第4話

 少なくとも気まずげにはしてほしいが、「おにぎりって何ですか?」と聞いたが最後、面倒な根回しをされるに決まっているので放置している。

 思い出したらまたしても「げえ」の気持ちが高まって、玉木はマスクのなかで舌を出した。

 もうじき東京駅、乗り換えだ。

 東京駅の外れの京葉線から地上に上がるエスカレーターの、左側に寄って立つ人の長い列が出来ている。右側は長いエスカレーターを登りきれるだけの健脚びとが早足に登っている。エスカレーターではあるかないでください、の案内は全員に無視されていて、かわいそうだ。無視はよくないよ! と声をあげるだけの気力がないので、教室で行われている無視を放置している感じがある。みんな優しくあれ。そう願いながら玉木も左側の列にならんだ。

 地下から長いエスカレーターを登った先もまだ地下で、人の呼気が満ちている。

 初夏の陽射しは避けられるが、淀んだ空気を人がかき混ぜ続ける地下通路を、乗り換えのために10分以上歩く。トイレがあって、アンモニア臭が漂ってくる。メタンガスについてまた思いを馳せる。

 かつて氷河時代は周期的に訪れていた。

 いま氷河時代が終わったように思われている、少なくとも最終氷期から一万年は経っている。その最終氷期に起こったこと、それが人類の定住と農業の発展である。人類の定住! と考えたところで、人の流れに逆らって正面からやってくる男性がある。ちょうど半分ずつ避け合えばぶつからない、という加減を素早く導き出して軽く体を傾けると、男性は玉木よりも浅い角度、気持ち少し譲ってみました程度の角度で、速度もゆるめず突っ込んでくる。

 男性の手には灰色のチェックに水色の細いラインが入ったハンカチが握られていて、その柄がはっきりと見えるところまで接近したところで、玉木は体を大きく傾けた。玉木が160°、相手は20°、合わせて180°といったところで、これは圧倒的に負けである。屈した、と感じた瞬間に舌打ちが出ていて、しかし相手はすでに玉木のずっと後ろにいて、聞こえようもない。不織布のマスクのなかでこもった音は、自分が不快だということを自分に知らせるだけに終わった。

 谷さんならきっと、160°も体を傾けない。ピンヒールしか履かない谷さんは転ぶかもしれない。

 怪我を負ったとしても、それを理由に休むであろうし、通勤時の怪我ということで労災も申請するだろう。自分がただ解けていく凍土だとしたら、谷さんは2000頭のトナカイと一人の少年を死に至らしめる細菌である。解凍されて細菌として細菌の活動をしただけ、というわけで、良いも悪いもない。

 あらゆる土壌に存在する。目に見えない驚異として恐れるのは人間の勝手であって、細菌は細菌としているだけである。谷さんも谷さんとしているだけである。

 やっと乗り換えの線について、地下のまた地下に降りる。

 今度の線は都心の地下鉄らしい混雑具合で、つまり人と人の隙間に形を変えて収まらねばならない。入り口から動こうとしない乗客が居ることに、律儀に毎朝苛立っている。今朝もいる。奥に入ればまっすぐ立てる程度のスペースが見つかりそうだが、まず入り口で鍵穴にはまる鍵先のごとき無理な姿勢をくねくねと取る。

 くねくね踊りとへらへらお辞儀を繰り返して奥に進むときに、これも律儀に人としてのソンゲンが削られている感じになる。車内に吹く風は換気のために開けられるようになった窓からのもので、風よりも音の印象がつよく爽快ではない。風がどんなものだったのか、輸送されている間は思い出せなくなっている。

 会社の最寄り駅に到着して、車両がぜん動運動するみたいにしてひり出される。ホームと壁の間の細い通路を、出口の階段に向かって歩きながら、「人新世」とつぶやくとその声は案外に響いたが、周りはみなイヤホンを耳に詰めているので問題なかった。

 細い通路を歩きながら、誰も話さず、ホームに突き落とされることもなく、粛々と出口に向かっていく。出た先にそれぞれの職場があり、規定の時間働き、また同じ道を帰る。その活動を繰り返しながら、人は大気の組成を変えて、氷河時代を遠いものにしていく。

 SDGsの叫ばれる昨今だが、温暖化は止まらない。永久凍土は減っていく。北極圏には巨大な穴があく。階段を登りきるころに空気が空気らしくなっていき、今まで吸って吐いていたのは濃縮された人間の気だと分かる。マスクの中が蒸れきっていて、顎が濡れている。

 会社としてISO14001を取る、と突然社長が言い出して、玉木は担当者の一人にされてしまった。

 これから紙の排出だのゴミの分別だの、そんな小学生の書く環境ポスターのようなマニュアルを作り、周知し、年一回の外部監査に向けて動かねばならない。

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