五件 3

 パッと視界が開ける。目の前には美知恵が閻魔大王の前で跪いていた。


「さて妻の意見を聞こうか」


 閻魔大王は鏡子の顔を覗き込む。


「わ、分かりましたからっ。顔が近いです」

「そうか?」


 閻魔大王は意地悪な笑みを浮かべている。

 鏡子はコホンと軽く咳払いをしてから口を開いた。


「現代には環境基本法というのがあってそこにどのデシベルを超えれば騒音になるのか載っています。そこの地域によって誤差はありますが、夜間の騒音は45デシベル前後です。一方ピアノは100デシベル前後の音が出ますから。さすがに50デシベルの差は地域ごとの誤差でどうにもできないと思われます」

「つまりは有罪、と」

「はい」


 鏡子は閻魔大王の目を見てしっかりと頷く。


「ということだそうだ。司命、あとは頼む」

「はいはーい」


 司命は元気よく頷いて美知恵の荒れた髪を掴んだ。


 いくら有罪とはいえこういうのを見るのはやっぱり嫌だな……。


 鏡子はそっと美知恵から視線を外した。その瞬間、「どういうつもりだ!!!」と珍しく司命の怒鳴り声が響いた。


「!」


 鏡子はすぐに美知恵へと視線を戻す。美知恵の手には短刀が握られていて、司命の頬には薄っすらと傷がついていた。


「司命!!!」


 鏡子は司命へと近づこうと足を踏み出す。だが、すぐに立ち止まった。美知恵が短刀を鏡子に向けていたからだ。


「っ!」

「私が有罪ですって!? 冗談じゃないわよ!!!」


 美知恵は顔を真っ赤にして鏡子に突進してくる。


「っ!」

「鏡子!」


 閻魔大王が名前を呼ぶ。鏡子の腕をとって背に庇った。だが美知恵は止まる気配がない。


「閻魔大王!!!」


 鏡子は不安げに閻魔大王の背を見上げた。


「大丈夫だ。心配する事は無い」


 閻魔大王はそっと鏡子の頭に右手を置くと、片方の左手で美知恵の手首を捻り上げた。その勢いで美知恵は短刀を落とす。


「ぐっ!!! 離せ!!! 離せええええええええええええ!!!」

「司命、司録」


 閻魔大王が声をかけると二人はすぐさま美知恵を床に抑え込んだ。鏡子はホッと息を吐き出す。


「大丈夫か、妻よ」

「あ、はい。ちょっと前に泰山王にも似たようなことされましたし。それに閻魔大王に庇ってもらったので」


 とはいえ刃物を突き付けられても平然とできるんだから、順調に地獄に慣れてきちゃってるな……。


 閻魔大王はくしゃくしゃと鏡子の頭を撫でると、美知恵に鋭い視線を向ける。


「司命、司録。後は頼む」


 そう言うと閻魔大王は鏡子の腕を引いて歩き出した。


「え、あの。閻魔大王?」

「戻ろう。部屋へ」

「あ、はい」




 閻魔大王に腕を引かれて部屋に来たけれど。ここって閻魔大王の部屋じゃないっ! てっきり私の部屋に行くのかと思ったけれど……。


 鏡子はビクビクとしながら部屋の片隅に佇む。


「どうした」

「いや~その~。何というか。私の部屋に行くものだと思っていたし。それにあんまり男性の部屋に入ったこと、なくて……」

「? 裁判前までは大丈夫だっただろう」

「あ、あれはっ! ついつい音が気になって。そこまで考えていなかっただけでっ!」


 今思い返したら恥ずかしくなってきた。


 鏡子は赤くなった頬を悟られないよう俯く。閻魔大王はフッと軽く笑うと机の上に置いてあった琴に手を置く。


「ヨナヌキ、弾いてみるか」

「え?」

「息抜きになるぞ」


 もしかして。私がさっき刃物を突き付けられたこと、気にしていると思って。


 鏡子は思わずクスリと笑ってしまう。


 不器用な人……。


「それじゃあ、ご指南お願いします」

「ああ」


 閻魔大王は妙にご機嫌な鏡子を不思議に思うが、あえて言葉にせず「親指で弦をはじいて弾くんだ」と話を始める。

 閻魔大王がポロン、と手本でヨナヌキを鳴らす。


「やってみるか」

「はい」


 鏡子も閻魔大王に倣って親指で弦をはじく。ポロンと温かい音がする。鏡子は続けて順番に違う音を弾いていく。


「あれ?」


 途中で違和感に気付いて閻魔大王へ目を向けた。


「このヨナヌキって」

「音数が少ないだろう」

「はい」


 ドレミファソラシと七つの音を弾いたはずなのに、ヨナヌキは五音しかなかった。


「普通の楽器はドレミファソラシドだが、ヨナヌキはドレミソラド。つまり「ファ」と「シ」の四つ目と七つ目の音が抜けているから「ヨナヌキ」という名前なんだ」


 鏡子は「へえ」と感心するのと同時に、でも……と首を傾げた。


「どうしてそんな楽器があるんですか。ちゃんと音が揃っていた方がいいと思うんですけど」

「それはここが地獄だからだろうな。音が抜けている方が曲つくるのが難しいだろう。それだけ時間を潰せるからな」

「……なるほど」


 鏡子は頷きながらポロン、ポロンと適当に音を鳴らした。


 ヨナヌキはギターと鉄琴を合わせたような音だけど……。


 鏡子はふと美知恵の息子が弾いていたピアノの音を思い出す。


「閻魔大王」

「どうした」

「あの息子はどうなるんでしょう。ピアニストになるんでしょうか」

「……不満そうだな」


 鏡子はヨナヌキを弾いているが、心は晴れない。


「だってあの子、サッカー選手になりたいって。母親の言うことじゃなくて、自分のしたいことをしていいんだって。伝えられないものでしょうか」

「………………」

「? 閻魔大王?」


 閻魔大王は何故か難しい顔をして黙り込んでしまう。


「あの。私、何か変な事言いましたか」


 鏡子が閻魔大王の袖を少し引っ張ると、「ああ、すまない」と閻魔大王はやっと言葉を発した。


「地獄の者が生きている者に言葉をかけることは禁忌なんだ」

「?」


 禁忌?


「言い方が難しかったか。死んだ者は生きている者に声をかけることはできない、ということだな」

「なんとなく分かるような気がします」


 死んだはずの人の声が聞こえていたら、現代は今頃大混乱しているはずだし。


「それに……。もし声をかけたとしても……。何故か声をかけられた者はどれだけ善行を重ねていても地獄に落ちてしまってな」

「地獄に……」

「ああ。禁忌を犯した代償、といったところだろう」


 声をかけた方じゃなくて声をかけられた方が損をするなんて。なんだか理不尽。


 鏡子が浮かない顔をしていると閻魔大王は寂しそうに鏡子の頭を撫でた。


「閻魔大王?」


 なんだか様子がおかしいような。


 鏡子は閻魔大王の顔を覗き込もうとする。だが覗き込む前に閻魔大王は鏡子の頭から手を離し、一歩引いた。


「良かったらヨナヌキを妻の部屋に持ってこさせよう」

「え……。あ、はい。お願いします」


 急に話題を変えるなんてやっぱりおかしい。

 そう思ってはいるものの鏡子は深く突っ込むことができなかった。


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