第5話
「あちっ」
落とした茶碗の中身が畳の上にこぼれる。立花は慌ててポケットからハンカチを出して、お茶を拭おうとした。履いているスラックスには濡れた跡ができている。僕は手伝おうとタオルを出す。
「ありがとう」立花はタオルを受け取る。
「やけどしてないですか」
「ああ、大丈夫」
立花は濡れたところにタオルを押し当てて、拭き取ると僕にタオルを返した。
「サンキュ、助かったよ」
「で、ミツアキって誰なんですか」
話をそらさせないために、僕は再び尋ねる。立花は黙りこんだ。僕はじっとその瞳を見つめる。耐えられないとばかりに立花は目をそらした。が、僕は立花に触れるくらい身体を寄せた。がら空きになった首もとに僕は息をかける。
「修一くん、近いよ」
立花は僕から逃れようと手で僕の身体を押し返す。触られた場所が熱を帯びていく。そんな気がした。
「じゃあ、答えてくださいよ」
何が「じゃあ」なのか、自分でもわからない。だが、僕は再び立花の瞳をじっと見つめた。
「いや、仲が良かった友だちの名前だよ」
「へぇ。どういうお友だちなんですか」
「SNSで知り合ったんだ。気が合うから、よく遊んでいて」
「ふぅん。だったら、何ですぐに答えてくれなかったんですか。そんなの、隠すことじゃないでしょ」
「いやぁ。何かあるんじゃないかっていう修一くんの期待を感じちゃってさ。でも、たいしたことない答えだろ。だから、言いにくくなっちゃって。ところで、修一くんはどこでミツアキのことを知ったんだい?」
こんな質問をするということは、立花はどこで自分がその名前を言ったのか覚えていない。きっと探りを入れて、話の辻褄を合わせたいんだろう。
「立花さんが家に来た最初の日です。晩ごはんの前に立花さんが寝ちゃったんで、僕が起こしにいったじゃないですか。あの時に寝言で言ってましたよ」
「ん?」
立花は首をかしげる。記憶をさかのぼっているようだが、思い出せないようだ。きっと自分が何を言ったのかすら覚えていないのだろう。
「覚えていないんですか。『ミツアキ、起きて欲しかったらキスして』って言ったじゃないですか。立花さん、お友だちにキスで起こしてもらってるんですね」
「えっ?」
立花の顔から一気に血の気がひいた。そして、エサをやり忘れた時の金魚みたいに口をパクパクとあける。何か言い訳をしたいが、何をいったらいいのかわからないのだろう。僕は質問を続ける。
「もう一度、聞きます。ミツアキさんは慶介さんにとって、どんな相手だったんですか」
立花は目をつぶると声を絞り出すように言った。
「わかった。言うよ。ミツアキはオレの恋人だった」
欲しかった言葉が出てきて、僕はうれしかった。
「『だった』ってことは、今は違うんですか」
「ああ、半年前に別れた。オレがまだ諦めきれていないだけだ」
「へぇ、そんなに好きだったんですね。何で別れちゃったんですか」
「いろいろとすれ違いがあって。オレがミツアキの期待に答えられなかったんだ」
「ふぅん」
「もういいだろう。ミツアキはオレの昔の恋人だ。君の質問には、もう答えた」
「昔の恋人ってことは、今は付き合ってる相手はいないんですね」
「そうだ」
「じゃあ、僕にも可能性があるってことですよね」
「えっ?」
立花は意表を突かれたかのように声を上げる。どうやらこちらのことは全く気がついていなかったらしい。
僕は身体を乗り出すと立花は身体をのけぞらせた。それに追い討ちをかけるように覆い被さる。呼吸をすれば相手の息がかかるくらいまで、身体の距離を縮める。大人の男って、こんな匂いがするんだ。もっと感じていたい。
「何をするんだ。オレのこと、からかってるのか」
「違います。最初に会った時から、感じたんです。『僕と同じにおいがする』って」
「こんなこと、軽々しくしちゃいけない。君は未成年だ」
そういえばこの前、未成年に手を出した大人が捕まったのがニュースになっていた。だから、怖いのかもしれない。
「大丈夫です。この事は誰にも言ったりしませんから。僕のこと、信じてください」
「違う。そんなことじゃない。一時的な感情で踏み込むものじゃないんだ」
強い力で押され、天井が見える。えっ、どういうことだ? 混乱している僕の目の前を足が通り過ぎていく。襖が開き、階段がドタドタと音を立てた。
どうやら、立花は僕を押し退けて、部屋を出ていったようだ。このままじゃ逃げられる。僕は立花を追いかけて、一階まで駆け降りた。目の前のドアを開けようとノブを回す。だが、ガチャガチャいうだけだ。中からカギをかけられた。窓側のガラスを破れば、中に入れないことはない。だが、もちろんそんなことをする訳にはいかない。
僕は階段を上がって、ベッドに寝転がる。どうしよう。考えているうちに、まぶたが落ちてきた。僕は真っ暗闇の中へ落ちていく。
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