五件 2

 ポロン、ポロンとピアノの音が部屋に響き渡る。


 優しい音だ。

 この曲はたしか。『蛍の光』だ。


 鏡子はピアノを演奏している人物を見る。まだ六歳前後の男の子だ。その男の子に寄り添うように隣に荒れた黒い髪が特徴的な四十代の女性が座っていた。

 女性こそ今回の裁判相手。内田 美知恵。そしてピアノを弾いているのは美知恵の息子だ。


「そろそろ休憩にしましょうか」


 美知恵は優しい笑みを息子に浮かべる。


 今のところいい母親のようだ。


「でも。もうすぐコンクールが」と息子。


「大丈夫よ。さ、お菓子を食べましょう」


 どうやらピアノのコンクールが近いらしい。


 美知恵は台所の棚から煎餅を取り出す。それを見て息子も目をキラキラ輝かせながらピアノから離れ、居間のコタツに入る。

 息子はボリボリとコタツで煎餅を食べ始めた。


「あのね。ママ」

「ん?」


 美知恵も煎餅を齧りながら息子の話を聞く。


「僕、サッカー選手になりたいんだ」

「っ!!!」


 その息子の言葉に今まで上機嫌だった美知恵の顔が青ざめた。


「ピアノはどうするの」

「そ、それは」

「あなたがやりたいって言ったんじゃない」


 っ!


 美知恵の目は今までと対照的に冷たく息子を見据える。そして嫌なため息を吐く。


「いい? あなたは私の夢そのものなのよ」

「う、うん」

「あなたには私を超えてもらわないと」


 この美知恵という女性はピアニストでも目指していたのだろうか。なんにせよ、それを理由に子供の夢を否定するのは……。


「間違っている」と呟いたその瞬間、鏡子の視界がグルリと周り暗闇に包まれる。かと思ったら、眩い光が視界に入り思わず瞬きを繰り返した。しばらくすると目が慣れて全体が見えてくる。

 鏡子の目の前には大きな舞台。舞台には黒光りしているピアノが一台あり、そのピアノには美知恵の息子が緊張した面持ちで腰かけている。鏡子はそれを真ん中で観る形で観客席に座っていた。


 これって……ピアノのコンクール、だよね。


 鏡子は少し前かがみになって美知恵の息子を見守る。


 頑張れ、頑張れ。


 美知恵の息子はスーハーと遠目から見ても分かるほど深く深呼吸を繰り返してから、そっと鍵盤に触れて『蛍の光』を弾き始めた。


 たどたどしくはあるが上手く弾けている。ポロンポロンと優しい音が辺りに反響する。このままいい感じに演奏が終わるかと思ったが、最後の最後に素人でも分かるような変な音が鳴った。


 弾き間違い? でもこのくらいだったら持ち直せる。そう思ったが相手はまだ六歳前後の子供だ。そう上手くはいかない。


 美知恵の息子は鍵盤に不自然に手を置いたまま動かない。

 思わず鏡子は胸の前で手を組む。


 頑張れ、頑張れ、頑張れ――。


 だが鏡子の祈りも虚しく息子はそのままピアノを弾く事はなく、結局係員に連れられ舞台を後にした。




 ポロン、ポロンとピアノの音が鳴って鏡子はハッと目を開けた。ピアノの前には今にも泣きだしそうな息子。そしてその隣には恐ろしい顔をした美知恵が両腕を組んで立っている。


 鏡子はピアノの音に耳を澄ませ、思わず眉をひそめた。


 弾いている曲は前と同じで『蛍の光』だ。けれど。なんだか以前に比べてとげとげしい、ような。


 美知恵の息子は目をこすりながらピアノを弾き続けている。眠気に負けるのか、時々不自然に頭を揺らし鍵盤を弾き間違えている。そのたびに美知恵の顔がさらに険しくなり、息子は背筋を正す。


「どうしてそこで間違えるの。いい? 次は失敗せずに弾くのよ」

「う、うん」


 息子はそう答えるものの飽きてしまっているのか、涙目になりながら足をぶらぶらさせて遊んでしまっている。息子は大きなあくびを噛み殺してわずかに時計へと目を向けた。

 時刻は二時ピッタリを指している。けれど。


 鏡子はそっと部屋の隅にある窓ガラスへと移動する。窓の外は真っ暗闇。家が密集しているのにどの家にも灯りは一つも点いていない。電灯が弱い灯りを放っているのがかろうじて見えた。


 今の時刻は二時は二時でも昼でなく深夜の二時――。

 そりゃあ眠くなるわけだ。



 鏡子も外が暗いからか思わずあくびをしてしまう。


「じゃ、もう一度。間違えたところの四小節前から」


 息子はピアノを弾き始める。


 もう寝かせてあげようよ……。


 鏡子は美知恵を見て思わずため息を吐く。もう一度大きくあくびをしたその時、ピンポンと家のチャイムが鳴る。息子のピアノを弾く手が止まった。


 鏡子はこんな真夜中に誰? と思ったものの、すぐにこんな夜中だからかと納得する。


 美知恵は玄関へ向かう。鍵を開ける音と共に何やら揉めている声が聞こえてきた。

 鏡子も美知恵の後を追って玄関へ向かう。


「ちょっと。毎晩、毎晩いい加減にして下さる?」


 そう声を上げたのはこの家の隣に住んでいる奥様だ。


「毎晩。毎晩。ピアノの音がうるさくて眠れないのよ」

「!」


 ああやっぱり、と鏡子は深くため息を吐く。


 こんな真夜中にピアノを弾いていれば苦情の一つや二つくるだろう。

 この苦情で息子に無理強いしなくなればいいのだけれど。


 そう思った瞬間に「あなたの方こそ迷惑よ!」と美知恵は声を荒げる。


「私の息子はね、ピアニストになるの。あなたたちとは違うのよ」

「は!?」

「あなたたちの方が我慢しなさいよ」


 鏡子は思わず頭を抱える。


 駄目だ。この人、周りのことに目がいかないタイプだ。それに息子の夢はサッカー選手なのに。


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