118話 裂けた太陽 8/9
―― ヨーミ ――
1月6日。中学2年の冬休みも最後を迎える日。
電車を降り立ったあーしを出迎えたのは、灰色で覆われた曇天であった。少し視点を下げれば、少し大きな駅前あるあるの、壁や柱に錆がこびり付いた、古ぼけた店が立ち並んだ駅前の交差点が見える。
「……懐かしいな」
キャリアケースを転がしながら周囲を眺める。
ヒビの入った黒板を掲げた喫茶店。流行りから外れた玩具ばかりを店頭に展示するおもちゃ屋。主婦層にしか売る気が無いラインナップの小さなブティック。
どれも見知った店ばかりで何も変わっちゃいない。小学生の頃にここへ来たときは、こんなチープな並びでも、ワクワクの詰まった宝石箱みたいなもんだったっけ。この地域だけ時間が止まったかのような感覚だ。ノスタルジックが極まりすぎて涙が出てきそうである。
目的の下宿先まで良い気分で向かえそうだな――。
「オゥオゥお嬢ちゃん。オシャレェなカッコしてるね~。東京っ娘でしょ? こんな田舎へひとりで何しに来たの? 観光かい?」
「………………」
いつの間にか高校生くらいの男3人から声をかけられていた。駅を出て3分も経っていない。
相変わらず治安の悪い場所である。これまた懐かしい展開だ。駅前でナンパに困ってた女の人を、よくのり子と二人で助けてたっけ。これも同じくノスタルジック。感動は全然ねえけど。
「どしたの? なんか嬉しそうじゃん? ナンパされちゃったのが嬉しかったカナ?」
「いやいや。全然変わってねーと思ってな」
「え? 変わってないって……俺と君、もしかして前に会ったことある、みたいな感じ?」
「テメーなんてまったく知らねー……よっ!」
「ぶふぇ!?」
挨拶代わりに回し蹴りを放って男を吹き飛ばす。ファーストコンタクトだし、相手には何の因縁もない。下手に怪我をさせたくないので手加減という手心は加えてやる。
暴力は悲劇しか生まないと分かっていても、飛びかかる火の粉を払うために受け身の姿勢は禁物だ。退院後もチームの残党から再度ちょっかいをかけられて学んだ結論である。
「ボサッとしてるんじゃねえよ田舎モン。都会の流儀を教えてやるよ。格安コースでな」
そんな結論を目の当たりにして呆気にとられる高校生たちへ、あーしは追撃をかけて追い払うことにした。雑魚だったので、大きな怪我をさせないように気をつけながら。
帰ってきた。
そう仄かに実感させる開幕であった。
・・・・・
・・・
・
『帰ってきて早々に災難だったわね。怪我はしなかった?』
絡んできた不良たちを退け、下宿先に到着したあーしを待っていたのは、のり子のお母さんからの電話だった。喧嘩の噂を聞きつけた下宿先の大家さんが彼女へ連絡してくれたらしい。大家さん所有の黒電話越しから聞く彼女の声は、あの事件が起こった直後とは違い、快活な調子だ。向こうも状況が落ち着いたのだろう。
「全然へっちゃらです。雑魚だったんで、軽くあしらってやりました。向こうもほとんど無傷です」
『なら良かった。貴女も随分と肩の力が抜けたみたいね。昔の貴女だったら向こうも無事では済まなかったでしょうし』
「過剰な暴力は不幸しか生み出さない……ここから離れてから、身に沁みるほど学びましたから」
後悔を含んだあーしの返答に、彼女は「そうね」と短く返事をするに留まるだけだった。それから軽く世間話をして、最後に佐藤家へ顔を出すか聞かれ、「いいえ」と答えてから通話を終わらせた。
自室に戻る。4畳半の映えない個室だ。ここが今日からあーしの住まいとなる。
新しい部屋に愛着が持てることを祈りながら、東京から運ばれてきた荷物の荷解きを始める。
「あ」
スペースを圧迫されるため、大きな荷物を優先して開封していると、引越し業者が事前に運んでくれた姿見鏡が登場した。再婚前の母さんの私物だ。義父が暴れると危ないからと、こっそり倉庫へしまっておいたんだったな。
部屋の隅に設置し、映し出された姿を眺める。鏡に映る自分の輪郭を指でなぞりながら。
少々の怪我とタトゥーは見えるが、身体の造形は綺麗と呼べる程度には整っている。本来ならばもっと深い傷を負い、もはや女とすら名乗れないほどの肉体となっていただろう。
「……今度はあーしが恩返しする番だ」
決断に至った理由は多い。
自分の罪と向き合うため。
そして、もう一度のり子の親友となるため。
故郷へ帰れたという嬉しさは無い。不安と恐怖ばかりが募る。
また会ったら罵倒されるだろうか。恨み言を言いながら殴るだろうか。それとも関わり合いたくないから無視されるだろうか。
拒絶される覚悟はできている。相応の罪を犯したのだから恨まれて当然だ。夢を諦めさせるほどの傷を負わせたのだから。
それでも、もう逃げないと決めた。そのための帰郷だ。
『私はこんな顔になっちゃったんだ。将来なんて、もうどうでもいいよ』
その台詞を明日の転校初日に聞くことが無いよう、その日は神に祈りながら荷解きを続けた。
・・・・・
・・・
・
明くる次の日。1月7日、始業式。
用心に用心を重ね、心の準備を万全に整えて迎えた転校初日。そこにのり子の姿は無かった。のり子のクラスメイトに尋ねたところ、どうやら今日は休みを取っているらしい。杞憂と言うべきか、肩透かしと言うべきか。
しかし聞き捨てならない評判をいくつも耳にした。のり子のお母さんは最近の様子を話そうとしなかったけど、納得の理由が出揃っちまった。
「あいつに喧嘩でも売りに来たのか? やめとけやめとけ。喧嘩負け無し50連勝、暴走族の
「この地域じゃ各学校に必ず番長が居たもんだが……この学校は例外だ。あんな化け物が学校にいたんじゃ、番長なんて名乗ってもタダの
「この学校で彼女のことを聞くのは
「昔はすごく元気で明るい子だったんだけど、顔に傷がついてから、すごく怖くなっちゃって……最近はまったく話しかけなくなっちゃった」
「ちょっと可愛いからってチヤホヤされてたから良い気味よ。今の化け物ヅラを見てると自分がまだマシって思えるわ」
「化けの皮が剥がれて化け物になったって感じ? ウケる。とりま、さっさと退学して二度と復帰しないでくれって感じだわ。ライオンの檻に閉じ込められた感じだし」
「あの顔だからさ、一度いじめに遭ったことがあるんだ。
……暴れ過ぎだろ。のり子の評判を尋ねただけでクラス内の空気が絶対零度になっちまったのは流石にビビったぞ。
のり子の悪口を言った女どもにブチ切れかけて殴り飛ばしそうになったが、今日のところは全力で我慢した。ぶっ飛ばすのは全然構わねえけど、のり子が原因であーしが孤立したら、この世で一番悲しむのは間違いなくのり子だ。気を使わせるために転校してきたんじゃない。今は我慢の時だ。
さて。聞き込みの結果、間違えようのない、ひとつの事実に辿り着いた。
佐藤のり子は孤独である。
そして、その状況を放っておけない自分がいる。
決心がついた。
のり子に会おう。
「転校生ちゃん! 一緒に帰ろうよ! 紹介したい店があるんだ!」
「ごめん。あーし、転校のゴタゴタでまだ面倒な用事あるからさ。今度紹介してくれよ」
帰りの会の直後、おそらく最初で最後となるお誘いを断り、飛び出すように学校から脱出した。記憶を頼りにのり子の家へ向かう。
足取りは軽い。迷いが吹っ切れて、やるべき事がハッキリしたからだ。
何度も思い出に浸り、何度も道に迷い、何度も息切れを起こしながら、目的の場所へ着実に近づいていく。
そして、もうすぐ到着する……そう確信した瞬間。
「があああっ!!」
「うわっ!?」
住宅街にある十字路を右折しようとした矢先に、ボロボロに怪我をしたひとりの不良が進行方向から吹き飛ばされ、地面を転がりながらあーしの目の前を横断していった。
咄嗟に男が吹き飛ばされてきた方向へ視線を向けた瞬間、中型のバイクが目の前を掠めるようにして吹き飛ばされてきた。
「おお!?」
当たらないと分かっていても飛び退いてしまう。まるでトラックと正面衝突をしたような吹き飛び方だった。
「どいて。邪魔」
冷え切った口調で注意され、あーしは更に一歩引いた。バイクが吹き飛ばされた跡を悠然とした足取りで歩んでいく、ひとりの女子中学生の姿。その女の顔には2つの大きな傷跡が広がっていた。
ついに見つけた。紛れもなく佐藤のり子である。
でも記憶の中のあいつとはまるで正反対だ。
笑顔がない。瞳が濁りきっている。目の下は酷いクマ。肌と髪は荒れ放題だ。アイドルを目指していた頃の愛嬌など欠片も残っていない。
これがあーしの犯した罪の代償。その終着点。
「やめ……やめて……」
男は涙と血でぐしゃぐしゃになった顔を両手で庇いながら、必死に命乞いをする。だがのり子は何の躊躇も無く男の胸ぐらを掴み、持ち上げた。そして音が聞こえてきそうなほど拳を強く握り込み、手を上げて構えた。いつでも顔面を殴れるように。
「やめろ? てめえが始めた喧嘩だろうが。なに勝手に降りてんだよ。やる気が無いなら喧嘩なんか仕掛けてくるんじゃねえよ」
「ひ……たす、たすけて……!」
「どっちかが死ぬまで殴り合おうって言ったのはてめえだろうが! 自分の言葉に責任もちやがれ!」
そしてのり子の拳が振り下ろされようとした瞬間。男は恐怖のあまり失神してしまった。男が無抵抗になったことを悟ると、のり子は舌打ちをしながら廃車となったバイクの上に投げ捨ててしまった。その衝撃ですぐに意識を取り戻した男は、壊れたバイクを引きながら逃げていく。
まるで昔の自分を見ている気分だ。
……のり子のお母さん。あーしに再会したとき、貴女は言ったな。のり子があーしを庇ったことがベストの選択肢だったって。
でも、これだけは言える。あの言葉だけは、絶対に間違っている。
こんな佐藤のり子を見たい奴なんて、世界中の誰ひとり居やしない。
恐怖と後悔で乱れる息を必死に整えながら、ついにあーしは名前を叫んだ。
「のり子! 佐藤のり子!」
名前を呼ばれたのり子は、あーしを横目で一瞥した。そしてあーしの姿を視界に捉えた瞬間。
「……ヨーミ?」
驚きの声で呟く。のり子の瞳の中に光が宿った。絶望の中に希望が宿った瞬間を確かに見た。
でもそれは一瞬だった。すぐさまあーしに背を向け、近くの道路に投げ捨てられていた自分のバッグに駆け寄って帽子を取り出し、背を向けたままその帽子をかぶる。
「な、なんでここにいるんだよ!? そんな連絡、貰ってないぞ!?」
ああ……なんだよ。変わってねえじゃん。前と変わらねえ声、出せるじゃん。
でもあーしやのり子のお母さんの前だけだったら意味がない。ここで立ち止まる訳にはいかない。
「昨日帰ってきて、今日転校してきた。お前、休んだから知らなかっただろうけど」
「あ、あー……今日、始業式だったのか。そうなんだ。すっかり忘れてたヨー。あはは……は……」
「………………」
「ははは……」
話が続かない。あーしも、これ以上どんな話題で話しかければいいのか分からない。昔のように軽口を叩けるような関係ではないのだ。
数分の沈黙が続いた後、会話を再開したのはのり子だった。
「私の噂、聞いたんだよね?」
「ああ」
「いい噂、まったく無かったでしょ」
「……ああ」
「そっか」
はぐらかすことはできなかった。背中が震えている様子が分かった。のり子も心の中では、ちょっとくらい庇ってくれるような評判を期待していたと思う。でもそんな薄っぺらな嘘なんて、すぐ見破られるに決まっている。
「なんで戻ってきたの?」
「もう一度、お前と友達になるためだ」
のり子の背中がビクリと震えた。
「じゃあ、もう無理だ。私と一緒に居たら、ヨーミまで化け物扱いにされちゃう。ヨーミとは友達になれない。ヨーミを化け物の友達になんかにさせたくない」
「勝手に言わせておけばいい。それでもお前とまた学校に行きたい」
「駄目だ。ヨーミは不良を止めて、普通の暮らしに戻ってるんだよね? そうだよね? もう私の評判は取り返しのつかないところまで落ちてるんだ。私と関わったら、また地の底まで落ちちゃうんだ。それは……私の願いじゃないよ」
「そんな押し付け、望んでねえ」
「望んでよ! じゃないと、私が身代わりになった意味、なんにもないじゃん! ヨーミは綺麗なんだから、もっと立派になってよ!」
身を切るような叫びだった。直後に、のり子はぐすぐすと泣き始めてしまう。「こんなはずじゃなかったのに」と呟きながら。
「顔の傷くらい……私の夢を捨てるくらいなら、大丈夫だと思ってたんだよ。それでヨーミが助かるなら、それでもやっていけると思ってたんだ。でも、思ったよりもずっとショックで、もう馬鹿な頭がもっと馬鹿になっちゃって……ごめん、本当に理不尽な言いがかりをしてると思う」
声をかけようとするが、かざした手に制止されてしまう。
「声かけるの、やめて。甘えたくなるから。ごめん、ヨーミ。せっかく来てくれたのに、ごめんなさい。ワガママで、ごめんなさい」
遠慮なく甘えろよ。友達なんだろ。
そんな軽い言葉もかけられないほどに、深く暗い溝が二人の間に広がっているのを感じる。もう言葉が出せない。
「私は大丈夫だから。いつかきっと立ち直ってみせるから。ひとりでも頑張れるから。だからもう、話しかけないで」
のり子はあーしに背を向けたまま、地面に大量の涙跡を残しながら、言った。
とても穏やかな口調で。
「話しかけたら絶交だからな」
陽が落ちて暗くなり、街灯が暗闇を照らし始めた頃、ようやく我に返ることができた。気がついたらのり子は目の前から消えていた。
聞く耳持たずで孤独を受け入れたうえでの絶交宣言か。堪えるな、こりゃ。嫌悪で罵倒されたほうが、もう少し心が落ち着いていたかもしれないな。
「これが白昼夢ってやつか……へへっ」
のり子が不良だったあーしにしつこく付き纏っていたのが身に染みて理解できたよ。理不尽で腹が立つ。でも放っておけない。こんな矛盾したモヤモヤを抱えながらでもあーしを救おうとしていたのか。やっぱりすげえな、佐藤のり子は。
じゃあ、あーしも見習わせてもらおうか。拒絶がなんだ。絶交がなんだ。そんなもんであーしの決心が揺らぐと思うなよ。
あーしは佐藤のり子のファンなんだ。
推しの笑顔になるためなら、もう逃げないと決めたんだ。絶対に。
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