108話 エッグ・ザ・アイドル バイ・ザ・シー
―― 最上詩子 ――
空って、こんなにも青くて綺麗なんだ。
そんなフレーズを心のなかで何度も繰り返しつつ、空を見上げながら春の海岸沿いを歩いていた。踏みしめるアスファルトの硬さ。打ち寄せるさざ波の音の心地よさ。春風の柔らかさ。そんな穏やかな風景の中を歩ける幸せ。一歩間違えば、この光景を見るのは数年ほど後回しとなっていたかもしれない。
「詩子。上ばかり見ていると危ないよ」
「あっ……ごめんなさい」
しっかりと他所行きの変装を決め込んだルルーファさんが心配そうに声をかけてくれた。慌てて彼女の横を歩くようにルートを修正する。
「一段と空が綺麗に見えてしまったものですから、つい眺めていました。こんな晴れやかな気持ちで公道を歩いたのは初めてですよ。のり子さんに許してもらわなかったら叶わない光景ですから」
「良かったな、お嬢に分かってもらって。配信のネタが出来て良かったと思えば良いんじゃないか?」
「前科一犯になる紙一重ですけどね……」
感極まって紅焔アグニスこと佐藤のり子さんに無許可ハグしてしまうという、自分でも驚天動地な一幕は、冷静なルルーファさんのアシストのもと、無事に円満な示談へと着地することが出来た。ついでに私が紅焔アグニスを避けていた理由も滞りなくのり子さんに共有済みとなっている。
一連の私の態度に、のり子さんは一切怒ることなく笑顔で受け入れてくれた。
こんな言葉と一緒に。
『トップアイドルの推しから認知されていたどころか限界化されてたなんて……私もトップアイドルになった気分ですよ!』
『でも……できれば、ひとりの後輩として可愛がってくれると嬉しいです』
『私が無理なら紅焔アグニスだけでも』
その言葉だけで、どれだけ深い挫折を味わってきたのか伝わってしまった。健気すぎて心の中で号泣していたよ。正直、もう一度抱きしめたくなった。勿論ぐっと堪えましたが。過ちは繰り返しません。
「強いて言えば、せつな嬢がもう少しお嬢に打ち解けてくれれば万事オーライなのだが」
「しょうがないと思いますよ。せつなちゃんをGSの世界に引きずり込んだ張本人なんですから」
心の底から舎弟に成り下がっているから、もう取り返しがつかないような気もするけど。
しかし我に……じゃない。ルルーファさんに秘策ありだ。その中身はズバリ『食事』である。
のり子さんが住むこの町は海沿いとあって、ローカルなスーパーでも非常に質の良い海鮮の数々を仕入れることができたのだ。特に60センチはオーバーしかねないほどのサイズを誇る真鯛の味は楽しみで仕方がない。さらに追い打ちで、本日の献立はルルーファさんお手製のアクアパッツァですよ。プロをも唸らせるルルーファさんの腕前があってこそ聞ける料理名だ。そんな庶民には馴染みの無い、そして美味いが確定した料理を皆でシェアすれば、せつなちゃんだって打ち解けるに決まっている。私も楽しみです。
「うん?」
不意にルルーファさんが立ち止まった。
「どうしたんです?」
「歌が聞こえる」
ルルーファさんの視線の先には、それなりの大きさを誇る近隣の緑地公園が広がっていた。それ以上の情報は入ってこない。
「歌ですか。私には聞こえないですが」
「ちょっと距離がありそうだからね。少し様子を見ていいかい? この辺りは治安が悪いから、できれば一緒に来て欲しいのだが」
「大丈夫ですよ。まだ夕飯まで時間がありますし」
「ありがとう」
ルルーファさんに導かれるまま後をついていく。思ったよりも随分と歩かされたな。おそろしいほどの聴力だ。
やがてルルーファさんの言う通り、歌声が聞こえてきた。女の子の声だ。中高生くらいだろうか。
「けっこう上手ですね」
「ボイストレーナーの資格持ちの君が褒めるのだから相当なのだろうね」
「あくまでアマチュアレベルとして、ですよ」
プロレベルとしては大成から程遠い。でもアマチュアならば十分に上位を名乗れる。もう少しテコ入れしてあげればもっと伸びそうな素質を感じる歌声だ。
「見つけた。彼女だな」
歌の主はお嬢と同年代ほどの少女だった。ちょうど歌い終わったのか、ペットボトルの水で喉の乾きを癒やしている。
世間一般の女子高生の可愛さをシンプルに突き詰めたような子だ。ここまで容姿が整っているならアイドル志望だろうか。
「再開するみたいですね」
「集中しているようだ。邪魔にならない位置へ退避しよう」
彼女の背後へ回るように移動した矢先に歌が再開された。先程は大人の恋愛がテーマのバラードだったけど、今回は挫折と再起を繰り返してきたアイドルがテーマとなるロックテイストの曲であった。むき出しになった心情がしっかりと歌詞と声に乗っている。先程までは通過止まりだった人々も、今回ばかりは立ち止まらざるを得ないだろう。
その歌声を間近で聞いていると、不意にルルーファさんが呟いた。
「七海ナナミだ」
「七海ナナミ? 確か紅焔ちゃんお気に入りの個人Vですよね」
彼女とYaーTaプロの出来事は切り抜きで把握している。彼女の配信にうっかり紅焔ちゃんが介入してしまい、そのフォローをルルーナ・フォーチュンがコメントで行った。結果、ルルーナ・フォーチュンは大炎上。中の人であるルルーファさんは短期間の謹慎に追い込まれている。当の本人はまったく落ち込んでいないけど。それでこそルルーファさんだ。
「彼女の住まいがお嬢の家の近くにあるとは知っていたが……よもやの僥倖だな」
「堂々と表で歌を歌うなんて、すごい度胸ですね。練習ならカラオケ施設だってあるはずなのに」
「金銭的な問題なのかもな。それに彼女は、既に顔バレは済ませているという事情があるからね」
「逆にバズり目的ならアリかな……でも純粋に歌の練習みたいですけど」
「だろうね。しかしそんな彼女も、今や時の人だ。俺のおせっかいの被害者と言い変えてもいいが」
「その言い方は間違ってます、ルルーファさん」
彼女の自虐に対し、躊躇いなく即座に否定した。
「詳しく事情は知りませんけど、『被害者』という表現だけは絶対に間違っています。私の魂を賭けて断言します」
ルルーファさんは頭の回転が早くて、人の気持ちをよく分かってくれる
そんな私の言葉を受けて、一瞬きょとんとしてから、今日一番に柔らかくて嬉しそうな笑顔を向けてくれた。
「……ありがとう」
慌てて視線を背ける。笑顔にいつまでも見とれて変な顔になってしまいそうだったから。
話を逸らそう。
「声をかけるんですか?」
「いや。ギャラリーが集まりだしている。声をかけるにしても悪目立ちだ。大人しく通行人ABとして溶け込もう」
「豪華すぎる通行人Aですねえ、ふふふ」
熱意ある彼女の歌声に、まばらながらも人が集まっていく。彼女は目を閉じたまま歌っているから、周囲のギャラリーに気づかないのだろう。
七海ナナミの熱意。人々の幸せに満ちた笑顔。尊い光景だ。端から見ているだけでも胸が満ち足りた気分になる。いまや10万人超えのVtuberになってしまった彼女だけど、もうその貫禄は十分に持ち合わせている。近い将来、紅焔ちゃんの隣に並ぶ日も近いだろう。
……これでバイクの五月蝿い排気音さえ聞こえてこなければ本当に最高の瞬間なのだけど。
「こんな時にバイク集団だなんて、ついてないなあ」
「そうだな……おや?」
ルルーファさんは不思議そうな表情で七海ナナミから視線を逸らした。
「どうしたんです?」
「この公園内はバイクで走れるのか?」
「んん?」
いや常識的に考えて……ううん、記憶喪失で天然なルルーファさんならありえる考え方か。
「いくら大きい公園でも駄目だと思いますよ。大型二輪っぽいし」
「しかし複数台がこちらに近づいているぞ」
「え?」
音の方向へ視線を向ける。そして観客たち、最後に歌を中断した七海ナナミが音の方向へ顔を向けた。
変化が訪れたのはその直後だった。ひとりの女子高生が草木の影から飛び出したかと思えば、その背後からバイクの集団がけたたましいエンジン音を鳴らしながら追従している。その数は8台ほど。バイク集団はヘルメットやバンダナで顔が見えないけど、十中八九不良さんだよね!?
「ええ!? 何!? 何なの、この世紀末!?」
「おん? 世紀末? 21世紀はまだ四半くらいしか経っとらんだろ?」
「ああいや、そういうジャンルがありまして……」
ルルーファさんがぽかんとした顔を浮かべている間にも、女子高生とバイク集団はこちらへ近づいていた。
決死な表情の女子高生は、バイク集団から振るわれる鉄パイプや釘バットを間一髪で躱したり、学生カバンで受け止めながら凌いでいる。そんな必死に逃げ回る女子高生を、バイク集団は下卑た笑い声を上げながら追いかけ回しているではないか。ご丁寧にスマホで撮影しながら。
あの様子、おふざけなんかじゃない。本当にあの女の子が襲われてるんだ!
『待てよ黒豹ォ!』
『逃げると手加減できねーだろーがよ!』
「おい、あんたら! 危ないから逃げろ! 逃げてくれぇ!」
バイクのエンジン音にも負けない声量で女子高生が叫ぶ。そこでようやく、この騒動が現実だと理解した観客たちは我先に逃げ出しはじめた。
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