身体に押し当てて、体温を下げる。中の氷は半分くらい溶けてしまった。
やっぱり今日くらいは送ってもらった方が良かったかもしれない。いやいや、これは僕のプライドの問題だ。今年一番の暑さだからといって、自分だけ車で送り迎えだなんてまっぴらごめんだ。簡単に妥協する訳にはいかない。
気を取り直して歩いていたら、目の前にレースで飾られたピンク色の日傘を差している人影がいた。
「修一くん、おはよう」
詩織は手に持ったタオルで汗を拭きながら、僕に挨拶をする。この様子だと僕のことを待っていたのだろう。
「おはよう。詩織、待ってたのか」
「さっき着いたばかりだから、そんなに待ってないよ」
「この暑い日に歩くだなんて、ご両親がよく許してくれたな」
「『きっと修一くんは歩いて来るから』って言ったら、話を聞いてくれた。『どうしても持っていけ』って言われて、これは渡されちゃったけど」
詩織は日傘を振る。僕が言うことじゃないが、詩織のご両親もよく許してくれたと思う。それもこれも高野の名前か。
だが、こうやって僕が考えることを理解してくれる詩織は、大事にしなくてはいけないとも思う。昔から一緒にいることが当たり前なので、恋人というよりは同志という言葉の方がピッタリな気がするが。
「待たせたな。じゃあ、行くか」
「ええ」
少し先に行けば、木陰がある。そこまでさっさと行ってしまおう。それにしても、詩織は実際にはどれくらい待っていたんだろうか。「さっき」ではない気がする。僕は彼女にペットボトルを差し出した。
「僕の飲みかけだけど、飲むか」
「ありがとう、頂くね」
詩織はペットボトルを受け取ると、日傘を首と肩で挟んで、ふたを開けようとした。
「それじゃあ、大変だろ。傘は僕が持つよ」
「ああ、ごめんなさい」
僕は詩織から日傘を受け取った。ほのかに花の香りがする。この傘の香りなのだろうか。僕は太陽から詩織を守れるように傘を持つ。
詩織はペットボトルのふたをようやく開けて、口をつける。心地よさそうな顔だ。ゴクリと喉が音を立てる。首筋から汗が滴り落ちた。シャツは汗で濡れて、中の下着が透けている。僕は思わず目を反らした。
「あら、詩織ちゃん。おはよう」
声の主は花江おばさんだ。農作業用の服を着ているということは、畑仕事が一段落して、戻る途中なのだろう。
「花江おばさん、おはようございます」
詩織が頭を下げたので、僕も一緒に下げる。
「いや、そんな他人行儀なこと止めとくれ。これから学校かい」
「はい。今日は登校日なんです」
花江おばさんは僕たちを見て、息を漏らす。
「それにしても二人はお似合いだね。詩織ちゃん、優しい旦那さんでうらやましいわ」
「旦那さんだなんて、私たちまだ中学生ですよ」
「いや、あんたたちは夫婦みたいなもんだよ。もう決まってるんだろ」
「そんなの、ウチの父が言っているだけですから」詩織は苦笑する。
「あんたたちを見てれば、あんたたちもそのつもりだってことくらいわかるよ」
「そんな」
「おっと、こんな暑い中で長話に付き合わせちまったね。これから学校だろ。いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
詩織が手を振る。花江おばさんは満足したように自分の家の方へ歩いていった。
「これで今週の町の話題は決まりかしらね」詩織はため息をつく。
「花江おばさん、うわさ話が好きだからな」
「修一くん、ごめんね」
「昔から言われてることだ。今さらだろ」
僕と詩織が一緒になるという話は、僕たちが子どもの頃からお互いの両親が周囲に言っていることだ。そういう意味では、僕たちは同じ悩みを持っている。
詩織は求められている役割に順応しているように見えるが、僕は嫌になる時がある。
だが、詩織はそんな僕の内心をわかってくれる唯一の存在だ。親の思惑にのることに抵抗感がない訳ではないが、結果として詩織は僕にとってかけがえのないパートナーになっている。
いずれ僕たちは、花江おばさんが言うようにつがいにさせられるのだろう。嫌ではない。だけど、何もかもが勝手に決められていることに嫌気がさす。
考え事をしながら、詩織の世間話を聞き流しているうちに僕たちは中学校へ着いた。教室に入って、自分の席に座る。
まだ、開始までは余裕がありそうだ。僕は通信の家庭教師から指示された教材に目を通す。そうしているうちに時間を知らせるチャイムが鳴った。先生はまだ来ていない。
教室の後ろのドアがガラガラと音を立てる。そして、息を切らした和樹が入って来た。教壇に先生がいないのを確認したら、ゆっくり僕の後ろにある席まで歩いてきた。
「セーフ」
そう言いながら、和樹は席に腰をおろした。
「アウトだ。時間は過ぎてる」
「先生が来てないから、セーフだろ」
「アウトだ」
「修一は頭固いな。大事なのはルールじゃない。目的だろ」
「何言ってんだよ」
「だって、授業をはじめる時にみんな揃ってた方がいいから、開始時間を決めてるんだろ。まだはじまってないんだから、いいじゃん」
なるほど。そういう考え方はあるな。和樹は基本的にバカだ。しかし、シンプルに物事を考えているからなのか、たまに本質を突いたようなことを言う。だが、自分が固定観念にとらわれていることを認めるのも癪だ。
「そうやって言い訳すんなよ」
僕の言葉に和樹は痛いところをつかれたというジェスチャーで応える。その姿に僕は思わず笑ってしまった。
名字のせいで腐れ縁だが、それが良かったと思える数少ないメリットだ。他の奴らみたいに高野の名前をそれほど気にせず接してくるのもいい。生まれた時から美那郷に住んでいないからだろうか。
「あっ、来たぞ」
和樹の言葉で前に目を向けると、担任が教室に入ってきた。
「気をつけ。礼」
僕の合図で全員が立ち上がり、礼をする。
「お待たせ。じゃあ、みんな席に座って。出席を取るわね」
担任は出席を取り、提出物を集める。そのあとは掃除だ。僕たちは机を動かして、各々掃除道具を手に持ち場に別れる。
普段の登校日は校庭を掃除するのだが、今日は流石に教室内だけにしたようだ。担任が遅れたのは、その話し合いをしていたのだろう。
「修一」
僕を呼ぶ声に振り向く。声の主は仙道陸だ。肌が日焼けで真っ黒になっている。夏休み中は野球部の練習で、ずっと外にいたのだろう。
「なんだよ」僕は応える。
「相変わらず白いな、お前」
そんなくだらないことを言いに来たのか、こいつは。
「うるさいな。しょうがないだろう。遺伝なんだから」
「ふぅん。でも、お前の父ちゃんも母ちゃんも、そんなに白くないじゃん」
「ああ。もっと古い奴だ」
「へぇ、美那郷の高野家に伝わるってヤツか。余所者の俺には、わかんねぇけど」陸は茶化すように言う。
「そんな大層なものでもないさ。っていうか、用件はそれだけか」
陸は父親の仕事の関係で小学校四年になった頃、美那郷に引っ越してきた。この辺りのしがらみとは、ほぼ無縁で接してくれる唯一の相手だ。
和樹も気にしていないように見えて、実は空気を読んでいる。少なくとも「高野」を陸のように冗談めかして話すことはしない。僕にとってそれは新鮮だった。
「いや。ちょっと話したいことがあるんだ。終わったら『例の場所』に来れねぇ?」
「ああ、わかった。じゃあ、後でな」
僕たちの間で『例の場所』と言ったら、二人で見つけた山奥にある小屋だ。陸が美那郷に引っ越してきたばかりの頃、遊んでいる途中にたまたま見つけた。小学生の頃は秘密基地と称して良く遊びに行ったが、最近はじっくり話したい時に使う。街中ではどこで誰に聞かれているかわからないからだ。とはいえ、たいした話をしている訳じゃない。この前は、陸が片思いをしている女の子の話だった。また、その続きだろうか。
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