不意に呼ばれる名前
6月の初め。
その日は夏と錯覚してしまうような日差しが降り注いでいた。
最高気温は30度を超え、汗が背中を伝っているのが分かり、嫌気がさしてしまう。その証拠にせっかくの休み時間だというのに俺、
「あちぃ~」
前の席に座る
俺ももちろん同意見なので返事もせずに頷いた。
「さっさとクーラーつけて欲しいよな」
「ほんと。都会は良いよなぁ」
都会では、高校にもクーラーの導入が始まっているらしい。うちの県にも無いわけではないが進学校から入れられる。そこまで偏差値の高くないここには、未だに導入の目途は立っていない。
「扇風機なんて、空気が熱いんじゃ意味ねぇよ」
天井で元気よく回る扇風機。教室の空気を必死に回しているが、空気は冷えないので効果は感じられない。
「まぁ、ここはそもそも当たんないしね」
「あ~、どうにかして欲しいよな」
先週行われた席替えで後ろの席をゲットすることが出来たが、喜ぶのもつかの間、すぐに扇風機の風が全く当たらないということに気が付いた。
窓は開けられていても風が無いんじゃどうしようもない。
「こんなに暑かったら野球部は大変だね」
「まぁな。超きついぜ」
目の前の彼は野球部である。甲子園に行けないが、練習はいっちょ前である。暑い中で必死にボールを捕っている姿を見るだけで、こっちが熱中症になってしまうそうだ。
「凉は良いよなぁ。室内で運動部でもないし。なんだよ写真部って、お前も運動しろよ~」
「嫌だ!」
「くそぉ」
友人のいう通り俺は写真部に所属している。しかし、高身長のために入学当時はよく勧誘を受けたものだ。あの時はめちゃくちゃ疲れた…。
「でも、良いじゃん。今日はプールがあるんだろ?」
「プールって言うなよ。プール掃除だよ」
本日の放課後、夏本番に向けて始まる水泳の授業と、水泳部の練習のために25mプールを掃除することになっている。
掃除のメンバーは水泳部が主であるが、それだけでは人手が足りないということで二年生から選ばれることになった。誰が決めているのか分からないが、毎年持ち回りでやってくる。来年は何年になるのだろうか。
各クラスから男女一人ずつ。うちのクラスではくじで決められた。そして、運悪く俺が当たりを引いてしまった。
だが、同時に嬉しいこともあった。うちのクラスの女子は
そうこうしているうちに、先生が教室に入ってくる。チャイムが鳴り、授業が始まった。
暑さに負けないように頑張りながら授業を受け、昼休みを迎える。
啓汰は野球部の部室で食べるため、俺は席を離れる。お弁当を持っていつものように他のクラスに向かう。
「よ~。冴木~」
「おう」
他クラスの友人。
「そう言えば、今日だっけ?」
「ん? 何が?」
「プール掃除だよ。放課後、あるんでしょ」
「そうそう。大変だなぁ」
「冴木と水野、俺たちのためにありがとね~」
「テルたち水泳部がやってくれたら俺たちが手伝うことじゃなくなるのによ」
「しょうがないだろ。つーか、お前らだって授業で使うんだから」
「プールって言えばさ。なんでプールってずっと水張ってんの?」
「あぁ、水を抜いてカラカラにしておくと壁や床が劣化しちまうんだよ。水を張っておけばそれが軽減されるんだって。後、ここみたいな屋外プールは地域防災の役割もあるらしいよ」
「あ、それは聞いたことあるかも。火事とかに使うんでしょ」
「そーそー。だから張ったままにしてんのよ」
「「ふーん」」
そのためにあの汚いプールになってしまうのか。まぁ、いざという時に使うためならば仕方ない。
「興味なさすぎでしょ…。まぁ、いいや。そう言えばさぁ…」
そうこうしているうちに、次の話題へと移っていく。
昼食を食べ終わり、自分の教室に戻る。すると、ある人物に話しかけられた。
「あ、いたいた。水野君」
「…え?」
振り返ると、本日のプール掃除の相方である原さんがいた。
「今日のプール掃除なんだけど、放課後になったらすぐに集合だって」
「あ、あぁ。分かったよ」
「じゃ、よろしくね」
連絡事項を伝えて彼女は去って行く。上手く話せなかった気がするな。
午後の授業も暑さにやられながら受ける。流れてくる汗に気を取られながら板書を写す。
2回目の授業終了のチャイムが鳴ると、いよいよ放課後となる。
「じゃ、また明日な」
「うん。また明日」
「プール掃除頑張れよ」
「そっちもね」
前の席に座る友人は急いで荷物をまとめて教室を出ていく。これから大変な部活動が始まるのだ。
友人を見送って自分も鞄を持つと原さんも荷物を持って立ち上がるのが見えた。
目が合って彼女はこちらにやってくる。
「そろそろ行こっか」
「うん。行こうか」
二人並んで廊下を歩く。会話はない。何か話した方が良いんだけど。
「もうみんないるかなぁ」
「え? あ、どうだろうね…」
急に声が聞こえて驚く。気を使って話しかけてくれたのだろうに、良い返答は出来なかった。
部活へと急ぐ生徒たちを避けながら数分歩いて少し離れたプールに到着した。
靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をまくる。約一年ぶりのプールサイドは昼間の日差しによって温められていた。というか少し熱い。
「うわ! 結構熱いね!」
「大丈夫?」
「うん。これくらいなら。まだみんな来ないみたいだしあそこの日陰で待ってよっか」
そう言って原さんは早足で木陰に向かう。俺も彼女の後を追った。
「お~、もう来てるのか」
入り口の方から声が聞こえて振り返ると、冴木と伊藤、そして数人がやってきていた。
水泳部もやってきて、彼らの指揮の元掃除が始まった。
「あっはは。つめた~い!」
水をまきながらはしゃぐ原さん。スカートをひらひらさせながらあちこちを水浸しにする。
「つめた!」
足に水がかかって声が出てしまう。
「ほらほら、水野君。ブラシで擦って~」
プールサイドに立つ彼女はブラシを持って下に降りた俺のそばにホースで水を撒く。俺は一生懸命に擦っていく。
緑色になった水が流れていった。少しだが綺麗になった。
「ほい!」
水が出しっぱなしのホースを渡してくる。びしゃびしゃと音を立てて溢れ出る水は太陽に照らされて輝いていた。
それを受け取って汚れを落とす。
「桜花ぁ~」
「なに~」
ホースを渡してきた彼女は友達に話しかけられていた。
プールサイドから脚を降ろして楽しそうに談笑する。ふらふらと両足を交互に振っているのが可愛らしい。
「あ、ちょっと桜花先輩! ちゃんとやってくださいよ」
「遥ちゃん~。そう言えば水泳部だったね~」
「だったね~じゃないですよ。ちゃんと掃除してくれないと水掛けますよ」
「分かったよ~。あ、水野君~、ちょっと代わるよ~」
遠くで話している彼女。みんなから下の名前で呼ばれているようだ。
少し羨ましくもある。名字さん付けの俺たちの関係はただのクラスメイト。それ以上でもそれ以下でもないということを否が応でも感じてしまう。
「桜花…」ボソ
周りの水の音と話し声で聞こえないと思い、そっと好きな人の名前を呟く。
「なに?」
「!?」
いつの間にか接近されていた!
「呼んだ?」
「い、いや…」
聞こえていたのか…。恥ずかしい…。熱くなった顔を見せまいと、そっぽを向いて答える。
「そう? 急に名前呼ばれたと思ってびっくりしちゃったよ~」
合ってます。呼びました。
「代わるよ。ちょっと休憩してきて良いよ」
「…ありがとう」
ブラシとホースを渡す。俺は少し休憩することにした。
一時間ほど経ってようやく掃除が終了した。
来た時とは見違えるほど綺麗になったプール。残った水滴が輝いている。
5時くらいだろうか。昼間よりも少し気温は落ち着いてきたようだ。
「お疲れ~。冴木も水野も」
「おう、お疲れ」
「ありがとな。うち7人しかいないから、みんな感謝してるよ」
「そりゃ良かった。な、水野」
「お、おう」
友達に面と向かって感謝されると照れる。
話しながら持ってきたタオルで足を拭いて、靴下と靴を履く。ズボンの裾も直す。
「水野。部活行く?」
「うん。一応」
「じゃあ、先行っててくれ。ちょっと教室に忘れ物取ってくるわ」
「おっけ」
プールを後にして、一人歩く。
「水野君~!」
「…えっ? ど、どうしたの?」
「部活。これから行くの?」
「うん、一応。みんなもういないかもしれないけど…」
「そうなんだ~。私もこれから。じゃあ、途中まで一緒に行こうよ」
「え、あ、あぁ…」
誰もいない教室の前を歩いていく。ここは一年生の教室だ。
会話も少なく、俺たちが分かれるところまでやって来た。
「じゃ、また明日ね」
「…また、明日」
「ばいば~い。凉君」
「…!?」
そう言って彼女はテニスコートに向かって歩いていく。俺は突然名前を呼ばれて硬直してしまう。
返事をしたかったが、歩く度に揺れるポニーテールを眺めることしかできなかった。
「そりゃ、反則でしょ…」
俺は、忘れ物を持った友人に話しかけられるまで一歩も動くことが出来なかった。
〇登場人物紹介
・水野凉(みずのりょう)
昔から写真が好きで高校では写真部に入部する。身長が高く、入学当時には運動部に良く勧誘されたが運動は苦手だし、できることならしたくない。同じ写真部の冴木と仲が良く、他の友人と共にほぼ毎日昼食を共にしている。くじ運が悪く、プール掃除になってしまうが、気になっている原桜花もプール掃除になり、少しだけテンションが上がった。
・原桜花(はらさくら)
テニス部に所属する。天真爛漫で可愛らしい。友達も多く、プール掃除でも話しながら楽しくやっていた。一年生の桜井とは家が近くて同じ中学だったということもあって親交がある。女友達からはほとんど名前で呼ばれているが、男子から呼ばれるのは慣れていない。
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